アンが初めてグリン・ゲイブルスにきた翌朝。
「後生だから、黙りなさい。小さなこどもにしてはまったくしゃべりすぎる」とマリラがあきれて注意するように、アンは大変なおしゃべりだ。
アンのおしゃべりは、相手との距離、壁を溶かしてしまう力をもっている。
物語の始まり、アンが登場してマシュウとグリン・ゲイブルスへと馬車に乗っていく途中。
アンは花ざかりの山桜としなやかな白い樺を見て、二ページにも渡り、しゃべりつづける。
でも、その中には孤児院のエピソードあり、船や汽車に乗り継いできた道中の生き生きした話ありで、とても面白い。
女の子が大の苦手で無口なマシュウは、話を聞きながら自分でも驚いたことに、愉快な気分になっていったのだ。
そして、「この子のおしゃべりは気にいったわい」と思うのだった。
グリン・ゲイブルスに引き取られることになったアンは、家や敷地の周りを探検しては、自分の新発見をいちいちマシュウとマリラに報告する。
するとマシュウは「うるさがるわけでもなく、黙って、いかにも楽しそうにほほえみながら」聞き入るし、マリラのほうも「その『おしゃべり』にいつのまにか夢中になって、聞きほれている」のだった。
最もマリラは、そういう自分に気づくと、すぐに『お黙り』とアンに命令するのだったが。
アンのおしゃべりは、こんなふう。
初めてグリン・ゲイブルスにやってきた夜、マリラが「寝巻きはあるんだろうね」と聞くと、「はい」と一言で答えるのではなく、こう答える。
「ええ、二枚持ってます。孤児院の寮母さんがこしらえてくれたの。おそろしく、きっちきっちなのよ。孤児院では何もかも足りないずくめだから、どんなものでも、いつも、きっちきっちなの──あたしたちのところのような貧乏な孤児院ではね。あたし、窮屈な寝巻き、大きらいなの。でもそれを着ても、首のところにひだのある、きれいな、すそのひきずるような寝巻きでも、夢が見られることはおなじだから、それだけが慰めだわ」
答え一つに、必ずエピソードがくっついてくるのである。
おまけに、人生の教訓あるいはうんちくめいた話が「落ち」としてついてくる。
言ってみれば、小さな物語。
だから退屈なおしゃべりではありません。
アンを引き取る前のマシュウとマリラの兄妹は、きっと淋しく退屈だったに違いない。
二人暮らしで、年齢も五十代後半から六十代に差し掛かり、そろそろ老いへの不安も忍び寄ってくる。
そんなところにやってきた若いアンの笑いに満ちた、あるいは、時として失敗したあとのずっこけた後悔の念に満ちたおしゃべり。
テレビもラジオもない時代である。
アンのおしゃべりが、どんなに二人を慰め、面白がらせたか。
それは読者にとっても同じ。
だからアンの物語は独特だし面白い。
人と人の心を繋ぐのは言葉である。
豊かなおしゃべりは、相手に喜びをもたらすのだ。