松ちゃんの徒然草

私、松ちゃんの見たこと。感じたことをFacebookなどに徒然に書きとめてみました。最近はかなり怒った内容ですね。

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今の日本の恐慌を「資本論」からみる

2010-09-24 09:05:57 | Weblog
 今日は、かたい話ですみせん。今の経済政策が私たち国民にとってどうなのか? 
 マルクスの「資本論」からの解説により考え方を記述してみました。(参考書:科学的主義を学ぶ 著:不破哲三 新日本出版)

 マルクスは、まず、資本主義という経済社会の特質としての「生産のための生産」の傾向を、「生産の無制限的な増加」、「自己目的としての生産」、「労働の社会的生産諸力の無条件的発展」、「生産諸力の絶対的発展」などいろいろな表現で取り上げ、そこに「資本の歴史的任務」と「歴史的存在理由」があること強調している。
・資本主義の生産関係のもとでは、「生産のための生産」は、生産の担い手である生産者たちの犠牲で行われ、「生産者大衆の収奪と貧困化」がいやおうなしに進行する。
「生産のための生産」を旗印に、どこまでも生産力を発展させ、あらゆる障害を乗りこえるはてしない経済拡大への傾向と、資本主義の生産関係のせまい枠組みとの間の矛盾と衝突・・マルクスは、資本主義のもっとも深刻な矛盾、「恒常的な矛盾」を見たのでした。
・「資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させ、かつ、この生産力に照応する世界市場をつくり出すための歴史的な手段であるとすれば、この資本主義的生産様式は同時に、その歴史的任務とこれに照応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的な矛盾なのである」。
・恐慌こそは、この矛盾と衝突の結果を、もっとも鮮明な形で示したものでした。
マルクスは、恐慌の原因を、「すべての真の恐慌の究極の根拠は、依然としてつねに、資本主義的生産の衝動と対比しての、すなわち、社会の絶対的消費能力だけがその限界をなしているかのように生産諸力を発展させようとするその衝動と対比しての、大衆の貧困と消費制限である」。
・社会的な購買力の限界を考えないで、生産力をどこまで拡大してゆく資本主義的衝動と、生産者大衆の消費を低くおさえこむ資本主義的抑圧との矛盾を、日本国民は過去、数度も経験してきた。
バブルの時代には、日本経済主義は、経済拡大の無限の展望が開かれていると思いこみ、「生産のための生産」、「開発のための開発」に明け暮れたが、国民の消費力のせまい限界にぶつかったとき、無制限の経済拡大をめざす「資本主義的生産の衝動」は崩れ去り、バブルは崩壊した。
・それ以降、日本経済はバブル崩壊後の不況から抜け出せないでいます。この不況の一番の根底をなしているのが、国民の個人消費の低迷・・マルクスのいう「大衆の貧困と消費制限と」にあることが原因です。
 しかし、政府と大企業がおこなっていることは、今いちばん必要な国民の生活へのテコ入れでなく、社会福祉の切り捨て、人減らしのリストラなど、生産者大衆への消費を直接へらすことばかりです。こんなことやれば、不況からぬけだせないことが分かっていながら、利潤第一主義という「資本の魂」にしばられ、大企業自身もそれを支援する立場の政府も、その泥沼から抜け出せない。
マルクスはこのことをさして、「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」と言っています。これこそは、資本主義経済の矛盾の本質を言い当てています。

みなさんも一緒に考えてみませんか。

水木さんの古里を訪問しました、ゲゲ

2010-09-21 22:54:35 | Weblog
 先週末、水木さんの古里・・境港市を訪問しました。
 妖怪ロードは、おおやまの人盛りでした。
 多くの楽しい妖怪が私を迎えてくれました。その表情豊かでユーモアでした。
 これらの像は、小さなブロンズ像ですが、芸術品です。
 みなさんも妖怪美術館を訪問されたらいかがですか。

クルマモドキバッタだそうです?

2010-09-11 17:38:53 | Weblog
 地域の子どもたちの昆虫観察会に、子どもたちの最後尾に参加しました。
 まず、部屋で先生からエンマコオロギやアオマツムシなどの虫の鳴き声のお話があり、
メスは鳴かないようで、オスのみメスを求めて鳴くそうである。これには、私がほかの
他人から鳴かされているな真情を思うとせんないと感じた。
 
 その後、屋外にでてバッタ(もちろん名前はある)、エンマコオロギなどの採取・同定
で私も子どもたちもワイワイガヤガヤ。とにかく賑やか。

 その後、部屋にもどり、先生からクワガタの生態や飼育についてお話があった。
 写真は、子どもたちが虫を飼育箱にいれた様子を撮影させてもらった。昆虫名は、
クルマモドキバッタと教えてもらった。私このクルマモドキバッタの名前を何回
も聞くもんだから、子どもたちはいささか迷惑そうであった。

 いつも、子ども心であるが、より一層子どものなった。
 ああ、嬉し。