@サラ☆
三津田さんの物語、6回めです。
よろしかったら…。
「手に職を」という母親の願いがわかります。
★賢くて、教育熱心な母親
フサコさんの母親は武家の娘。
明治時代の後半に娘時代を過ごし、
女学校を卒業すると、英語教育に力を入れていた
桜井女塾という上の学校まで進んだ人でした。
(ちなみに、桜井女塾は太平洋戦争中に日本女子高等學院と合併しています。
現在の昭和女子大学の前身です。)
「母は美しい人で、学問もよくできました。桜井女塾ではいつも首席だったそうです」
とフサコさん。もっとも途中で結婚したために、卒業はしていないということです。
結婚してからは女中さんを置いて贅沢な生活をしていました。
三味線や長唄やお茶、お花など、お稽古事をいくつもこなし、
社交上の用事で外出することもしょっちゅうで、家にいないことが多かったとか。
フサコさんが女学校時代を過ごした金沢のデパートでは、つけで買い物のし放題。
親戚が満州鉄道の重役だったために、
当時としてめずらしいロシア産の毛皮とか、エナメルの草履といった、
とても高価なお土産をもらうなど、
フサコさん曰く「古き良き時代に生きた人」でした。
ただ、先を見越す力や、物事が良い方向に納まるように細やかな根回しができる、
いわゆる「女子力」に長けた人でしたから、娘たちの教育にも熱心でした。
娘たちが結婚しても、万が一未亡人になったとき苦労しなくてすむようにと、
3人の娘を上の学校に進ませたのです。
フサコさんの妹たちは勉強が好きではなかったので、
目黒のドレスメーカーに通いました。
フサコさんは勉強が好きでしたから、金沢の女学校を出たあと、
官立の京都府立女子専門学校(現在の京都府立大学)入学しました。
フサコさんは昭和初期の娘時代、ひとりで京都に下宿をして、
専門学校に通ったそうです。
そして無事国文科を卒業し、国語の教員資格をもらいました。
(「もっともね、資格は42歳までに使わないといけないとかで、
結局使わずじまいでしたよ」とフサコさん。)
さらにフサコさんの母親は、出入りの呉服屋さんに頼んで、
フサコさんに2年間、和裁を習わせたりもしました。
「よもや自分で着物を縫う日がくるとは思っていなかったけれど、
未亡人になってから新しい着物が必要なとき、とても役立ったのですよ」と、
懐かしそうに話すフサコさんです。
こうして、敬愛する母親の愛情をいっぱい受け、導かれ、
幸せな娘時代を送ったのでした。