演劇人 RAKUYU

https://blog.goo.ne.jp/matumotokouji

南方熊楠Ⅱ

2016年01月05日 | 日記


和歌山中学を卒業後、東京大学予備門に進んだ熊楠でしたが、この年の2月に退学した。平均的成績を求める教育に魅力を感じず、大学をあきらめた。故郷へ戻ると、米国行きを決意した。渡米の直前、友人に若い青年の気迫の言葉を残している。
『僕もこれから勉強を積んで,洋行を済ませた後は、降るアメリカを後に見て、晴れ日本に立ち帰り、一大事業をなしたあと、天下の男と言われたい。』
【青年期】
サンフランシスコに着いた熊楠は商業学校に入学したが、7か月で中退。ミシガン州立農学校に入学するが1年余りで退学する。のち、顔見知りの日本人学生が多いアナーバーに落ち着く。『小生は大学に入らず、例のごとく、自分で書籍を買い、標本を集め、もっぱら図書館に行き、広野林に遊び、自然を観察す。』1889年五大湖のひとつ、エリー湖へ米国放浪15年の飯島善太郎と行くことになった。『おい南方。あぬし川に生えている蓮を見たことはあるか?』
熊楠は読みかけていた本を閉じて、にやりとして、顔をあげた、『蓮は川に生えぬ。もうちょっと気の利いたホラをふけや。』飯島はカチンときた。『じゃ、一緒に行ってみるか!』ヒューロン川の湖畔に行ってみると、わが目を疑った。岸辺一面に黄金色の蓮の花が咲き乱れ、穏やかな流れをうけて、揺らめいていた。・・・書物だけでなく、実地観察で真実を追ってきた熊楠であったが、いつの間にか、机の上で得た「常識」にとらわれているのであった。
不況などで故郷からの仕送りは途絶え、食うや食わずの苦学を続け、生きる道をつかみあぐねていた22歳の青年熊楠であったが、新たな生きる指針をみつけるのであった。『日本のゲスネル』として大博学に通ずる道であった。が簡単ではない。『なにもすることがない・・・』と嘆き、ため息をつく毎日を過ごし、見えない大きな壁にぶつかっていたのであった。

~スイスの博物学者コンラード・フォン・ゲスナー(1516~1565)
本業は医師。あらゆる動植物の調査を行い、図解辞典『動物誌』を作成した人物。
生物諸類の譜を大成するのに苦労する。乞食のような格好で諸国を走りまわり、
牧童の話、漁婦の言葉すらさげすまずに記録し、実否を調査した。