演劇人 RAKUYU

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偉大な僧侶『徳本上人』 part3

2015年04月16日 | 日記
紀州55万石城主徳川重倫候の性格は凶暴で侍従、侍女をお手討ちにすることはたびたびであった。しかし、見識は諸侯中随一で非凡のようであった。病床の重倫は一度、噂に名高い徳本上人を城内に召せとお命じになられたことがありました。和歌山城へやってきた上人は草庵で念仏する姿のまま、長髪を腰までたらし、粗末な袈裟をかけただけで、あたりをはばかることなく、念仏をしながら御門をくぐり、大奥の間で殿様にあいさつの念仏を唱え始めた。
殿様は上段の間からおりて、上人に座布団をすすめられ、平伏して凡夫の姿かえっていた。殿様の病気の原因が多くの子女を手打ちした良心の呵責であることをすぐに見抜いて、説教をなさいました。殿様は念仏の修行者になり、病はよくなりました。お布施として、母親への屋敷を賜りました。
後に出家し、大真と号して、84才の大往生されました。その後、殿様の第2子、紀州徳川藩主第10代治宝公も念仏修行された。
摂州勝尾寺の総代石覚院から住吉の徳本上人のもとにむかえが来ました。松林庵という霊道場を作り、弟子達の教化にあずかりたいとの願いでした。
全国から多くの僧が徳本上人をしたってやってきました。
44才に初めて勝尾山に入り念仏修行されました。生家の裏山、千津川の水行、大滝川の荒行、萩原山での断食、須ヶ谷山の修練、住吉赤塚山の鍛錬、そして、勝尾山松林庵。
苦行、修練の時期から人々を教化する段階にいるのだと上人自身悟っていたのかもしれない。法然院で47才の上人は20年ぶりに剃髪をした。
46才の頃、鷹洲という弟子をたより、江戸の小石川伝通院に向かった。江戸の町民には信仰の異常な一大旋風が起こっていた。異風の行者に心魂を奪われていく現象に、寺社奉行から取り調べを受けることになった。
また、上人は各地での念仏修行をもつまれました。日光、千葉小金、教徒、越前、明石など。

57才のころ、江戸増上寺の住職からたびたび、関東にて説法を広めるように懇請されました。大群衆に見送られ、勝尾山を下り、江戸へ出発しました。途中、京都円通寺で大勢の人に説法、仁孝天皇、御所の女房、公家に仏教入門の儀式をあげられた。桑名の渡し場でも送り船が大挙して集まり、船団となって念仏が響き渡りました。
新井 、箱根の関所では関守たちが上人の『お十念』を乞うのでした。江戸小石川の伝通院の境内に清浄心院が設けられるのを知った町民は「一目上人を拝みたい」「お念仏を授かりたい」「お説法を聞きたい」といって集まってきました。境内に人々が立ち並び、上人は本堂の玄関に立って念仏や説法をする毎日でした。それからも、各地から布教の依頼が押し寄せるのでした。伊豆、相模、神奈川、中原、小田原、三島、下田、稲取、八幡野、伊藤、熱海、鎌倉、浦賀、下総、鹿島、銚子。
晩年には北国巡教がはじまりました。信州、唐崎、高山、富山、金沢、今石動、坂下、西岩瀬、糸魚川、高田。

59才の頃、自らお疲れを感じ、小石川一行院を捨世道場と定められました。当時から近年も町民には「徳本山のお寺」として知られています。
61才、体調を壊されますが、いっこうに養生する気配もなく、念仏をあげられます。弟子達に「今から我がために17日間、念仏をつとめよ。わが臨終もちかい」「今日はわれの往生する日である。16才から一日も横になって寝なかった念仏行者であるから、座ったまま往生するのはたやすいが、お釈迦様にならって、横になろう。」
何の固執もなく笑って布団の上に横になり、「さあ、これからお念仏しよう。」といって、唱えます。その念仏の強いこと、高いこと、若い頃よりも全身全霊で響きわたります。
「筆と硯を・・・」と申され、すらすらと書かれた。


南無阿弥陀仏 生死輪廻の根をたたば
身をも命も惜しむべきかは


文政元年十月六日酉の中刻  御年61才  往生