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ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

臼井城

2025年04月02日 | 日記

私は、地理は好きなのですが、歴史はあまり好きではありません。

でもその中でも鎌倉時代の執権時代の北条時宗や政子の時代です。

また、元寇の時代が今の時代の話と似ているところがあり好きです。

それから北条政宗の時代も色々ミステリーなところもあって好きです。

 

他の時代だと、戦国時代の上杉謙信の話は好きです。

軍記物だけでなく、史実でも確かに強かった上杉謙信ですが、唯一敗戦を喫した合戦が千葉県に伝えられています。

それが1566年3月23日の「白井城の戦い」です。

上杉謙信の本拠地は越後でしたが、敵対する小田原城の北条家との戦いのため、毎年のように三国峠を越え、

関東に攻め込み、北条家の諸城の攻略に取り掛かっていました。

この年も正月から関東に進軍すると2月に北条方の小田氏治の小田城をあっという間に攻略していました。

臼井城は広大な二郭で、家族連れやペットの格好の遊び場です。

奇麗なトイレもあり公園としても安心して遊ぶことができます。

二郭から主郭へと向かうところには虎口の土橋があり、両側は大きな塀となっています。

先にも述べたように、「軍略の天才」とも呼ばれる越後の上杉謙信ですが、そのすべての戦に勝利したわけではありませんでした。

謙信を相手に一歩も引かないどころかむしろ追い詰めるほどの将兵も存在していたようです。

なかでも謙信最大の敗北ともいわれるのが、下総で1566年に起こった「臼井城の戦い」です。

謙信を退けたという臼井城の将兵たちとはどんな人だったのか。戦いの概要を見ていきたいと思います。

1566年1月末、謙信は下野の佐野に向けて進軍。そののち常陸の小田城を攻略します。

直後には下総の西北部へと兵を進め、同年3月には江戸湾の海上交通の要港がある船橋を掌握しました。

謙信は1万5000の兵で臼井城を包囲。

対して城兵は2000ばかりという圧倒的戦力差がありました。

原胤貞は旧主である千葉氏や後北条氏に援軍を要請。

しかしながらわずかな増援しか差し向けられませんでした。

上杉軍の攻撃を受けた臼井城は、3月20日時点で最後の濠を残すばかりという落城寸前の窮地に陥ります。

しかし、臼井城に在陣していた千葉氏家臣の名軍師「白井入道浄三」の巧みな戦術。

そして「赤鬼」の異名で知られた後北条家臣「松田肥後守康郷」らの捨て身の奮戦により、

謙信は生涯最大ともいわれる敗北を喫することになります。

臼井城の戦いにおいて指揮権を委ねられた白井入道浄三。

出自は不明ながらも千葉氏三代に仕えたとも伝えられる武将です。

現代でいうところの作戦参謀としても優秀でした。

占術的な知識をもとにした戦での吉凶理論を巧みに操り、城兵の士気を大いに鼓舞しました。

また、松田康郷らの突貫攻撃を最適なタイミングで指示。

その次には城の間際まで上杉兵をおびき寄せ、城壁を崩して一網打尽にするなどの智略を駆使して謙信を撃退しました。

その後、敗北を悟って撤退していく上杉軍を追撃。

大きな痛手を負わせるなど目覚ましい指揮能力を発揮して臼井城を守りました。

その後、臼井城攻略に失敗したことから、謙信のもとについていた関東諸勢力が次々に離反するという事態を招きました。

謙信の関東攻めはその後も継続するもその失地は回復できぬまま、当地における優位性は大きく損なわれる結果でした。

これは臼井城の入口にあった古峯神社新築記念碑です。

ただしこれはどの時代の物かはわかりませんが、洒落た場所です。

 

これは七井戸公園の入り口です。後ろの出口は臼井駅の王子台というところで、とにかく立派な住宅地が広がっており、少し驚きました。

七井戸公園は京成臼井駅南口から徒歩約20分歩いたところにある公園です。

自然と都会的なセンスが調和した美しい公園です。

近隣の方はもちろん、休日は市外からも多くの方が訪れているようです。

広い園内には、大きな池や広い芝生の広場、大型の遊具があります。

夏場は水遊びができる噴水を期間限定で開放しているようです。

また、池の周りにはお散歩に適した遊歩道があり、子どもから大人まで楽しめる人気の公園です。

 

前回行ったユーカリが丘線のいい写真が見つかったので、ここに入れておきます。

 

今日はこの辺で終わりたいと思います。また次の機会にお会いしましょう。


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