日本における意思決定の仕方は、明らかに民主主義の原則から外れている。
民主主義の大原則は、決定した人間が責任を取るということだ。
ところが日本ではどうか、政治学者の小室直樹がいみじくも次のように語る。
「民主主義であるかないかの識別条件として、日本人は相手の気持ちを察して、相手が怒らないようにするというのが民主主義であると思っちゃってるが、ある意味ではこれほど非民主的なことはありませんね」
例えば自民党の総務会の決定というのがその典型。
全員一致が大原則で反対する者はそっと会議場から消えるらしい。
要するに「みんなで渡れば怖くない」ということだ。
一人で責任はとりたくない。
「決断した人間がいないということは、すなはち、誰も責任を取らない」
小さな町の町内会から大は大企業の役員会でも似たようなものである。
大ぜいが集まっていざ会議を始めるというが、会議の前から話はついている。
会議の場で異論を唱えようものなら、「あいつは空気が読めない」ということになる。
また民主主義を、「多数派の絶対」とわざと曲解して、少数者や社会的弱者には耳を貸さない政権が続いている。
本来このような問題は鋭く指摘すべき「大手メディア」の劣化も著しい。
結局このような流れが、今の日本に大きな閉塞感を生み出しているのだろう。
そんなことを考えたら旧来の「疑似民主主義」の方が日本人の体質に合っているのかもしれない。
日本の民主主義は、あくまで借り物で、台風や地震のように向こうからやって来るから「うまく対処しよう」とするだけ。
少なくとも、独裁権限を誰かに与えてそれに従おうということにはなって欲しくないものだ。