豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

是非もない!

2015-06-18 18:48:46 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
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『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



今日は雨で物悲しいですね。

仕事帰ってから、母親の家で、麻婆豆腐食べてからのんびりしてます。

茶、のんで、ビール、のんで、インターネット。

特に書きたい事もないんだけど、毎日更新しているから、なんか止めたくないだけの理由でブログ更新をはじめました。


そうそう昨夜は久しぶりにYくんと、のんびり会話しましたね。

基本、ドライブで、あとは、コンビニ寄ったり。

人生は、どこにも向かっていないということを受け入れようと思います、笑



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まあ、いろいろ聞いてもらえて、楽しかったですね。


他は、特に、変化も無いなあ。


ノンデュアリティの興奮も冷めてきて、まあ、このまんまなんでしょって気分w


起きていることだけしかない。

これはさ、自然が最初ッから、目の前にあって、それと縁があって、いろんなことが起こっているってことだよね。

まあ、日本人なら、だいたい、みんな知ってるかも、笑

お陰様って言葉もあるくらいだしねえ。

自分だけの力で、何もかもやってると考えてる人の方が、少ない。

感謝も大好きだもんね、みんな。


だいたい、元々が東洋思想だからね。

本家本元の、八百万の神々の国、日本には、敵いませんよww


でね、Yくんの話で言霊の話がよく出るので、調べてみたら、言葉っていうのは、事からきているみたいだね。

だから、起きているという言葉に命を吹き込んだら、その通りになる。

言葉は事だからね。

そうやって、話していたら、その通りになるってことかもしれない。

でも、違っていると災いが起こるみたいなことも書いてあったかなあ。

何と違っているとか忘れたけどwwww


あとね。

心身を清浄に保つということも、日本人は、凄いよね。

清めるという概念まであるくらい。


だから何ってわけでもないけど、もうちょっと、日本の精神性に、自信持ってもいいような気がするなあ。

外国からの輸入ばかりだもんね。

禅だって、外に広まったから、騒がれてるだけで、淡々と、昔からやってるんだからさ。

千利休だっているしねww


ああいう、京都の寺院の庭とかの、自然と静粛性が兼備わったような表現ができるのは、日本人だけじゃないのかな。

仏像の表現でも、平安時代とかのは、もう、吃驚するくらい感性に触れるよね。

まあ、明治になってから、西洋、西洋で、物質文明をずっと追いかけていたから、今の日本人は、逆に、西洋人みたいになってるんだろうね。


昔は、神道と仏教が融合して、超独特な、日本の大乗仏教があって、それが、中々、いい感じに広がって、武士道にまで昇華していったのだろう。

死に狂いなんて、普通、考えませんぜ。

そこは、ちょっと恐ろしすぎて、付いていけないけど、日本人は精神の文化では、世界で一番凄いんじゃないかと思いますね。

「欲しがりません、勝つまでは」という負の歴史もあるけれども、あれだって、まあ、なかなか心が入っている。


だいたい、西洋で受け入れられると弱いからなあwww


思念的な精神性なんて、昔の、日本には、元々、なかったんじゃないかな。

哲学とかが入ってきて、説明が、始まっただけで、昔は、言葉で色々言わなくても、やっぱり神様がいて、悪い事しちゃいけないって、自然に思ってたりして、まあ、普通に、山とか、森が大好きで、尊敬していて、自然を敬っている。

まあ、おばあちゃんとか、見てたら、そんなとこ欠片もなかったかなww

でも、畑仕事とか、一生懸命したり、神社へお参りに行くのが好きで、幸せで居られるようにすることに抵抗が無いなあと思うね。


今のスピリチュアルとかが流行するのって、なんか、変。

おかしくなってきたらから、わざわざ、言葉や概念で説明しなくちゃいけないみたいな感じがする。


じいちゃんもさあ、なんか、自分が幸せに成る事に、遠慮なんか、欠片もなかったもんね、笑

美味しいもの食べたり、プチ旅行したり、家族でワイワイしたり、するのが、好きで、それで自分は幸せで、その幸せが、安泰であるようにお祈りしたりする。

だからと言って、人には、すごく腰が低いわけだよね。

あの年代の人って、みんな、すごく笑顔で、腰が低くて、超優しいけど、なんか生活の事になると、めちゃくちゃ厳しいことも言う。

甘えるなと、よく、言うwwww

死を前にしても、別段、悲しみを表現せずに、もちろん、心では悲しんでいるんだろうけどさあ。

なんか、しようがないって感じで、受け入れている。

自然の姿だ、と、いう風に。


そういう言外の精神性っていうのが、めっちゃ、崩壊してきて、今度も、また西洋から、いろんな癒しツールを持ってきているわけだけど、なんかなあ。

江戸時代くらいの庶民の人って、どんな、感じだったのだろうかとか、そういうことには全然興味がでてこないよねwwwww

自分たちの祖先なわけだけど、ねえ。

まあYくんは、南総里見八犬伝とか読んでいるくらいだから、まあ、みんなが、みんなそうではないだろうけどさ。


そういや、小学生の頃に、毎日、水を飲ませてくれたおじいちゃんがいたなあ。

帰り道に「おじちゃん、水、ちょーだい」って玄関で言うと、飲ませてくれた。

で、はっきり覚えてないけど、優しい人だったんだろうなあ。

ある日、いつものように、水、ちょーだいって、入っていった。

なんか提灯がぶら下がっていて、いつもと違うなあって、思ったんだよね。

そしたら知らない人だったか、おばちゃんだったか。

「今日はだめなんさ」みたいなことを言って、パッと、振り返ったら、大勢の人がいて、今考えたら、アレは、葬式だったのだ。

で、僕は悟って、ああ、おじいちゃん、いなくなっちゃったって、めっちゃ、悲しかったのを、なぜか思い出した。

すごい、いい人だったのだ。


なんか風通しが良かったんだよね、人と人の間が、今みたいに、険悪じゃなかった。

全く、どこの子供かも知らないのに、水飲ませてくれるwwww

しかも、たぶん、笑顔で「おお、学校、終わったんかあ」みたいに「お疲れ様」とか、そんな感じで、めっちゃ、優しいんです。


集団登校とかもなかったしね、あの頃は。


近所の人同士が、道端で、楽しそうに、話していたり、とか、知らない人同士でも気軽に会話が始まったりとかしていたし、今みたいに、窮屈な、ルールばっかりでもなかった気がする。

まあ、まあ、みたいな、笑

のんびりしているというのか、適当というのか。


ああいう素朴な感じの、精神性に、僕は、憧れるけどね。

なんか周りが窮屈になりすぎて、無理に、悟りみたいなものに引かれていくのは、ちょっと違う気がするなあと、思いますわ。


まあ、そんな悲観的なことばかり、書いてもしかたないかwwww


「今日はだめなんさ」と言って、優しく僕を見たというのが、それが事は起きていることを自然に受け入れている姿だと思うんですよね。

諦観していることではないと思うんだ。

そういう精神の事って、言葉だけでなくて、生活していく中で、人と人が触れ合う中で、自然に育っていくもので、こう、中々、パンってできるものじゃない。

生きていくことに罪悪感がなかったのだ、あの人たちは。

そして去っていく事にも、不自然さを、認めなかったのだ。

そういう姿を、僕は、生で、いっぱい見てきている。


病院にお見舞いに行っても逆に、心配されたりする。

「こんなとこに、そんなに来なくてもいいから、自分のするべきことをしろ」という風に言われたりして、悲しみを見せないし、なんか、楽しくしてればいいみたいに、おじいちゃんは、そんなんだったしね。

気にするな、みたいなwwww

そうやって、家族にも、他人にも、腰が低くて、でも、厳しくてっていう、この、昔の日本人の精神性は、とてつもなく優れていたのではないだろうか。

まあ、エライサンは違っただろうけどさ(爆笑)

だいたい、いつの時代も、悪い奴は、いるもんだからね。


まあねえ。

なんだろ。

愛なんて言ったら、もう、赤面ですわ、昔ならwwww

こう、秘すれば花みたいな文化。

うーん、このあたりに、何か、優れたものが、僕には見えるんだけどね。

ぜんっぜん、すこしも、自分が凄いなんて風にせずに、それでいて、優しくて、楽しくて、こう、生きていることに一生懸命である。

生きることに躊躇が全く無いのだ。


そういう人に私はなりたい(爆笑)


信長が本能寺で謀反を知ったとき「是非もない」と言うシーンが、よく小説なんかでありますけど、これが一番、その精神性を表してますよね。

是非もない。

肯定も否定もしていることは、無意味だという意味だろう。

謀反が起こった「是非もない」

それは、事は、起きているということを認めきった言葉だろう。

だからと言って、そこで、逃避なんかしないのだ。

「光秀なら抜かりはあるまい。だが、この信長の髪一本として奴には触れさせぬ」である。

生き切っている上での、是非もなしなのである。

欲望賛歌―ビバよくぼう!―笑

2015-06-17 18:12:28 | 日記
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あーーーーー、疲れたああああ。

今、仕事から帰って、母親の家で冷やし中華を食べてきました。

ビールの空き缶転がりまくりのPCの前で更新中です。

嫁様との冷戦も、もはや10日以上経過しております・・・・・・orz

おーい、どうすんじゃあww


って、まあ、どうしようもないのだが、とりあえずブログだけは更新しようと思って、パソコンを開いています。


フッフッフ。



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なんとですね!

そういえば、思い出したのですが、この僕のブログを読んでくれている人がいるみたいなのですよ!!

なんと、素晴らしい。

というか、嬉しい事ではないですか。

このようなマニアック精神世界のことも書いているブログを読んでくれるとは、素晴らしい、必ずや、神の恵みがあるでしょうww

で、まあ、そのコメントが・・・・・・。

「なんのことか、わからんのやけど」であったり「なんかの宗教はいっとんの?」だったりするわけですが、まあ、それは仕方ない!

うんうん。

ちなみに我が家は、天台真盛宗というところの檀家なのだ。

だから自動的に、僕も、そこの所属ということになるだろう。

正月と葬式の時にしか、お坊さんには会いませんが、笑


別にねえ、宗教に入信なんかしてませんよ、僕は。

単なる、趣味です、趣味!

そこのところは強調しておかないと、おかしくなりますからね。

このノンデュアリティであったり、禅であったり、ニューエイジ系統の思想であったり、まあグルジェフさんとか、様々、100にも分かれるであろう世界の、探求は、個人的な興味でありまして、僕が、何らかの団体に所属しているということはありません!

今はねww


でも、生きているんだから、好きな事しないとです。

というか若い頃から、延々と、こればっりなんですね。

最初は、Yくんから『聖なる予言』を借りて、そのあとは阿部敏郎さん渾身の自己啓発セミナーですね。

まあ、それが17歳から20歳くらいの頃です。

丁度その頃に、OSHOの本を見つけて、あ、これって阿部さんが言ってるのと同じだと見抜いたのです。

それで、聞いてみたら「僕はね、OSHOの弟子なんだよ」とおっしゃる。

で、様々に読んでいたら、その中に、ムラーナスレディンとかグルジェフさんの名前が結構出てくるんですよね。

丁度その頃は『黒魔術』なんて本も読んでましたし、コリンウィルソンとか、あと、まあ名前忘れたけど『快楽主義の哲学』という本を書いている人の、ああ、渋沢竜彦だったかなあ、そんな人の本も読んでいた。

そこで、ぜんぶ、超天才として扱われていたのが、グルジェフさんだった。

で、たまたまね、たぶん、名古屋の本屋さんで、それを読んだわけ。

まあ、本屋巡りが、趣味だったからねえ、そのころは。

でも、たいてい大きい本屋さんに行かないと、こういうの売ってないのね。

で、田舎もんの僕は、都会の本屋に行くと、死ぬほどドキドキしていたwwww


まあ、それはいいとして、その時、手に取った本が『グルジェフ弟子たちに語る』という本だったのですが、これがガツンときました。

そう、丁度、いま『すでに愛の中にある』が、僕をガツンと言わしているみたいに、笑


で、全部買った(爆笑)


そこから、まあ、自己想起なんかしてみたりwww

まあ、もちろん、なんちゃって自己想起だけどね。

今の僕が表現すると、あれは、自己想起じゃなくて、自意識過剰だわい、笑


それからだいぶしてから、どうも仏教と似ている、それも禅と、よく似ていると分かってきました。

しかも、禅は、これ究極なんで、日常と分かれてないんだ。

日々コレ好日なのだw


まあ、かなり端折ったけど、そんなこんなで、大昔から、僕の趣味なんですね。

で、まあ、自分なりに思っていることを、このブログに書く事が、たいへんなる自己満足を生んでいるのです。

ですから、自己主張が主であって、相手の人に伝えようというサービス精神に欠けているのだなあと思います。

しゃあないwww


その日、その日、の正直な思いを書いているんです。

だから、先週言ってたことと全然違うやないかいということも、もちろんあります。

でも、その時に、そう感じて、そう思ったことの記録なのです。

まあ、日記、ですな、笑

だから、別に、僕は宗教に入信はしてませんからね。

不可抗力で、一時期、あったのと、まあ、もうひとつの、素晴らしいところ以外は。

まあ、でも、今は、ほんとにフリー。


あと、書いてある事がよく分からないのは、僕自身の理解を、他の教えに当てはめて、無理矢理表現しているからですね。

だってさあ、真我、なんて言葉の意味、どうなの?

それって、まあ、真我につけたイメージでしかないもんね。

でも、実際のところ、それは、表現不可能なんだもん。

何も起きてないところの『生命の描写』と同じ意味でしょwwwwww


って、また、こんな話題。


いやあ、でも、いろいろ観察してて思ったんですね。

自己主張ばっかりしてないで、たまには、人の役に立つようなブログも書かないといかんなあとね。

だって、見てくれている人がいるんですよ。

こんな、超絶、マニアックな、呟きのような主張を、笑

感謝感激雨あられ。

あなたに幸あれ!

必ずや、その大きな心が、幸運を運んでくる事を保証しますwww


で、いまから、役に立ちそうな事を書きます。

これは、宗教ではないですからね。

実は、人間は、欲望、執着で動いているんです。

いいですか?

僕もそうですが「こうであってほしい」「わたしのもの」で動いているんです。

これが真理です(宗教じゃないかw)

で、ね。

その本能的欲望は、悪い事ではないのですよ。

ただ、その世界から距離をとって見ると幸せに成れるかもしれません。

ちょっと引いてみて、他の人に、いろんなこと、してあげる。

牛乳を配達してあげるとか、新聞を配達してあげるとか、車を売ってあげるとか、車を作ってあげる手伝いをするとか、お酒を提供してあげるとか、お話しの相手になってあげるとか、いろいろです。

まあ、仕事ですなwww

で、その仕事の対価に、お金までいただけるのです。


つまりですな。

自分の執着をちょこっとおいて、社会に与えると、人は喜ぶのです。

素晴らしい。


カッコいい仕事じゃなくていいんです。

たとえば、落としたハンカチを拾ってあげるとかね(爆笑)

カインド、親切というやつです。


これは、勘違いしてはいけませんよ。

なにしろ人の欲望というものは、果てしがありません。

自らの努力が、及ぶ範囲以上の、ものは、ことは、してはいけないのです。


しかし、人を喜ばせる事をしたら、絶対に、あなたはモテますwwwww

もてたい相手の事をリサーチできてたらの話ですがね。

って、全く、モテたことのない、僕が書いても信用度ゼロかあ。


じゃあ、もうひとつ、究極を書きましょう。

楽しんでいる。

これです。


って、さっきからYouTubeの音楽、聴きながら書いてるんだけど、超、スローでしか文字がでてこやんwwww

おい、ボロPC、しっかりしやんかい、笑


これの秘訣がですね。

わたしはいない、なのです。

うん。

フーッと世界を夢にして、そこから、人を見ると、あら、不思議、あの人も、この人も、何を求めているか、全部分かります。

読心術、テレパシーですね。

別名、ミラーニューロンとも言います。


って、マジで一文字書くのに、すごい時間がかかる(爆笑)


ここで、人を馬鹿にしてはいけません。

それが、この僕の、最大の弱点だったのです。

人のことが分かる。

じゃあ、その、人の、くだらなそうな欲望に、そってあげるのです。

寄り添うのであります。

これは相手のリサーチが重要ですね。

人によっては支配される事が嬉しい人もいれば、踏ん反り返るのが、好きな人もいるのであります。

好きな食べ物も、好きな場所も違います。

で、自分ができることも、あります。

できないこともあります。


それらの中で、なんとかして、相手の欲望を緩和できないかと考えるのです。

素晴らしい。

あなたは、これで、絶対、しあわせ、間違いなし。


これの秘訣は自分が楽しんでいる事ですよ。

無理して、やった、親切は、実は、ドン引きされますwwwww


まあ、こう書きながら、自分に言い聞かせてるんですけどね、実は。

いやあ、でも、人間関係、どうも、うまくいかないなあと思ってたら、ピンと閃いたのですよ。

どんな人も欲で動いている。

それを、見なければ、失敗するに決まっているじゃないかwwww

で、欲望を否定するんじゃなくて、満たしてあげられるようにする。

また、相手が、ちゃんと、欲で動いている事を理解して、距離をもつときはもつ。

欲を否定しないで、きちんと、見て、対応するのだ!

僕たちは、ひとりではない

2015-06-16 05:17:47 | 日記
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『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

今朝は午前3時過ぎに起きてきました。

「ありがとう」を久しぶりに連呼しながら洗面をします。

のんびりしてから座禅を1時間10分します。

当分、座っていなかったので、長めに時間をとりました。

スッキリ爽快です。

それで、また、玄関脇で読書をしようと思いましたが、煙草もコーヒーもない。



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仕方ないので、着替えて、コンビニへ。

煙草2箱と缶コーヒーを買って、帰って、読書です。

ああ、やっぱり、いいなあ。

何が違うって、何かこう、柔らかいんですよね。

思いを開くという表現がありましたが、これの方が、悟りを開くよりいいんじゃないかなあwwww

我と一切有情、同時に、成道!

これが、まあ、一番、ほんとうのことでしょうね。

刹那の表現も、生きているのであり、起こっていることというのは、ただ、この場の自然の事である。

何も出来ないのではない。

何をしても自由なのだ。

その、絶対安心の境地から、物事を、見ていく。

すべてが決まっているわけではない。

決まっている事は、ひとつもないというのが、真実である。


朝には、たくさんの鳥が鳴いている。

その、ひとつひとつの声を聞くことが出来るだろうか。

できない。

その一つ一つの声は、しかし、一羽の鳥の発したものなのである。

それらが全体となって、瞬間の、瞬間、瞬間に、僕の耳へ届く。

心が静かだからである。

それは、我と一切有情が成道しているからこそ、成るのである。

最初ッから!


人を迷わせるアイデアを持ち運ぶのは、よくない。

この、世界、この、自然、そして、人間は、同じ、生命を楽しんでいる。

その思いが開けば、全体は、ひとつである。

しかし、これは、体と離れてあるわけではないのである。

感覚が消失したら、人間は、ここにはいない。

生きている限り、必ず、感覚がある。

それが自分のものではないとするのは、アイデアの変更である。

認識の変換である。


そんなことをしなくても、最初から、私たちはひとつなのだ。

なにもすることはない。

手をつけることは、ひとつもない。

自分自身であること、徹底的に、感じ尽くすことが、眼を開かせるのだ。

それは幻想なんかではない。

人生なのだ。

そして苦の滅尽とは、苦しみがなくなることではないのだ。

それは逃避である。

ただ、この苦しみの中で、自分を生きていることが苦の滅尽なのである。


自分から離れる事はできない。

絶対に、できないのだ!!!!!!!!

忘我の境地、また、悟りの境地というのは、自然なものである。

ただ、思いが、心が、この世界いっぱいに開き切っている。

何かする前に、生かされている、この自分、大地、天空の3つの世界が、同時に、ここに現生していることである。


眠っているときですら、あなたは存在している。

わたしなんかいなかったというのは、特定された個人的な持ち物なんか一個もないという意味なのである。

その、しかし、命名出来ない、ひとつの純粋意識の中に、すべてが現生している。

そして、その、機能は、生きている限り、体と離れないのだ。

たしかに、体も、自分ではない。

自然と一体であり、自然界に生かされている。

しかし、その体を通して、今、自己を表現している。

もしも、そこが断たれたならば、生きていないのだ!


ここに、今、生きていることは、奇蹟中の、奇蹟。


この現実は夢で、その夢が消えた時に、ナチュラルな現実が現れるという。

しかし、夢が消えたら、何も残らないではないか。

この夢と、私が、ここで、ひとつの、生命を楽しんでいるのだ。

私も、夢も、消えたのなら、残っているものは、ひとつもない。

元々、そこに、いるのだが、しかし、今は、体と共に、生きているではないか。


冗談ではない。

もしも、私が、そこにいなければ、体も、ない。

心と体は、繋がっているのである。


禅の師匠が「喝!!」と叫んで、棒切れで体を30回も叩くという。

それはなぜだ。

まだ、わからんのかと言って、叩きまわす。

若しくは、ブチ殴る。


道元さんが、中国から帰ってきた。

眼は横であり、鼻は縦である、別段、何も手に入れず、空手にして、帰ってきた。


もしも、座禅も瞑想も、何も要らないと言うのなら、この体を完全に離れているというのなら、それは分離である。

空性と現実が分かれている。

そして、この世界を否定するならば、必ず、危険な道へ進んでしまう。

空と仮の世界は、分かれていない。

心と体は、ひとつ。

心身一如が釈迦の法門であると、昔から言われている。

それを否定できるのだろうか。

そして、それを否定したものが、悟りを語れるのだろうか。


仏道とは自己なり。

この自分自身を離れて、法は、ない。

そう言われてきている。

一切を否定して、闇に葬るならば、それは、現実を見ていない事になる。


無我であるというのは、我と一切有情が同時に成道しているということである。

それは簡単に言ってしまえば、みんな、生きている。

その生きている土台が、本来の面目。

眼は横であり、鼻は縦であるところに、生きているのだ。


まあ、でも、本来は無であるということは否定されない。

本来は無であるが、今は、仮に、ここにいるのである。

そして、この仮の世界を否定する事は、肉体を持って生きている限りできない。

命の尊さ!!!!

生きていることの大切さを、どんな宗教でも主張してきた。


『いのちを大切に』と、どんな人でも言うだろう。

そこを踏み外したら、もう、単なるアイデアである。

逃避である。

仮の姿かもしれない、夢の存在かもしれないが、今、自分は、ここにいるではないか。

そして、その奇蹟の贈り物、ギフト、人生は2度とやってこないのだ。

生きるしかない。

どんな人生でも、中身は、未知である。

決まってなんかいない。

運命は、それは、人間の意志が切り開くものである。

そして、その意志の不在が、この現世界の、戦争ではないか!


社会の事はどうすることもできないかもしれない。

それでも、やるのが、大和魂ではなかったか?


『こうすればこうなると、わかっていながら、大和魂』である。

それは、愛と勇気が、同時に、働いている結果ではないだろうか。

この男性性と女性性は、同時に、ひとりの人間の中にある。

どんなことをしても問題がないというノンデュアリティの価値観は、愛の開花ではある。

それは、個人を徹底的に救うだろう。

しかし集団社会、この、夢の世界は、放っておいてもいいのだろうか。

ただ、夢だから、いいのだろうか?

それは、今までのカルトの、現代宗教の、大きな問題点ではないか。

空を強調しすぎて、おかしくなってしまったら、取り返しがつかない。


大きな影響力を持つ人が、例えば、この世界で、何があっても問題がないなんてことを言ってしまったら、どうなるだろう。

準備のできた人だけに伝えるのなら、問題はないだろうが、そうでない人が、これを勘違いして、なんでもかんでも、やりたいようにやってしまったら、もう、どのように償う事もできない。

『悪いと知って犯せば、償う事はできない』とはグルジェフさんの言葉である。

二度と生きることはできないからだ。


人間の価値観では計ることのできない宗教の風光。

それは、愛、慈悲、つまり情緒の、思いの、開放である。

そこには暴力性は生まれない。

それは、生命の、力に、帰っているからである。

自然の、体の、奇蹟の中に、開放されているからである。


しかし、この事実に導かれる前に、アイデアとして、この『いいもわるいもない』を持ち運んでしまう事に対しては、注意を喚起しなければならない。

薬物で体を悪くしてしまう人がいたら注意しなければならない。

自由とは、そういうことではないのだ。

自由というのは、この世界に、いることである。

この世界に開き切っていることである。


頭の世界を抜けるというのは、考えるのを止める事ではない。

この純粋な知覚が、体と自然とを分けずに、また、空と仮とも分けずに、あるがままに、自然に、生きていることである。

特別な事ではない。

平凡な日常、ほんとうに、ただ、このままの世界。


自己が消失した空に在ることは、自己は消失していない!

この世界に帰ってきて、目の前にある、物事に、普通に生きていることが、自己が消失している事なのだ。

お金を稼ぐために働いていることだwwwwwww

そして、その一挙手一投足が、命を穢さないように、魂を曇らさないように、明快に、明敏に、シャープに、リアルと融合している事なのである。

僕たちは本来はひとつだ。

しかし、その、ひとつが、今、分かれて、ひとりではない。

僕たちは、ひとりではないのだ!!

ノンデュアリティ VS 妄想自我くんw

2015-06-15 18:26:53 | 日記
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フッフッフ。

遂に激鬱病から脱出の気配が見えてきたぜ。

ノンデュアリテイ。

大和田菜穂さんの著書の副題は『個人のすべてを失ったとき、すべてが現れる』だが!

メインタイトルは『すでに愛の中にある』ではないか!!

メインはこれでしょう。

これを見失っては、ただの絶望イエイの悲惨な話ではないかww



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いや、昨夜も3時過ぎまで彼女の動画を見ていましてね・・・・・・orz

やっぱり、あの、セクシーな感じに惹きつけられているのだとww

そして、あの笑い。

うむ、どう考えても、ただの自己喪失ではない。

これは、つまり、心に帰ったのだ。

まあ、もちろん、そんなものはないとおっしゃられていますが、まあ、それを心と呼んでいるのである。

心の触れ合いとかいうときの心である。

言い方を変えれば『想い』だ。


この『想い』というやつは、実は、スピリチュアルとか非二元なんかでも、めっちゃ敵対視されているのだが、実は、これが愛とか慈悲とか言われるエネルギーなのである。

なんちゃってだけどww


でさ、開放されると愛の中にあるから、純粋な想いが、溢れているわけだね。

だから、あんなに元気なわけでしょう。

ただ、それが、まあ、非二元では触れられてないだけである。


肉体は我ではないし、世界は空であるが、しかし、私は、この向こう側の、言うたら彼岸の私は、認識は出来ないのだが、この想いとして、世界に触れているのだ。

そして、この想いの、力が、愛や慈悲である。

これが、愛と愛情とか慈悲と忍耐なんかを勘違いするので、難しい。

愛とかいうと「すきすきー」みたいなカップルではないのだ、笑

また慈悲も「自分が食べるのを我慢して、両親にあげる」とかではないのだ!

それは、変幻無辺の空の中に、また、想受滅した先にある、ほんらいの自分自身のエネルギー体の事である。

って、こんな、書き方したら余計に妄想になるww


だから、まあ、なんとも表現の仕様のない、しかし、感情で繋がっているものである。

ハートが開くと、そこが、起きてくるのだ。

そして、ノンデュアリティがメッセージで強調していないのだ。

強調していないのだが、タイトルは『すでに愛の中にある』なのだから、まあ、僕が、感じ取っていないだけかもしれない。


しかし!

動画なんかを見ても「生命の描写だけ」という部分「わたしはいない」という部分だけが強調されている。

ライフはミラクル。

確かに、ライフは、これしかない。

しかし、これは、ワンネスと一緒ではないか?

すべては縁起していて、ひとつであるものはない。

無明によって、行がある。

無明とは、なんのことだったか。

頭が無明であると知れである。

そして頭の裂け落ちる事が、解脱だ。


そして、ここに、愛が誕生しているではないか。

それは、これとか、あれとか、言えない、ただのエネルギーだが、それのことを生命エネルギーと呼んでいるのだ。

完全なるリラクゼーションと表現しているのは、つまり、これは、真我実現のことを話しているのではないか。

まあ、だから、こうやって、言葉で書くと思念の世界に入るから、表現手段としては、まあ「全体の描写だけがある」となるのだ。

そして、愛が、ある。

全てが現れる、それが、愛である。

そして、それは、想いに繋がるのだ!!!!!


フッフッフ。

そう、このハートの覚醒から、また、更に先があるのである。

そしてやはり、機能としての自己は失われていない。

それが『想い』なのだが、そこに繋がるには、このエネルギー、天と地を結んでいる、智慧の光と繋がらなくてはならない。

それが純粋理性であり、その純粋理性が、眼となり、この世界の体、感情から、経験を利用して、ある形成体を生み出すのである。

それが、グルジェフさんの示していた、自然に逆らう道だ。

めっちゃ、想像は入ってます、すいませんww


この、見ている眼、理解する眼、感知する存在は、非常に繋がりずらい。

眠っている時に夢見ているのも、感情と知性が働いているのだ。

そして、この真我のほう、つまりハートの奥の、なんとも表現しがたい、溢れ来る温かみのようなものは、その、想いの中に現れている。

この想い、こそが、こころなのだ。

こころである。


そうして、その感知体は、意識を集中して感じているとき、に、意図的に、体を委ねている時に、つまり集中してリラックスしている時に、そこに、ある力が、働いていることでしか、繋がらない。

この『ある力』のスピードと広さと、感受力は、生まれたままだと、全然、鍛えられていないのである。

そして、その『ある力』を鍛えるには、今、生きている状態で、自己を想起する事でしか鍛えられないのである。


しかし、一度、繋がってしまえば、その『ある力』のお陰で、この、真の私、つまり、真の理性である、夢見る向こうの、ひらめき的な、ものが、成長しだす。

うーん、これは、微妙かなwwww


まあ、つまり、ハートの奥に在る真我が、眠っているのが「おお、俺じゃないか」と目覚めていないのだ。

うーん、これも、めっちゃ妄想入ってますが・・・・・・orz


でも、あれだねえ。

この『愛の中にある』という核心部分を見逃してはいけませんぜ。

完全なるリラクゼーションは、全体と一であることで、齎されている。

しかし、この全体と一である状態、の、向こうに空無辺所があり、その空無辺所である、愛そのものの、エネルギーが、理解力を、目覚めさせるのだ。

これが覚醒である。

この理解力というのは『ある力』の性質が、そのスピードと広がり、感受力が高まらないと、働かないというか、働いているのだが、それが、自己の普段の知覚では捉えきれないのだ。

そして、恐らく、そのための修練をしていないので、それが、昔から秘密にされてきているので、そこが、まだ、目覚めていない可能性があるだろう。

だから、心なんてない。

神なんていないという発言が飛び出したのだ。


フッフッフ。


かなり読者を限定する書き方になってしまったぜww

しかし、この2ヶ月というもの、自分が自分しているという、言い方を変えれば、純粋意識の覚醒を促し続けるという、僕の趣味が、崩壊寸前だったのだから、まあ、書くしかないだろうww

なるほど、ここは夢の世界だ。

諸行無常で、そして、何もない。

しかし、この、言葉では言い表す事のできない、コレ。

そして、コレの、想いが、夢の世界を見ているのだ。

そして、そこで、触れ合ったりしている。

触れ合っているのだwwwwwwwwwww


って、まあ、今日も副作用で、必死な抵抗である自我君。

明日はまた崩壊しているかもしれません。


まあ、でも、ぐちゃぐちゃした認識の話はさておいて、この『安心』

なんというのか完全なるリラクゼーションの副産物は、これは、対象じゃないかもしれないが、あるのじゃなかろうか。

まあ、まだ、勘違いしてるかもしれません。


でも、どうしても、この、こころの奥にあるエネルギーが、溢れてきた結果としての表現があるような気がするんですよね。

これは更に純粋意識の中に包括されて、純粋意識が目覚めていると、この世界が夢ではなくなって、今度は、超絶リアルに、自分に踊りこんでくるはずなのだが・・・・・・。

「それもストーリーなんです^^」

という言葉が、脳裏を掠めるwwwww


この内部空間に消失しているのは、どうも、違うような気がするんですよねー。

この内部空間というのは、普段生きている世界で、その外側に、宇宙の外側に、心があるんですよ。

そして、その心と内部空間が融合すると、凄まじいリアルが、自分に舞い込んでくる。

その時に、自然と自分が一体化して真我実現。

そして、その内部空間と外部空間の間にある人間である自分自身。

その自分自身に帰ってきて、ただ、目の前の平凡な日常を見ると奇蹟だ。

神がいないなんて、とても、思えない。

神というのは、偉大なるクリエーターのことである。


法眼の話や、世界外自己の話、それに光のエネルギーの話が出てこないのも奇妙と言えば奇妙である。

でも、なんか、触れるものがある。

どうも真理のような、もの、情報に触れたときの僕の勘が働いている。

なにか、まだ、分かっていないのだろうなあ。

こうなったら、ドンドン吸収して、トコトン理解していくしかないだろう。

とりあえず「生命の描写」である世界で自己を消失している状態を維持してみよう。

そこで「愛」に浸り続けてみよう。


なんか、それって、ちょっと抵抗感があるんだけど・・・・・・。

まあ、やっぱり、自分って大切だし、せっかく生まれてきてるんだし、まだ愛の中に消失しなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。

まあ今日も、本読んで、動画見て、研究しよーっと!

恐怖以外のなにものでもない自己が失われることに、こんなに、のめり込んで大丈夫なのかなあ(爆笑)

無限の沈黙

2015-06-14 18:01:27 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



自分ってすごく大切な存在です。

自分が愛されているのか、認められているのか。

いつも確認しています。

それで、大抵は、欲求に答えていきます。

自分の欲求と社会の欲求は、対立していて、バランスを取ります。

Give and Take

愛されるために社会の基準に合わせ、自己を捨てていく。



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そのように捨てられた自己が愛されるのを見て、自我が喜ぶ。

すると、あなたは、それを見て、愛されるために、もっと自分を犠牲にするだろう。

標準に、ルールに、マナーに、合致したイメージ。


「あなたは観念で生きています」

思い込みが、見方が、両親や周囲の人たちから、埋め込まれてきたのです。

注意を惹かれる物事、考え方、捉え方は、オリジナルなものではありません。

周りを見てください。

どれだけ、合わせてきたでしょうか。

あの人の欲求と、自分の欲求を両立させるために。

Give and Take

あなたが欲しいのは「愛」だけで、それが、外側からやってくると信じています。

褒められる事や、与えられる事。

そういうった行為、言葉が、愛であると思う。

または社会での評価であったり、仕事の成功であったりする。

あなたは、その為に、捨てられている。


人生は夢のようなもの。

その夢のような人生で、跡形もない人生で、もがいている。

苦しんでいる。

愛のために、あらゆる人々が、犠牲を強いられているのだ。


まるで欲求に答える事が、愛であるかのような広告、宣伝。

社会的成功者は愛されているかのような、映像が、流れている。

あなたは、何も要らない。

もう、何もなくても、夢の中で、愛と共にあるのだ。


たとえ、なにもかもが、信じられないとしても、どんなに酷い事にあっても、ぜんぶが跡形もない。


外側の愛が、あなたを溶かしたときを思い出してください。

そこに溶解して、あなたは、消えていた。

愛を与えてくれたのは、その、外側の出来事ではない。

その、外側の出来事が、きっかけとなって、あなたは自分を手放したのだ。

努力がなくなった。

Give and Take

その関係性が、なくなったのだ。

ただ、ただ、手放して、空に上ってしまった。


そうして消失された出来事が、また、あの体験を味わいたいと思わせる。

切実だ。

いつまで待っても、愛も平和も、やってこない。

いつまで与えても、いつまで自己を犠牲にしても、絶対にこない。

ほんとうの自由。


自由である事を掴んで、誰かに、与えようとしてごらん。

僕の思いが、誰かに、伝わった事があるだろうか。

残念ながら、誰にも、伝わった事がないと率直に認めよう。

強固な思惑に染まった、愛する人々が、そこで眠ったまま死ぬのだ。

夢の住人たちを、あなたは、救うことはできない。

彼らは、必要としないのだ。


ところが、あなた自身が、何も掴まないとき、そのメッセージは心に響きだす。


与えようとしないとき、獲ろうとしないとき。

あるがままに消失してしまうとき、あるがままに認めるとき。

いいもわるいもないとき。

すべてを流れるままの自然と看做すときに、伝わっている。

愛が発動している!!!!


そう、変えること、変わることではない。

何かがあったら幸せであることではない。

どんな自分でも、どんな社会でも、あるがまま、思し召すままに。

ただ、開いている。

この夢のような世界は、夢なのだ。

ただ、このときだけの、ミラクル。


伝えなくても、与えなくてもいいのだ。

ただ、自分が、手放されていたら、Give and Take は終わる。

この世界からの卒業である。


苦しんでいても、眠っていても、醜くても、なんでもOK、自由なのだ。

自分だけではない、社会も、他人も、すべての表現が許されている。

愛されている。

どんな自分でも、ここに描かれる。

自由だ!

完全なるfree


こんな夢の世界は嫌だろうか。

そう、その嫌な感じは、自分の思いが叶わないからだろう。

自分の思いの極限は、なんだろうか。

愛に溢れた、自由な、輝いた、開放された自己ではないだろうか。

もちろん、それに必要なものは、外側にあると思うのだろう。

誰かに愛される事なのか、お金を稼ぐことなのだ。

また健康である事かもしれない。


しかし、外側にあるものは、すべて失われる。

例外はひとつもない!

たとえ永遠の魂と思しきものでもである。

キリストの伝えた愛は、どのようなものであるか。

仏陀の言う慈悲とは、どのようなものであろうか。


心の貧しきものは幸いである。

上も下も横も中央も認識できるすべては執着のもとである。

気をつけなさい。


あなたの求めている愛は、すでに、実現している。

この、世界にない。

すでに、愛が、そのものが、あなたなのだ。

その愛が開花したとき、見るもの全て、は、変容する。

夢の世界には、何の問題もないのだ。


眠れる死者のさ迷う、この、世界。

そこに、あなたも、あの人も、いない。

この姿は、幻である。

愛は、感じることはできない。

この、諸行無常の世界、死者の世界を抜けたとき!

消失したとき。

そこに愛がある。

それは自分自身だ。

ほんらいの、あなたなのだ。

ほんらいのあなたは、自由に、楽しんでいる。

それは喜びなんかではない。


人間の感情中には、愛に、例えられるものはひとつもない。

それは、喪失感である。

笑いなんかではない。

ただの、深い、安心なのだ。

笑いはでてこない。

笑う事は、絶対に、できないのだ。

この苦しみの世界で、笑う事ができるのは、そういう夢の中である。

自己消失しているときは、笑いはでない。

帰ってきたときに、大爆笑するのだwwwwwwwwww


それだって、もう、ここにはない。

笑いが、ただ、ある。

そこには、救いはないのである。

たった一人の、この、自分だけの救いである。

人は助ける事はできない。

夢の世界の住人は、助けられない。

その奥に在る、気持ちを、救う事はできるかもしれない。


ただ、夢から外れている事である。

何かを感じるかもしれない。

もし、あなたが、生命の側に、明け渡されていれば、何かが、そこに現れる!

現れざるをえない。

自己をもって他者に近づけば、それは、何もでない。

ただの化学反応である。


本気にならなければならない。

真剣でなければ、ならなない。

なんてことは、お笑いである。

本気で真剣であるほど、あなたは、他者を束縛する。

開放は、自己の融解なのだ。

その性の力が、駆け抜けて、空へ飛び去ってしまう。


深く、深く、入っていく。

それで、この、現れの世界を笑う。

しかし、その笑いですら、もはや、自己のものではない。

あなたは、ここにいない。

夢の世界で、そこの住人であると思っているのだ。

実際は、この世界全部が、なにもかもが、あなたの世界なのだ!!

あなたは世界の王である。

何が起こっても、すべては、あなたのためにある。

すべてが、あなただけの世界なのだ。

ひとつの例外もない。

すべてが、あなたのためだけである。

これほどの愛があるだろうか?


神は、あなたを愛するがゆえに、あらゆるすべてを与えたのだ。

ぜんぶです。

この夢の世界の、ぜんぶが、あなたの魂の、何らかの存在の為に形成されたのです。

見たいだけ、見れる、笑

あなたのために太陽は昇り、沈んでいる。

あなたのためにすべての現れがあるのです。

世界には、あなたしか、いない!


あなたが消失したら、実際は、なにもなくならないが描写は変わる。


与える事も獲る事もできない。

ただ、ここで、このあるがままがあるだけである。


想受滅とは、このことを言っているのだ。

非想非非想とは、思惑の消失である。

空無辺所とは、真我の実現である。

そして、想受、滅、とは、意識と感覚が自分のものではなくなる事である。


一切の苦は滅尽される。


これは特殊な状態ではない。

思惑がなかったり、一切が空であったりするのは、特殊だが、それらもすべて、この自分のものである。

自分のものでなくなったら、ただ、生きるだけである。

これが、たぶん、最終だろう。

これ以上に、なにもない。

無上である。

ほんとうに、ここに、すべては成道する。


自分って、とても、大切な存在です。

その大切な自分が、ごっそり抜け落ちたときに、いいようのない安心。

この無限の沈黙だけが、広がるのです。