演劇人 RAKUYU

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偉大な僧侶『徳本上人』 part2

2015年03月28日 | 日記
徳本の念仏精進は決死の覚悟をもって、はげしく不退転の努力で続けられています。
 ある日のこと、生家の仏前で念仏をしていると、八寸ばかりの阿弥陀如来像が一丈あまりの立ち姿で光明を放ち、徳本の頭を撫でられ、傍らにいた母親も深く拝礼された。又あるとき、仏前の花瓶の蓮の葉が一枚できたり、二週間ほどたつと、つぼみが一本生え、のちに念仏を唱えると、蓮の花が咲き、光明が花の中から花びらを染め、部屋中を明るくしたことがあったとか・・・隣で寝ていた母親は火事かと思うほどの明るさで、仏間をのぞくと、光の中に徳本の念仏姿が見えているのでした。    
 徳本上人は16歳のころから、わずかの時間、座ったまま眠りにつき、あとはひたすら念仏を唱え続けるのでした。夢の中で、11面観世音菩薩が現れ、『わがところに来て、修行すれば利益おおからん・・』とお告げがあった。我が所とは現在の日高川町千津川の落合谷であった。   
 千津川の荒行は6年におよび、その衣食は地元住民の供養で行われた。34歳の徳本上人は生家に帰る途中、萩原という村を通りますと、住民が徳本上人を取り囲み、『どうか、説法をお聞かせ下さい.』『私たちにお導きを・・・』と大勢の百姓が押しかけてきました。 
翌年、和佐駅から10キロあまり山奥、大滝川というの月照寺の近くで30日間の修行をすることになった。  その後も有田郡須ヶ谷、海草郡塩津、加茂谷の仮庵での念仏修行に遠くから船でやってくる人々でいっぱいになっていました。
 この頃、徳本上人36歳。人生の中で華やかな時である。偉人の歴史をひもといてみても、この年頃が一番活躍しているときである。 
 ある年の九月、塩津から弟子5人をつれ、熊野詣に旅立った。新宮神社の祭礼で行事を見物していると、行列の新馬が上人の前でぴたりと止まり、手綱を引いても動こうとしません。その時、上人が合掌され念仏をとなえると、新馬は首を振って動き出しました。熊野詣の帰り、富田の酒屋で一泊され、秋津川のほとりで托鉢の米をひと握り、川にまきやりますと、鮎や鮒、ハイがよってきてむさぼります。
念仏を唱えながら一升の米をまかれますと川は黒くなるほどの川魚が集まってきました。その様子を5人の弟子は『徳本行者勅誡聞書』三巻の中に納められた。 
 富田を通られるという噂は村中にひろがっていました。『当家の娘が大病にかかって難儀しております。もう、命も危ないようで・・・』『大変な苦しみようで・・・』『どうか、上人様、哀れと思し召し、立ち寄ってお慈悲を・・・』と道にひざまづいて哀願しますので、大家の屋敷に入っていきますと、17,8歳の娘が臨末の苦しみでもがき苦しんでいました。
大勢の人達をさがらせ、病人の枕元で静かに落ち着いた低い声で念仏を授けると、しばらくして、病人の顔が穏やかになり、涼しい目をあけた。
上人は少女に阿弥陀仏の浄土へ参るなど説法されて念仏を授けると、少女は喜んで念仏を唱え、息を引き取った。
隣室の人々に『只今、極楽往生し終えられました.』と伝えると、大勢の人の泣き声で障子が打ち震えるのでした。上人は『あなた方は病人の苦しみと悲しみで地獄へ追いやろうとしておった。私が極楽往生させたのを喜ばず、嘆き悲しむとは何事ぞ。娘をかわいそうに思うのなら泣くことを念仏の声に変えなさい。』といって、錫杖をもって旅だった。 
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日高町久志から生まれた偉大な僧侶『徳本上人』

2015年03月17日 | 日記
徳本上人は江戸時代の念仏行者で、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え、日本各地を行脚し、民衆の苦難を救った。信者は近畿、東海、信州、関東、東北地方でひろがり、現在も『徳本講』は引き継がれ、人々に大きな影響を与えている。

宝暦元年(1758年)日高町久志の農家に生まれ、幼名は三之丞。
4歳の頃、幼友達の突然の死に驚き、嘆き悲しんでいた。「寅さんはどこへいったんか?また、あえるんか?」と母にたずねました。母は「寅さんは仏様の国へ行ったんよ。死んだ人に会うことなんぞできようか。」という答えだった。母は泣き叫ぶ息子を見るに忍びず、「死ぬというものは、尊い人でも、卑しい人でも若い人でも、年とった人でも、だれ一人免れられんもんや。いったん、死んだら帰ってくることはできん。今の別れを嘆くより、御仏様に頼り、お念仏を唱えるより方法がないんや。いずれまた、極楽浄土で合うことができるよ。」と諭し教えました。母の教えが幼児三之丞の心の奥底に刻み込まれました。

上人が偉くなられた頃、折に触れ、入信の動機を次のように言われていました。
『我、昔、4歳の時、無情の嘆きしは、今もなお、忘れやらじ。』

9歳の頃、とうとう出家したくなり、父母に申し出たが、跡継ぎであった上、真っ正直すぎたので許されなかった。10歳のころには念珠を袖に入れ、念仏を唱えているので、まわりの大人子どもから嘲笑されていた。

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