演劇人 RAKUYU

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ふるさと再発見1 和田勇

2014年10月22日 | インポート

1907年《明治40)御坊市名田町祓井戸出身の和田・ジョン・善兵衛と由良町戸津井出身の玉枝との間にフレッド・勇はアメリカのワシントン州べリングハムで日系2世として生まれた。4歳の時、妹と一緒に名田町の祖父母に預けられた。5年後、事業が軌道にのった父親に呼び寄せられるが、母親はすでに亡くなっており、後妻がいた。その後事業がうまくいかず、、兄弟が増えていく中、12歳の時、牛乳配達や住み込みの農園で働くことになる。。

17歳の時、八百屋の店長に抜擢され、商売を身につけていき、20歳の時、独立して店を持つ。26歳に結婚してから、3店舗と25人の従業員を抱えるようになった。

1941年、真珠湾攻撃で戦争の火ぶたがきられると、日系人への目が激しくなっていった。強制収容所がはじまる中、生きるためアメリカ人として農園労働者として、すべてを捨て、ユタ州へ集団移住した。過酷な労働、貧しさで仲間は挫折していった。勇一家も土地を離れた。

1948年、ロサンゼルスでの青果店事業が軌道にのり、10店舗に広げていった。ある夜のこと、全米水泳選手権に参加する日本の選手が宿泊所を探しているというニュースを目にする。

「日本選手のためにお役に立ちたい。」ということで、選手のお世話をすることになった。当時の新聞は「ジャップ」と伝え、観衆からも蔑視の目で大会当日を迎えていた。しかし予想に反し、日本勢の活躍は観衆を驚かせた。圧勝である。『フライング・フィッシュ』『ジャパニーズ」という称賛の声が上がった。

日本に招かれた勇は『東京でオリンピックをやりたい。そのため、力を貸してください」という依頼に「日本のため喜んで・・・」と快諾する。

そして、東京が開催地と決まるまで、何年にもわたって、各国へのロビー活動が始まるのでした。

1964年、第18回東京オリンピックが開催された。

敗戦国として自信を無くしていた日本が「オリンピック」という祭典を機に自信を取り戻していくことになるのでした。

そこにはフレッド・勇の一途な思いがあるのです。

『私は日本人が好きでならんのです。日本のために少しでもお役に立てればと願ってますんや。』