演劇人 RAKUYU

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南方熊楠 1

2015年09月19日 | 日記
幼少期: 父方の家系は日高郡入野で代々庄屋を務める。熊楠の父、弥兵衛は庄屋の次男として生まれる。13歳の時、近くの御坊で丁稚奉公に入る。のち、和歌山市の商家の番頭となり、金物商の雑賀屋に見込まれて、入り婿となった。雑賀屋老母と一人娘が女の子を抱えての再婚であった。    弥兵衛との間に二人の男の子をもうけるが、老母も妻も死去。3人の子どもを育てるため、後妻を迎える。それが、熊楠の母である。兄、藤吉、姉くまが生まれ、1867年次男熊楠が生まれる。
雑賀屋は弥兵衛が婿入りしたころは家産が傾き、立て直すのに必死であった。幼少の熊楠は金物屋で鍋釜を包むための反古紙に書かれていた絵や文字をむさぼり読み、写本しつつ成長することとなる。
8歳のころ、日本の最初の百科事典「和漢二才図会」を借りて読んだり、記憶したりして、筆写を始めた。詳細な図解をふくめ、81冊105巻すべて3年かけて写し終えた。
12歳で和歌山中学に入学し、鳥山啓の教えを受け、博物学の才能をのばす。入学後、ある日のこと、古本屋の「太閤記」を読みふけった。        時間が流れた。熊楠少年はやおら本を閉じ、元にもどすと、夕暮れの城下町を一目散に、わき目もふらず、数キロ離れた家へ帰った。『忘れんよう、忘れんよう。』と家に着いた熊楠は息を整えるのももどかしく、巻紙にかぶりついた。読んできたばかりの字を脳裏から一つ一つ取り出して、記憶を丁寧に写し取っていった。しかし、学校の成績は良くなかった。関心のあるテーマに熱中し、書物を読んで、写し取る。一方、動植物を観察するために、山に入って、数日戻らず、両親を心配させたりした。       いつしか「天狗(てんぎゃん)」というあだ名がつけられるほどであった。13歳の時の「動物学」は英語の本を参校にし、自作の教科書を作る。        そして、幼いころから、学校の授業に出ず、植物採集に明け暮れていた。