サラ☆の物語な毎日とハル文庫

三津田さんの物語⑭~38度線を超え、日本へ引き揚げる

@サラ☆

第二次世界大戦。日本は敗戦国となりました。

夫とともに朝鮮半島に暮らすフサコさんは、どうしたでしょうね。

 

 

★38度線を超え、日本へ引き揚げる

 

戦争が渦中に入ってからも、フサコさんは朝鮮半島にいました。

さらに終戦の半年前には、三津田氏がそれまでいた京城から

平壌(へいじょう・現ピョンヤン)に転勤になったのです。

 

日本が敗戦国となったとき、フサコさんたち家族は平壌にいて、

そのままソ連の抑留下に置かれました。

「抑留生活といっても、日本人がたくさんいましたからね。

それほど辛い経験をしたわけではありませんよ」

と老女のフサコさんは当時を思い返しますが、

政府官僚の家族ゆえに守られていたこともあるのかもしれません。

 

ただし…、作家の五木寛之さんも終戦の時は平壌にいたそうですが、

ある雑誌※の対談でこんなことを語っています。

「私たち家族は終戦を朝鮮半島の平壌で迎えて、

そこから三十八度線を徒歩で超えて引き揚げてきました。

その一年半くらいの期間というのは、ソ連兵による暴行や略奪に怯え、

発疹チフスのパンデミックに脅かされてそれは過酷なもので、

母はそうした中で亡くなりました」

 

フサコさんがこういった状況を察知しないわけはありません。

「知りたい」という気持ち、好奇心が人一倍強い女性です。

きっと、少しの事では揺るがないくらい、

気持ちがピンと張り詰めていたのかもしれませんね。

 

いっぽうフサコさんたち家族は、一年後に30人ほどでトラックをしたて、

闇にまぎれて脱出しました。

3年前に再び授かった次女はまだ幼く、鳴き声をあげないように、

怖がらないように、ただ眠っていてくれるようにと願いながら、

トラックの荷台で息を潜めて38度線を越え、アメリカ軍統治下にはいりました。

 

命がけの脱出ですから、着の身着のままです。

あの女学校の運動会でもらったメダルの数々をはじめ、

思い出の品は何もかも置いての脱出劇。

「それでもね、私は楽天家なので、案外毅然としていましたよ。

命あっての物種。何があっても動じまいと覚悟を決めていました」

 

やっとのことで日本に引き揚げてきたフサコさん一家。

三津田氏はそのまま国家公務員としての仕事に就き、官舎住まい。

ほっと一息ついたものの、何もかも失った無一物からのスタートでした。

「戦前は任官するとどんどん出世して知事にもなれたのだけど、

その制度は終戦と同時になくなったから、

知事夫人になるのは夢のまた夢の話になってしまったわ」

と呑気に話す老女のフサコさんです。

 

「でもねえ、もともと華美な生活を求めていたわけじゃないから、

地味な国家公務員の生活でも、不自由と思ったことはありません。

親子3人、平穏無事な生活ができれば、それで幸せでした」

 

※月刊『致知』10月号/致知出版社

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