Kamu Number Theoryと相似象

英文サイト. Kamu Number Theory では言及しない相似象のことなどはこちらで。

4-1-1,(前編)数学モデルの理不尽なまでの有効性

2020-08-10 09:31:15 | Post:投稿闌

(4)万物は情報である─ドイチの量子コンピューター

4-1-1,(前編)数学モデルの理不尽なまでの有効性

◇数学の理不尽なまでの有効性(ウィグナー)

科学者、とくに物理学者は次のような疑問を心の底に抱えているという。数学モデルから予言された新素粒子の数々、ウィグナーの分類で知られる量子物理学者のユージン・ウィグナーは自身の心の奥を探った。

1,数学が役に立ちすぎるのはどうしてか?
   → 数学は途方もなく役立っているのだが、そのことには何の合理的説明もない。
2,数学の成功はなぜ不可解に感じられるのか?
   → 理不尽なほど重要な役割を物理学の中で演じている事実があるのに。
3,1つの数学モデルから異なったいくつかの物理モデルが生まれるのではないのか?
   → という漠然とした不安を拭えない。
4,現実の世界で経験の中に、複素数を登場させるようなものは全然ないではないか?
   → 理不尽である。
5,複素数は、自然なのか、単純か、あるいは観察に出てくるものではないのに、
   → 理不尽である。
6,複素数は、計算を楽にすることもない。物理法則の定式化にとって
   → 必要不可欠だから使われているだけじゃないのか?

ウイグナーのこれらの言葉から、数学モデルを考えるに当たって避けられない思想である” 数学の理不尽なまでの有効性 ”という問いかけをKamu Number Theoryから見てゆきたい。

ところで、私はウイグナーの言葉に次のものを加えたいと考えて居る。

7,自然数って
   → 私たちが体験する自然と同じ根っこから生まれたものの中に存在する実在なのか?
8,数学的帰納法は
   → 自然数を巧みに使った手品みたいで、理不尽に感じるのは何故なのか?
9,ゼロ
   → 「相等しい 2つの数の差」と便利な単位数としている、技術的な印象が強いのは何故か?
10,虚数の存在は
   → 認められるまでの歴史が苦渋に満ちたものだ、その理由は十分説明されていない、何故?
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これらを眺めてみると、1つの傾向に気づくことだろう。それは、”複素数”という不可解なものが、何で?、、物理学の中で主導的な役割を果たし、それにも増して理不尽なほど予言的な成果を"計算=方程式”によって鮮やかに導きだしているのだろうか?

こうして考えてゆくと、自然数と虚数の不条理に行き着くのだ。そして、これは ”(その4)- 2,虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン” へと続くテーマでもあるのだが、しばらくウイグナーの問いかけに対して、Kamu Number Theoryからの答えを見つけてゆこうと思う。

さて、虚数に至る道を辿るには数学モデルがいかに強力で、しかも具象を既に知っていたかのごとくに導き出すかを見て行きながら、ウイグナーの気分を味わってみたいのだ。その具象が次に述べるコンピューターなのだ。

(ウィグナーEugene Paul Wigner 1902〜1995、ノーベル物理学賞1963年、晩年に哲学的な傾向を深めた。1960年に公開された講演録「自然科学における数学の理不尽な有効性」は有名;ウィキペディア)


◇数学基礎論から生まれた数学モデルのチューリングマシン

コンピューターの基礎を築いたチューリングは数学者だ、したがってここに示した物理学者の煩悩は持ち合わせていない、というより必要が無かったと言うべきだろう。D ドイチが現れるまでは、チューリングマシンと虚数は当初なんの関係もなかったのだ。

複素数は数学にとってどうしても必要だから生まれ、代数学のなかで育てられてきた。ところが、純粋数学とは別の道を辿った物理数学という分野が解析学という姿で発達し始めると、数学的な矛盾に突き当たることになった。フーリエ関数の「連続性 → 微細構造」の問題だった。

表向き、数学基礎論は数学内部の矛盾を解明し解消することが目的と言われる。だが、実際には解析学の精度と安定性を向上するという目的が裏にあったと私には思われる。これを裏付けるように、数学的帰納法という極めて技術的な手法が数学基礎論の基調となっているのだ。

帰納法が技術的だと決めつける私の考え方はこれから説明を加えてゆくのだが、既にアブダクションに触れたところで見たように、パースが100年前に先鞭を付け、更にポアンカレが指摘していたものだった。


(その3)-7、ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory

付け加えれば、ちかごろディープラーニングなどのAI領域の研究、あるいは直観を経営現場に応用するなどの必要性によってパースは復活した。西田幾多郎の復活が言われているのも同じ理由になるだろう。

この数学基礎論に挑戦したパイオニアが誰でもご存じカントールの集合論だ。カントールは、150年ほど前にあっては境界領域への越境者だったことになる。

さて、基礎論の素人であるペンローズもこの領域に越境者として踏み込んで議論し、基礎論の専門家から猛烈な反発を食らった。

と言うわけで、素人と専門家の問題は、このあと ”(その4)- 5,万物の理論とバベルの塔(専門家と素人)” で詳しく見たいと思う。かなり重要な問題だと私は思うのだが、なかなか真っ正面から見ることのない問題だ。

チューリングは驚くほどシンプルで物理的な具象モデルによって複雑な計算をする機械を製作できるという仕組みを計算モデル(数学モデル)として作った。

シンプルを極めた仕組みのチューリング原理は、現在のコンピュータだけでなく,未来のコンピュータの能力とも等価である抽象的な原理を提示できたところに驚くほどの高い価値があると見られている。

更にこのチューリングマシンのシンプルさという構造は、今後極めて重要な意味合いを持ってくることになるのだ。ナノレベルのミクロの世界において、ペンローズの微小管量子コンピューターの構想がこのシンプルな構造と結びつくことになる。

ペンローズはチューリングによる発見の重要性を見い出してその名称に原理を冠し、” チューリングマシン原理 ” と命名をした。これは彼が専門外の数学基礎論を徹底的に探求しようとした姿勢の中から生まれた。

チューリングは数学基礎論の課題としてこの計算機モデルの原理を発見し、さらに物理的なメカニズムまで見出してしまった。つまりチューリングは境界領域に乗り出していたのだ。これは、人工知能の研究も視野にあったチューリングらしいものだ。

D ドイチは数学モデルから生まれた物理的メカニズムが驚くほどの自由度を持っている事を発見した。ところが、このモデルの持つこの重要な特性にペンローズは気づくことがなかった。ペンローズにとってはチューリングマシンは古典的コンピューターにだけ通用するものと考えたようだった。


◇数学モデルの不完全性は健全性の証し

ここで、ゲーデルの不完全定理証明の仕事を整理しておきたいと思う。まず、不完全性と言う言葉に惑わされてはならない。数学の危機だなんて大騒ぎになったこともあるこの「不完全性」という言葉、実は奥が深かったのだ。

言葉の印象とは裏腹に、「不完全だから健全なんだ」と言うことなのだ。エッ!と思うことでしょう。そう、逆に「完全な数学モデルは何か神ががった力で計算することが可能なのかもしれませんが、 普通のやり方では、完全な自然数モデルの算術は人間には取り扱い不能」ということなのです。
(引用:http://wwwa.pikara.ne.jp/okojisan/infinity/incompleteness.html

このブログの著者はコンピューター技術者だ、だから基礎論の専門家の視野にはない不完全性定理の現場感覚的イメージを聞くことが出来る。そして、私たちに必要な知識とは、どちらかと言えばこちらなのだ。ゲーデルの定理は人類の共有財産なのだから、ピタゴラスの定理同様に私たちにも使えるものである必要がある。

この定理は見方を変えれば、世界は多元的世界なのだと言うことを証明した。つまり「多くの不完全な数学モデルがお互いに不足するところを補っている」と言うことになる。そして、この定理には含まれていないが、数学モデルは進化するという内容を肯定的に含んでいるのだ。

建築物から日常的な生活に至るまで全てを支えているユークリッド空間も、抽象的な数学モデルだ。つまり、この触れることの出来ない抽象的な数学モデルと、知覚に関与する物理的な日常世界との関係をD ドイチと共に探っておきたい。

それまで、唯一無二の実在空間と思われていたユークリッド空間を疑う数学者が200年も前に現れた、なんと大数学者のガウスだった。ガウスは巨大な三角形の内角の和を疑っていた。そこでガウスが行ったのは、

測量技術を巨大三角形に対して実行するという、現代流に言えば実験物理学の手法の実践だ。あの大数学者ガウスが自らの中に生まれた疑問を確かめるために、実験物理を使ったのだ。

よく知られていることだが、ユークリッド空間モデルは相対性理論によって「不完全」である事が明らかになった。これも実験物理の手法で確認された。こうして抽象的なリーマン空間が新たな数学モデルとして認知された。

リーマン空間モデルはユークリッドモデルを特殊な一部として含む、つまり2つの数学モデルはお互いに矛盾したものではなく、相補的な関係を持っている。

さて、ここからゲーデルの不完全性定理から生まれる問題だ。 リーマン空間モデルも「不完全」だという話につながってゆく。物理学としてはゆゆしきことだろうけど、今のところ、小数意見のようだがリーマン空間も最先端の実験物理的方法では「不完全性」が認められるというのだ。

D ドイチもこのことを重視して「数学の本性」という章で突っ込んでくる。「抽象的、非物理的な実体は本当に存在するのか?」と、ここで彼が取り上げている数学的実体とは、ユークリッド空間やリーマン空間、そして自然数などのことなのだが。

D ドイチは、この数学的モデルが私たちの体を「蹴り返す」かどうかを確かめなければならないと言う。ピタゴラスは「万物は(自然)数である」といった、プラトンはそれを一歩進めて「物理的世界は架空のもの → 影にすぎないもの → 蹴り返せないもの」であると決めつけた。D ドイチはプラトンに反対する、蹴り返すことの出来るのは物理的世界だけなのだと。

蹴り返す事の出来ない数学モデルの理不尽なまでの有効性、ウイグナーも、蹴り返すことのない数学モデルが、蹴り返すことの出来る物理モデルと相似なものを生み出す力をなぜ秘めているのか?と、だが、自然数の術縛の中からは答えは見えてこなかった。


◇ピタゴラスの数学モデルと自然数の呪縛

ピタゴラスは万物は自然数であるといった、対してD ドイチは万物は情報だと考えて居る。現代の感覚からすれば、D ドイチの主張の方が受け入れるのは容易だと思う。

しかし、何故か数学者は基礎論を構成するに当たってこの自然数を思考の出発点としているのだ。物理学者の煩悩として改めて浮かび上がった自然数の不思議さ、そして理不尽さを探らなければならないだろう。

こうして数学モデルの伝統ある本丸である『 ピタゴラスの数 → 自然界に実在する数 → 自然数 → ドミノ倒しモデル → 数学的帰納法 』に至るのだ。

ここで数と自然数とでは区別しておくことが肝心だ!ピタゴラスとプラトンは自然数の世界の住人なのだった。自然数こそ実在する自然、私たちを蹴飛ばすのは数そのものであるという結論に彼らは到達していた。

数と自然数とを区別する必要性を別の見方で言えば、「抽象的な数」と「自然界に実在する数」の違いと言える。当然コンピューターで使う数は前者なのだが、帰納的数或いは帰納関数というとき、ここが曖昧になってくるのだ。

ラムダ計算機という数学的モデルがある、このモデルはチューリングマシンと等価である事が証明されているコンピューターの数学モデルだ。

このラムダ計算機は、計算に演算を使わず、自然数も全く使わないというものだ。使うのは『関数(関係性)だけ』である、相似象で言えばラムダ計算機はソロバンと相似だ。このラムダ計算機のイメージは結構大事なところ、ペンローズの微小管量子コンピューターではこれが効いてくる。

実際デジタルというのは自然数を使って居るのではない、プラスかマイナス、正反、無か有、スイッチ、などというものを使って居るに過ぎない。つまり自然数から自由で物理的関数が主体の「万物のデジタル情報」という思想なのだ。

ライプニッツが中国で発展した「易の陰陽」をヒントに2進法、つまり”デジタル”を発見 した有名な話がある。従って、「自然数の2」は全くデジタル思想とは関係無いということは簡単に確認できることである。

これだけで、デジタルと比べると自然数というものが「異様な世界」であることが少しずつ見えてくるのだと思う。この異様さとは「帰納法」のもつ異様さだと言うところが肝だ。パースなども帰納法を逆演繹法に置き換えたり、アブダクションの中に解体し吸収させているのも理由のある事だ。

私のような数学の素人は知っておくべきことだが、数学の世界で帰納的という言葉を使うとき、必ずこの自然数モデルに依存して成り立つ論理ということだ。数学的帰納法は自然数モデルから導かれる技巧的論理構造だと言うことなのだ。

《前編》

→ 後編へ続く
copyrght © 2020 masaki yoshino


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