概念が覆されるような情報に溢れていて、それらの情報をどう消化して、自分の中で活かしていこうか、試行錯誤の最中なのですが、自分の頭の整理もかねて、また少しずつ投稿していこうと思っています。
まずは、慈悲という言葉について。
慈悲を検索するとまず出てくるのが、 “仏・ 菩薩 ぼさつ が人々をあわれみ、楽しみを与え、苦しみを取り除くこと” という解説です。
私自身も“慈悲” とは、他へ向けるもの、もしくは、他から与えられる/受け取るもの、と捉えていました。
でも、Saarahatさんの説明では、仏陀の言葉がパーリ語からサンスクリット語、サンスクリット語から漢文に翻訳される過程で、本来の意味合いである、
“自分自身を愛しめないのは、悲しいことだ(だから自分自身を愛しみ、大切にしなさい、そして、自分自身にするように、他者に対しても愛しむ心をもちなさい)” が、
(自分を差し置いて)他者を憐れむ、
(自分ではなく、他である仏や菩薩によって、)愛され、苦を取り除いてもらう、、、みたいな、他力本願のような意味合いになってしまったようなのです。
それを受けて、改めて仏陀の言葉を見直そうと、企志尚峰さん著の「仏陀の真意」と、サイババさんの「慈悲」という本を読んでる最中です😁
(サイババさんのは講和をもとにしてるので、口語体で読みやすく、企志さんのは原文のパーリ語を元に理論的に解説してくれているので、並行して読むと理解しやすいように感じます♪)
で、ここからは私独自に考察になります。
“慈悲” という漢字そのものの本来の意味を探ってみようと、慈悲の“慈” という漢字を調べてみました。
そしてまず思ったのが、“慈” という漢字そのものが、「今ここ」である私の心を示してるのでは、ということです。(慈〜茲)
そしてさらに字を分割して調べていくと、“わたくし” を意味する “厶” という字になりました。
私の勝手な解釈ですが、“慈” というのは、“わたくし” という存在があって、成り立っている文字なのではないかなぁ、、、そんなふうに思いました。ちなみに、“厶” という字を調べると、韓非による次のような解説がありました: 文字を発明した蒼頡がこの字を作った時、“自ら営む” を厶という記号で表した、、、加えて、“八=背く” と “厶” で、“私に背く”、すなわち、“公” である、、。
、、、公の場での自分は、私に背いた、私にあらず、、、なるほど〜と思いました。
まだJSPは終わっていないのですが、JSPで受け取ったことを自分なりに整理しながら少しずつ投稿をあげていこうと思うので、またお付き合いください😊
ではでは
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