安倍元首相の国葬で菅元首相の弔辞が話題になった。
概して評判が良かった。
しかし私には何ともいえぬ違和感を拭い得なかった。
安倍元首相の功罪はまだ定まっていない。それを功だけ取り上げて称賛することの違和感。
自民党と内閣による国民葬であれば、それも良しだろう。
世論が賛成と反対で大きく分断される中で、このやり方は望ましくない。
結局安倍国葬後も「もやもや感」は残ったまま。
さらに傷口を広げたかもしれない。
明治時代における山形有朋と伊藤博文の役割をどこまで理解した上であの歌を詠んだのだろうか?
かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ
山形有朋
山形は政治家ではあったが軍政家であり権謀術数にたけた人物と見られている。
(ただ和歌は多作家でそれなりに見るべきものはあるようだ。)
議会・政党に不信感を持っており民主主義思想や普通選挙拡大について警戒していた。
一方の伊藤博文はドイツに憲法調査のために渡欧し、日本において大日本国憲法や国会開設にこぎつけた。
伊藤博文を安倍晋三に、山形有朋を菅義偉本人に例えているようだが、少しやりすぎではないか。
伊藤博文は韓国併合を閣議決定後、ハルピン駅頭で安重根に殺害された。
安倍晋三は朝鮮半島絡みの統一教会に恨みを持つ人間の凶弾に倒れた。
国葬で、このような歌を堂々と歌い上げるのは、常識のある人間だったら避けるのではなかろうか?
もっともこの歌は、当の安倍晋三がJR東海・葛西会長の追悼で使ったネタの使いまわしだったと「リテラ」にすっぱ抜かれている。
おそらく安倍晋三は山形有朋的なものを目指していた。
伊藤博文に擬せられることは不満であろう。
山形有朋は長州閥の人間を重用し軍国日本の流れを築いたと言えるだろう。
1922年、山形は長寿を全うし国葬が執り行われたのだが、「寒鴉古木のような寂しい民抜きの国葬」と評された。
伊藤博文の政敵であった大隈重信は、心の中では伊藤を評価し敬愛していたようだ。
伊東がハルピンで暗殺されると、
「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたという。
大隈は山形と同じ1922年亡くなったのだが、国葬ではなく国民葬だった。
「不老長寿のような大隈侯の華々しく盛んであった国民葬」と言われ、30万人が参列したという。