平忠度(たいらのただのり)は平家一門の武将で平清盛の異母弟。
忠度は源氏の大軍に追われ、いったんは京都を離れたが、7騎で京に戻り短歌の師であった藤原俊成のもとを訪れる。
「この世を去るにあたって、一つだけ心残りは、教えていただいた歌が一首もこの世に残せないことです。私の作った歌が百十数首ありますのでこの中の一首でもよいから、勅撰集が出た時にぜひ採用していただいたらこんなにありがたいことはありません」
俊成(千載和歌集の選者)は勅撰集の中に朝敵の名で載せるわけにいきません。そこで「詠み人知らず」として載せたのが次の歌です。
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」
また次のような歌も残している。
「行きくれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」
忠度の生き方は、武士でありながら自然の中で自然を愛した爽やかな心根が、共感を呼ぶのだ。