日本橋三越で「赤毛のアン」展をやっていると知り合いに聞いたもので、早速行ってきた。
期間は6月2日までだから、空いてる時間帯にと思って午前中に行ったにもかかわらず、入場制限が出るのでは? というほどの混みようだった。
圧倒的に女性が多い。
男性はご夫婦でみえた方かしらね、きっと。
年配の方も多い。70代や80代の方もいっぱい見かけた。
みんな少女の頃に戻った気持ちで、展覧会にいらしたに違いない。
「赤毛のアン」に読み耽った日々の思い出が、心のどこかに、当時のままの鮮度を保って残っているから、わざわざ出かけて行ってみようと思うのだろう。
きっと、昔の恋人の噂を聞いて、恋の思い出が鮮やかに蘇り、もう一度会ってみたいと思うのと同じだろうか?
自分を忘れて夢中になるという意味で、心のテンションの高まりは、恋と似ているかもしれない。
読書にそんな力があった?
しかし、読書は、読み始めて没頭すると「あちらの世界にもっていかれる」感覚がある。自分はいまここで本を読んでいるけれど、じつはここにはいない。本の中の世界にワープしてしまっている──というような。
「赤毛のアン」が特別なのは、①舞台となるプリンス・エドワード島が素敵な場所であること。モンゴメリの描写力と村岡花子の翻訳力で、島の景色がイメージの中で、たしかにそこにあるように広がるのだ。
②登場人物の間で交わされる気持ちや心根がやさしく、誠実で、敬虔であること。語り手である作者モンゴメリの人柄が反映しているのだと思う。人間の存在に対する洞察力が鋭く、読み手は共感するとともに慰められる。
③手仕事や料理、学校行事、遊びなど、少女が普段に出くわす出来事を、ユーモアを交えて面白く描き、とっておきのエピソードに仕上げている。話の持っていきかたは天才的。少しの緩みも平坦さもない。
で、話を戻すと、「赤毛のアン」展では、モンゴメリと村岡花子とアンについて、直筆の原稿や書籍や、持ち物や写真などで、人物像にスポットを当てている。
コンパクトにまとめられており、楽しめる。
「思い出すわね」と、いっしょに来た人に向って言っていた女の人の言葉や言い方が印象的だった。
きっと昔ビートルズとか、クィーンとかに熱狂した人たちが、互いに共感しあうように。
読書の世界にも、ホームズマニアやアーサー・ランサムフリークや、「赤毛のアン」フリークがいて…ということなのかな。
読書というのはとても個人的なことなのに、集団で聞く音楽と同じに、集合的な行為でもあるということでしょうか?
あるいは、選ばれた本というのは、集合させてしまうほどすごいパワーをもっているということ?
そういう力を持たない小説は、読み継がれることなく消えてしまう、ということかも。
「赤毛のアン」は、展覧会に多くの人を惹きつけ、足を運ばせるほど強力なパワーをもっているわけだ。
100年もたっているのにすごい話だ。
その秘密をおいおい解き明かしてみたい。
「モンゴメリと花子の赤毛のアン展」は、東京が終わったあと、全国を回るそうだ。