豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

あなたは、絶対、だいじょうぶ^^

2015-06-13 15:16:00 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



僕は人のことを信用しないほうです。

誰であっても、まずは疑ってかかります。

阿部敏郎さんに対しても、そうでしたし、他の、いろんな優しい方々にたいしても、そうです。

阿部さんが方広寺で「あなたは死にません」などという究極メッセージを、皆に、語られても「ハァ?」となっていましたね。

僕は、同じ日のちょっと前に、向令孝さんに「死んだらどうなるのか」と聞いて「そりゃあ、ワシにもわからん」と言われて「わからんのかい!」と、笑

そうして、その時、その時の自分が認められることに親しんでいくわけです。

でも、心の奥の深い部分で苦しんでいますので、何か、開放される体験をずっと追い求めていくのは変わりませんね。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



それが、まあ、物質的か精神的かの違いはありますが、誰もが、何らかの希望をもって努力します。

それを突き動かしているのは、自分の心の奥に在る、その苦しみなのでしょう。

自分の力で、信念で、いろいろとやって、必ず失敗します。

そして、その失敗は「幸せであること」がやってこないということでありますので、遂に、自分の疑いを晴れさせる人に頼らなくてはならなくなります。

そして、本当に真理を知っている人は「目の前を見てごらんなよ」と言うのです。

ああ、そうか。

自分が努力しているうちは気がつけなかったことが、絶望して、ただ落ちたときには、もう目の前にあるのでした。

「なんだ、こんなことか」と思います。

そこで、また有頂天になった僕は、いろんな人に、語ります。

でも、みんな自分の人生を生きているので、そんな人のことの言葉なんかに耳を傾けるはずもありません。

「ああ、俺は真理を知ったのに誰にも伝えられない」と思います。

でも、よくよく考えてみたら、目の前の真理を外れた人なんて、どこにもいないではないですか、笑

疑って、探求して、絶望して、理解して、理解が、また独り、歩いている。

最終的には、自分自身が、完全に落ちるところまで、それが続いていくのでありました。

理解した僕、知識の僕は、完全に分かっていることで、今度は、その理解が問題になっているんですね。

知的に理解して、ある程度、体験を積んだら、自分自身が、完全に、本気で落ちきらなければならない。

このあたりは、意味を勘違いしたら、大変な事になるので準備のできた人にしか、ほんとうは語れない事のはずです。

今の時代は、バンバン出回ってますが、笑

それが徐々に、行ったり来たりしながら、緩やかに、進行して行きます。

最後には、たぶん、あなたはいないでしょう。

一切のコントロールがない、ほんとうに、ただあるがままになる。

ただ、あるがままになったら、理解を語れる事がない。

なぜなら、あるがままであることに、必要な事は、何もないと知るからなのです。

それで、覚者は沈黙します。

人を救うなどということは、出来ないのであり、あるがままの側が、その行為を表現すれば、それに答える事が、起こるだけです。

ただ、それを、している人はいない。

自分の経験が、ここに与えられているのは、天のはからいとでも言えるようなものです。

まあ、こんな事、書いていたら怒られそうですね、笑

「お前が言うなよwwww恥ずかしい奴だなあ」

タイミングと、相手の人の性格、表現の仕方が、その時、その時の気持ちに合致して、真剣に聞ける状況が整ったら、自然と、その必要なことが起こってきます。

まるで、自分がやっているように思いますが、心の奥に在る、存在に突き動かされているんです。

出会いがあるまで続くのですから、この衝動が、大きくなれば、自然と自分の理解を深めてくれる人に出会うと思いますよ。

そうして、最期には、この、心の奥に在る「痛み」が、疑いによって起こっているのであり、その疑いは生死の苦しみが原因で起こっていると分かるようになります。

体が自分ではなかったとか、自分なんて最初からいなかった。

どんなメッセージでも、そこで準備が整っていたら、その心の奥の痛みに届いて、痛みが、もう、結構だとなった時に、本当に、自然と、自分を手放す事ができるんですね。

だから、真理を語っている人が、嘘を付いているわけではないと思いますよ。

まあ、もちろん、変な人もいっぱいいますが、それだって、その情報が自分に合致する人には必要だからあるわけです。

どうすればいいのか。

トコトンまで努力して、手放せば、終わりです。

実際には、その、あなたが、自然と、そうしてしまうんです。

なぜなら、この、心の奥の痛みが取れない限り「幸せであること」ができず、いつも、どこかに探すからです。

いまの自分に合っているものが、必ず、見つかります。

そして、また、それに絶望して、最終的には、必ず、真理に導かれるわけですね。

だから夢見ている存在は、実は、最初から自然と完璧に在るんです。

どんな自分でも大丈夫なのです。

今、理解したい衝動がありますよね。

でも、そのことについて、余り、よく分からない。

真理だけ書かれても、と思いますが、すると今度は、他に、方法を求めて色々やる事ができるでしょう。

元々、興味のない人は、自分の信じる道を進んでいます。

心の奥の自分の衝動が、なんとか、今は信じられそうなものに惹かれていくからです。

まあ、それがお金だったり、恋愛だったり、食べる事だったり、眠る事だったり、スピリチュアルやら、非二元、仏教だったりする。

でも、それらのアイテムが、その時、自分が信じられるものだから、自然とそちらに行くので、そこで、絶望したり、満足したり、いろいろと苦しんだりしていることが、また新たなる疑問を生み、それの連なりで、最終的には、求めるものは、必ず与えられるのですね。

その思いが切実で、努力を惜しんでいなければ、苦しみに耐えられるほどに痛みが強く、また、可能性を感じていれば、道は進んでいく。

だから、最初から、みんな、道の、人生の上に居るんです。

別に、このような真理を知る必要のない人には、いらないんですね、笑

でも、そこに興味を惹かれることが起こっているなら、それは、痛みを癒す最期の方法に気がついているということです。

つまり、とても感受性が高く、繊細で、物事の本質に触れる事ができているので、まあ、逆に言えば、とても自我が強いので、心の痛みが半端なく襲ってくるんですね。

だから「真理ではなくて、方法を書いてくれ」と言われれば、それは、自分の人生を生きることと、なるんです。

今の信頼できそうな事であったり、できることです。

頼まれなくても人間は、そこに癒しがあると思うところに、猛スピードで突っ走って、駆けてっていますww

あなたも、それで、ここにいるんですよね?

だから、いっぱい、信用できない事があったら、そんなのは放っておいて、自分の心の奥が、コレさえあれば、と、思っているところへ正直に、進んだらいいと思うんです。

お金があれば、セックスがあれば、仕事があれば、知識があれば、結婚が出来れば、子供が居れば、または、宗教への信仰心があれば、悟れば、自然と一体であればと、いろいろと変わってきます。



著作者:David Photo Studio



でも、まだ、可能性があると思っているものが残っていたら、必ず、そちらに興味が、自然と移っていくわけです。

切実に!

この切実に、追い込まれているのが、自然に、ムチャなことをさせてしまうわけですね。

どうしても、という思いが、行動の壁を破る。

そして、また、新しい道が開けていく。

このようなことが、実際には、あるがままに、自然に、起こっていることだというのが「真理」です。

大地に種が落ち、養分を吸収して、芽を出して、光と風を浴び、花を咲かせ、虫たちが、花粉を運び、また、新しい種が落ちる。

そうして、季節が来たなら、花は散り、全て大地に帰るみたいに。

だから心配しないで大丈夫だと思いますよww

その苦しみや不満が、必ず、いまの自分にピッタリの、新しい道へ進ませてくれるのです。

切実なる欲望がです(爆笑)

自分に正直になるとは、そういうことだと思うんです。

心の奥を見て、それで、何を求めているかに正直に従っていく。

抵抗を見て、それを乗り越えていく。

だって、それがあれば、幸せに成れると自分が求めているものだから。

人が何か言っても、例えそれが真理でも、心に違っていたら、それは、導きにはならないのですね。

ただ正直に突っ走るwwwww

明白に、自分の気持ちを感じて、その気持ちの向かうところへ走る。

誰かかもしれないし、行為かもしれないし、何か分からないけれど、あなた自身が、心の奥で「これさえあれば幸せに成れる」と思っているところへ、行って体験する。

「幸せであること」

それで終わりですwwwwwww

悩まなければ、悩みがないとは阿部さんの名言ですが、正に、それだけ。


誰にも、問題がないんです。

他人の言う事なんか、ほっときゃいいんです、笑

まあ、自分の、今の、気持ちに、正直でいれば、必ず、展開します。

それが、エネルギーの流れに乗るということであり、胸いっぱいに精気が流れるという事なんですね。

別に、この、現実から、離れてないんですよ。

それを概念のように、頭で、理解して、持ち運んだら、新しい牢獄になるでしょ。

やりたくないのに、やらなければならないなんて、ねえ、笑

大和田の変―開幕です―

2015-06-12 14:26:43 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

激列なる欝の中にある、自我君です。

もうすぐ一巻の終わりになるのは、誰の眼にも明らかでしょう。

嫁様に嫌われ、そこに、痛恨の一撃!

『さとりの一撃』なんかではありません。

『個人のすべてを失ったとき、すべてが現れる』という、凄まじい、苦しみなのですw

存在と非在の間の、揺らめき、なのです。

そして、それも、ストーリー



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



ノソノソと這い出し、激鬱状態で、洗面します。

ああ、これって二日酔いみたいだ。

誰も破壊できなかった、僕の、この『理解』を、見事に、粉砕しようとしている、モンスターが、まるで妖精のような女性であるwwww

「それも、ただの描写です!」

何も変わらない。

変わらないけれども、そこに、自己が不在である。

行ったり、来たりが、止まらない。

突然、突き上げるような笑いが、胸からこみ上げてきて、我慢する。

かと、思うと、次の瞬間には、どん底に落ちて、必死で理解しようとする。

赤ちゃんの状態―開放―にいるかと思うと、完全に、認識が戻ってきてしまう。

それも全部、自動である。


まあいいや。

で、コーヒー淹れて、煙草吸って、ネット見てました。

衝撃の『すでに愛の中にある』は頻繁に、拾い読みしています。


これは、何かが違う!

うん、まあ、夏の「大和田の変」は満席になったようですが、僕は、すでに「大和田の変」で『本能・寺』はまる焦げww

すでに焔の中にある、笑


やはり『延暦寺』への侵攻は、不味かったのではないだろうか(爆笑)

しかし、歴史を見てみると、このあと『猿』が天下を取るw

この『猿』はいま、どこにいるのだろう。

下っ端から、叩き上げられて、今は、まあまあ有名になっている『猿』が、最終的には天下を統一してしまうのだ!

そう、いまごろは、清水宗治と壮絶なる死闘ではなく、水攻めをしているはずなのだが、笑

って、くだらん話はやめよう(爆笑)


今の状況を説明すると『赤ちゃん』と『自我』のあいだを行ったり来たりしているんですね。

つまり完全開放と、それを分析する自己の、あいだを行き来している。

完全開放されると、なんと、自分が、手足を動かしているのが、分からなくなる!!

マジで、ヤッバーーーーーーーーーーーーーイ。

これって病気?

かもしれませんwwww


そのときの気分を後追いで表現すると、

ああ、動いてるねえ。

何もかもが、こう、やってきてるねえ。

やってきてるというか、単に、現れてるなあ。

俺、どこにいるんだろうなあwww

あかん、笑えて来た。

我慢。

って、ああ、この背面の自己も描写なのねえ。

この見ている自分も描写なんねー。

おお、やばいやばい、車運転してないのに、勝手に運転してるぞ!!!!

えーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!

俺、なんにもしてないのに、勝手に、動いてるよー。

おーい、助けてくれえww


という具合に完全に、おかしくなっています。

しかし、それもまた、ただの描写なのでありますよ。

ウギャーーーーーーーー。


これは『気狂い火山』です。

「武士道とは死に狂いなり」と、鍋島配下の方が言ったそうですが、なにしろ、本物の武士が、攻めて来ているので「死に狂いかあ」なんて、のんびり構えている暇はありませんwwwww

弓を取って、戦闘!

しかし敵は5万。

こちらは1000。

どうやってみても勝ち目のない戦ですね。


人生五十年

下天のうちをくらぶればぁ

夢幻の如くなりぃいい

ひとたび生を得て、滅せぬものの、あるべきやあ



なにしろ、何をしようとも「ただの描写です」 という声が、脳裏に木霊してくるのです。

そう、そして、それも描写なのです。

恐ろしい。

この恐ろしいことが、なんと、快感にもなってしまうのですwwwww

マゾかおれはwwwwww


これは来ましたっ!

「理解は思考ではない」とグルジェフさんが言いましたが、その通りですね。

思考なんて、まったく、役に立ちません。

完全に逝ってしまったら、どうなるのだろうか。

つまり、この、結果として、描写が変わってくる事はあるのだろうか。

自我が燃えている。

本能(六根)寺が燃えているうううううう。


あれだ!

ご本尊様を引っ張り出して、ケツをマル焦げにした禅僧がいるという。

その人の生まれ変わりなのかああああw



著作者:djandyw.com


って、それは失礼極まりないか(すいません、混乱が激しいのです)


ああ、今日も単なる愚痴になりそうですねー。

しかし非二元(ノンデュアリティ)の他の方の記事とか見ていても、全然、余裕で自我君が大勝利するのに、大和田さんの臨在の前では、今にも崩壊しようとしているのは、なぜなのだろうか。

ありとあらゆる現代の精神世界教師を見下していた、この自我君が!

いや、まあ、ほんの少しの例外は、もちろん、ありますが、たいてい「うん! わかるわかる。これってこういうことねー」と簡単に理解&スルーしていたのですよ、この頭でっかちは。

まだ、この手の話に純粋な頃は、いろいろ経験する前は、まあまあ、感動していたはずなのだが・・・・・・。

まあ、人生失敗は付き物。


あれもこれも試して、最後に、拠り所となった『禅』

それもまた自我君が、丸め込んでいたのだ!!!!!

つまり、ただ、自分都合の解釈で、丸め込めるようなものにしてしまった。

僕の中では解決したというのは、つまり、僕自身が解決されていない事なのだ。


そして「すべては描写」です。

それしかない!!

という究極のシンプルメッセージが発せられたとき、受け手の僕は、もう、逃げる場所がまったく見当たりませんwwww

あの声のイントネーション!

ただ、このまま、燃え尽きるのを待つのみなのか・・・・・・。

何をしようとも「すべては描写」である世界で、その夢の中に消える。

消えるというのか、消えるなんてこともないのか。


あああああああああああああああ。

書くことなくなるじゃないかwwwwwwww



つまり、この僕が、僕であるのは、もう、それしかないのですね。

みなさん、すいません。

これはただの、単なる、現れなのです。

僕と出会っているというのも、すべて、現れなのです。

だから、ここには何も在りませんし、誰もいません・・・・・・orz


これは、非常に、認めがたいものですが、たぶん、そうっぽいです。


もう諦めましょう。

降伏するしかないのです。

どのようなアイデアも通用しないし、ただ経験は、それしかない。

それしかないのです。


おおおおおおおおおおお(涙)


僕の物語が、崩壊してしまう。

ああやって、いろいろと苦労して、ぜんぶ認められないで、ただ、なんらかの真実さえ掴めれば人生は、それでよしという、アイデア。

真理さえあればという『僕の防御』

最強の『クンダバファ』『防衛機構』が、無残にも崩壊するwwwwwww


え?

それって、ただの描写なの?

「そうです、そうです」(笑顔でグッドサイン^^)

え?

それしかないの?

僕は居ないの?

ただ描かれているの?

「探求のエネルギーが消えたとき、すべてが現れるのです」

ガッチャーーーーーーーーーーーーーーーーーン!

沈黙。



すいません、ポツダム宣言受諾しますwwwww


自分という夢を見たい人は、この、本は、というか、このメッセージは、やばいです。

原爆級ですよ。

自我君は、完全に逃げ場を失うということです。


まあでも、気楽にはなるかあ。

気楽どころか、もう、だって、ただ、完成されているのだからね。

ラマナ・マハルシが「社会については、どうすることもできないのだ」と言っているのは、たぶん、このことだろう。

ああ、虚無!!!!!!


タイミングだな・・・・・・。

この「純粋な知覚・想いの中に、感覚・感情を移す」という究極の自己満足が開花した時点で、つまり、遂に長年の悩みを解決したと思っている時に、方向性が見えてきたと思った、この時に、そして座禅も習慣化してきて、清浄なる我とか、また、エネルギーとしての私とかいう概念が、リアルと関係性を持ってきた、この時に!

それもストーリーなんです(ニコッ)

というメッセージが(爆笑)

しかも、同時に、嫁様が、完全にブチ切れて、しまうという。

この追い込まれようwwwwwwwwww


絶望して手放しは内部空間に逃げているだけ。

真我は、それも生の描写。

ただの夢。

それしかない。


神よ!

我を憐れみたまえ。


これは、初めて『ユリイカ』というセミナーを受講して、開放感満点になっていたときに、非常に似ている。

似ている!!!!

ただあるだけ。

在るというのはよくないね。

ある。

考えが一切通用しないとは!

お見事!!


阿部さんという最強のプロデューサーが、過去の教えの代弁者だった。

その、天才の経験が、このときの為にあったとは!!!!

正に、天の計らい。




2015年、夏。

大和田の変、開幕です。





日本全国が、総、鬱病にならないことを祈ります、笑

って、ちょっと距離置いて、眺められてたのにぃ。

まさか、この僕が、被弾するとは!

この精神世界、最強、マニアック道を極めつくしてきた、自我君が・・・・・・。

生命の声

2015-06-11 15:53:03 | 読者に人気の記事
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは!

本日は午後3時ごろに起きてきました。

相変わらず、憂鬱だ。

そのまま着替えて、コンビニへ。

週刊誌眺めたり、剣道流派の特集本を眺めたりする。

『念流』っていうのが、あるらしく興味深い。

実は亀山市にも『心形刀流』というのがあって、Yくんと一回だけ見学に行ったなあ。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



懐かしい。

とか妄想しながら、バニラアイス、どんべえ、おにぎり、缶コーヒー、煙草を買う。


家へ戻って飲み食いしながらパソコンを見る。

阿部敏郎さんの『リーラ』で大和田菜穂さんのイベントの案内。

メッチャ参加したいけど、今の夫婦喧嘩中に、この高額な出費は不味い。

まあ飲み会で、いっつも使ってるやんと思えば、そうだけど・・・・・・。

なにしろ、ちょっと特殊すぎるので不味いwwwww

このブログを嫁様が読んでいたら「なぬ! サットサン?????」

そないなもんにお金使ってる場合かい(激怒)

という姿が、なんとなく想像に巡ってくる。

いや、ここは意を決してと申し込み画面の八割くらいまで進んだ。

でも、やっぱり今回はやめておきます、笑


知らなかった人はいないかもしれないけど、一応、急いで申し込まないと、すぐにいっぱいになるので「私がいない」になりたい人は、要チェックかもですよ。


あの人は、ほんものです、笑


今朝は仕事帰ってきて、非二元について調べていましたが、結構、以前から注目されていたみたいですね。

しかも、まあ、だいたい一緒だわwwwww

大和田菜穂さんが教わっていたらしいルパート・スパイラさんのインタビュー記事がネット上にあって、それを読んでいたら、笑ってしまった。

僕と興味の対象が、9割あっている(爆笑)

グルジェフ、ウスペンスキー、クリシュナムルティ、ルーミー、ラマナマハルシ、ニサルガダッタマハラジ。

9割は言いすぎか。

シャンカラとロバートアダムスって人は知ってるけど、名前だけだな(苦笑)

しかも、この人は、ダルビッシュダンスとか旋回舞踏とかを、どうもシャンカラ関係のインドのスクールで習ったらしい様子が書かれている。

しかも「これはウスペンスキーの教えの源流だと思われる」と発言!

でも、そこで、何かが欠けていると感じて、アートマナンダ・クリシュナメノンの教えに親しんだらしいですね。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジと並び称されるらしき、このシュリ・アートマナンダ・クリシュナメノンに関する情報も見てみましたが、いろんな方が、だいぶ以前から紹介されているようです。

残念ながら、日本語訳の書籍はありませんでした。

ルパート・スパイラさんの書籍は『プレゼンス』というものが発売されていて、溝口あゆかさんという方が翻訳されています。

溝口さんのホームページを見せていただいたら、イベントなんかも開催されているようですよ。


しまった!

ノンデュアリティという新しい趣味の分野が、開拓されてしまった(爆笑)

楽しすぎるぜ。

ダイレクトパスというらしいですね。

この、クリシュナメノンさん系統の流れ。

まあ、ちょっと勉強不足なので、詳しい事は、わかりません。


たぶん、想像では、それこそ「川」ですね。

『シッダールタ』という小説がありますが、あれ、最高傑作ですよ。

この「川」というのは、いろんな人が書いていますね。

川を掴まえる事はできない!

なぜなら、その川は水が常に新しく流れ去っている。

残っているものは、何も、常に、ない

常に新しく、それでいて、形を「川」という流れを形成している。

小説の中でブッダは、仏陀と言うか、ゴータマは、この川の「声」とひとつになる。

喜びも悲しみも、様々な、人間の弱さも、それが美しい。

人間である事の喜びである。

聖者は、人間になったところで、すべてを理解した。

そして、友であった人は、お釈迦様の下でいまだ探求をしていた。

ゴータマは橋渡し、川を渡す人の仕事をしていた。

友は「修行者」であった。

愛しき人との別れ、愛着に苦しみ、その人間としての苦しみ、その叫び、魂の咆哮が「生命」から溢れていることを知り、その声とひとつになったゴータマ。

一方「聖人」になるために「人間を捨て去ろう」という友。

こんなによくできた小説が、よくぞ書けたものだ。

正に、天才である。


まあ、そういうことですなwwwww


いろいろ見ていたら、まあ、ほとんど一緒です。

ただ禅との違いは、禅は、ただ、その流れさる行為にあとを留めてないだけで「幻想」とは言わない。

ただ、跡形もない。

跡形もないのだが、川という生命があるのだ。

それが生命力であり、コントロール外の、最初からある自己なのだ。


今朝は、更に、久しぶりに『臨済録』を読み返していた。

鶯がケキョと鳴いたら、聞こうと思わんでも聞こえるだろうと書いてある(爆笑)

まあ、そういうことですね。

「思ったとおりに生きているわけではない」

ただ生命の働きが、自分が何かする前に、認識する前に起こっている。



撮影者: ちぼたん


瞬時の働きである。


『後追いの認識』のことを『私』と思っているということの指摘。


だから全体とひとつでしょうwwwwww

鶯がケキョと鳴いたら、もう聞こえている。

耳が聞いたからなのか、鶯が鳴いたからなのか。

分かれていない。

それが、縁起しているということである。


最初から、自然に、そこにしかいないではないですか。

「私はいない」なんて必要ないよ(爆笑)

ただ無に現れている、諸行無常の「私は存在している」体験なんだwwwww

中身は常に、未知で捉えどころがない。

それと、同じことを、大和田菜穂さんは、伝えていると思います。


でも、これって「めっちゃ誤解されるかもね!」

僕だって、動画見て、本まで読んでいたのに、誤解していた。

まあ、いまでも誤解してる可能性はあるけどね。

なにしろ、これらを教えている人にリアルで会った事が一度もないからねえ。

全部「想像」です。


僕が批判したいのは、この無限のリアルを幻想と捉える部分です。

批判というのか、たぶん、理解できていない部分です。

幻想と言うのは、「幻想のようなもの」という意味です。

川の水は常に流れているから「跡形もない」

つまり「認識して捉えたときには、もう、遅すぎるのだ」

だから、常に新しい、コレは、掴まえられない。

掴まえて、手に乗せてしまっては、それは川ではなくなるからだ。

しかし、この川は、リアルに存在していないか?

つまり、それは、全体の表現として、生の叫びとして、川から発せられているのだ。

生命の声なのだ。

そして、その生命の声は、川に限らず、石にも、太陽にも、人間にも、なにもかもの生から発せられている。

その愛と憎しみ、生きる苦しみの中にある、諸行無常の中にある、真の存在の美。

花が散る、悲しみと喜びの中で!



だから「死にとうない」のである。

死にとうなくても、死んでしまうのが、人間である。

しかし、それを幻想であると突き放すのは、違う。

断固として、それは、違う。

清浄なものだけが、あるのではないのだ。 

そういう『絶対無』の世界が本当ではあるけれども、人間を「いまここ」でしているのだ!!!!

自分が自分している。

禅でも、一旦、突き抜けてから、また社会に帰って来るでしょう。


盤珪さんという人が「あなたたちは、そのままで、何もしなければ仏です。その仏さんが、欲のある人間になったり、怒って鬼になったりしてらっしゃる」と言ったときの意味を考えてみてください。

悟って、ハイ、終了なわけがないでしょうwwwwww

僕ら、ここで、生きているんですよ。

だから、瞬間、瞬間の手放しなのです。

川の水を掴もうとしない。

思惑を外れるというのは、常に、ある祈りなのです。

あなたは、悟ったといっても「人間やめれますか?」


お釈迦様は、生きて、教えを説いて回ったのですよね。

社会の中に、帰ってきています。

この世界が「幻想」であるのならば、そんなことするはずがないでしょうwwwww

燃え盛る煩悩の「火」に焼かれている人々を救済しようとしたのです。

その痛みは「幻想」ですか?


これは認識としての我の、お話だと思います。

固定化された「私」などというものはいないという意味なのです。

未知が、向こうから来ている。

何が起こるか分からない。



それは、人間が、何かする前に、もう自然があるからです。

しかし、この、生命、常に新たなる無に吹き抜ける形態なしの、コレ。

コレは厳然として、存在しているではないですか!

ただ、掴めないだけです。


私は悟った!

はい、おしまい。


なんてことが、あるはずがないでしょうwwwwww

日常がありますよ。

みなさん!!


これは僕が叫びたいほどに表現したい事なのです。


囲われた空間の中に、真理はない。

真理は、開け放たれていて、誰にとっても、明白なのです!

僕達は生きている!

2015-06-10 16:29:05 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは。

今日は16時ごろに起きてきました。

母親に声かけられて、憂鬱な疲れた感じと共に。

コーヒーを淹れてPCを眺める。

あとは携帯でフェイスブックを見る。

PCがオンボロすぎて、FBを開けないのだ。

見ていると、あらゆる表現が、様々に繋がり、愛情、交歓が生まれていたり、対立や、批判が流れたりしているのが分かる。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



社会問題を批判する人も、人間の弱さを許す人も、同じだ。

結局は、愛、というのか、喜び、の、自由の、安心の世界を求めている。

そして、それが脅かされる事に、怒ったり、脅かされている人を慰めたり、開放された自由を表現したり、今の自分を楽しんでみたり、いろいろな活動がある。

まあ、そういったものの集合と反発が人生なんだろうなあ。

と、なんとなく思います。

疎外感や、苦痛は、心理的に、自己が、認められない場合に起こります。

あるがままに、在る。

その、自分が、最初から最後まで、逃げられない自分で、そこで、最初の最初から自然と一体であり、救われていると知る事が、安心ですね。

ハートの奥に、何も、触れる事のない『絶対安心』の核があります。

思惑から外れて、自分の体を寛がせる。

そうして感じられる、音や空気、触感や風景、様々印象を、敏感に感受する事で、そのハートの奥の、眠れる私は、起きてきます。

起きてくるというか、普段の私の知覚と、つまり純粋意識との交流が始まるのです。

それが真の私、なんでもない私であり、この夢の世界を楽しんでいる、魂とでも呼べそうな存在なのです。

もちろん、それは、知覚したものに色付けをした思考の言葉。

なので事実を、そのまま書いているわけではありません。

しかし、この、私は、現象界における、危機や、感動を敏感に受け取り、集中度と思考の放棄が明確にある場合は、能動的に、ここに現れてきます。

本来の私を表現します。

それは、恐らく、高次の感情中枢と表現されたもの。


呼吸と身体感覚、そして、現実を、リアルを捉える際の、明敏な、シャープな開放された、心理状態。

このような感じることの深まり、が、思考を落とし、その奥に在る、存在との交流を開始させます。

そして体の後ろで見ている意識とは、この現象界を、その別次元の私が、覗き込んでいる状態なのです。

鏡に映された世界。

鏡と言うか、水晶玉のような、この生の世界。

無個性のようで、確かに意志のある、この存在は、常に、眠っていますが、呼びかければ、起きてきます。

例えば、凄まじい危機のときや、あまりの悲しみに打ちひしがれている時、感動が、心の奥にまで響いて、開放された時などです。

そしてまた、瞑想のとき、この存在は、常に感じられます。

ただ、眠っているので、交流がないように、思ってしまうだけなのです。


まあ、こんなこと書いていたら、気が狂った人みたいですね、笑


でも、なんか本気のメッセージが飛び交ってきているので、その、私は存在しないに対する、何かを書かずにはいられない。

個である私は全体と一つである、そして、その映像内の私は、確かに、水晶玉の世界の中に在る、分断されない夢だ。

しかし、これを見ている、感じている、真の私は、不可視のハートにあり、それは、水晶玉の世界を、つまり宇宙を形成している働きの外にある。

例えるなら、○と○が、くっついている感じだ。

○○

で、その、○と○が、普段は離れているのが、感じ尽くすとき、つまり三昧しているときには、○と○が完全に合致する。

そこを分けている、普段の自己存在自体が、完全に開放されて、ハートから、その存在が溢れ出て、ただ、すべてを私、にしてしまうのだ。

これが思惑の消失である。

そうして、この、奇蹟のリアルは、正に諸行無常でありながらも、私の自己だけの機能の上に立ち現れて、感動というのか、凄まじい愛を与え続けている。

生命の力である。

この生命の力の中に、私は、生まれているのだ。

それは確かに、幻想のようなものではある。

しかし、この与えられた体の、大切さは、何者にも変えることはできない。


ただ、いま、この時だけの、贈り物なのである。

永遠とは、この、生命の、神の力が浸透した宇宙の事である。

そして、その生命の力と、目覚めた私がひとつに融合したとき、私は、その命、その力と分断されていない事を知る。

花は塵り、土に返るが、それを見たものがいる。

そして、心が、その内側に生きている、その真のハートは、違わないのだ。


あなたは、私を、生きており、私が、あなたを生きている。

これが本当の真理である。

奇蹟を奇蹟たらしめているのは『私が存在している』からなのだ!

これを否定できるものがいるだろうか?


「何か」が私の不在性に気づいたという。

この「何か」こそが、その、ハートの向こうにある真我なのだ。

その「何か」は、普段は眠っていて、受動的であるが、感情が完全に高まって、沈黙して、凄まじい集中と開放の中にあるときは、能動的に起き上がってくるのである。

それは、普段の知覚では捉えきれないのである。

そのために、様々な、宗教が生まれてきたのである。

だから、そこは、個人意識の消滅と、宇宙意識の誕生のようなものだ。

例えるならです!


確かに、映像は、向こうから、私にやってきている。

これは真実である。

私は生まれてから一歩も動いていない。

ただ、この世界が、巻き起こってきているのだ。

しかし、この、体に、精妙な精気が流れ、そして、その精気が純粋な知覚を目覚めさせ、それが、全体を完全に統御するほどに、高められたとき、その純粋意識の向こう側から、真の意志が、つまり、この世のものではない、魂の叫びが生まれる。

それが芸術である。

この魂の叫びは、VOICE.

声である。

主人からの呼びかけなのである。

この奇蹟の世界に、目を覚ませよ。

この主人の声に、耳をすませて、よーく聴いていく事だ。

その「ささやき」を敏感に聞くならば、本来の面目は、目を覚ます。

風のような我である。


世界には実体はないが、この、生命、精気の流れの向こうから来る、呼びかけは、明確な実体をもっているのである。

ただ、そのスピード、また、繊細さが、あまりにも、微細で、捉えがたい。

それでも、その力は、こうやって、すべてに浸透して、今ある、奇蹟の地球を、天体の運行を、また、人間の生を、太陽を輝かせている。


その力。

そこに帰るのは、体があるから、である。

体のないものは、そことの分離がないのだ。

つまり、魂を、個性を、形成する余地が、生まれていないのである。

そうして、その、魂が、明確に形成されたとき、それらは、眼となる。

純粋な理性が、世界を見る。

その眼は、全体の意識の中に、融合され、あなたと一つになっているのだ。

今までの、すべての、形成された「何か」の経験。


まあ、ちょっと、ここは「空想」が入りすぎましたね。


でもね。

この世界で生きていること、そして、あなたが生きていること、自然があること、そういったものは、体感の世界なのです。

体の感覚です。

その自己の不在性は、思念の世界の事です。

ただ在る、コレだけの世界。

それを捉えている自己は、存在しています。

居場所は「ハート」です。

みぞおちです。


その、愛は、確実に、存在します。

たとえ、完全に、自我が迷妄の中にあろうとも、すべての存在は、すでに救われているのですね。


しかし、このような、ことが、言葉で語られると、ただの概念になります。

だから文字は立てない。

ただ座る。

ただ、瞑想するんです。

開かれた世界が、ただ、黙々と私に繋がる。

その開かれた世界と融合する事、融合している事だ。


生きていることしか問題にしない。

徹底的に、自分だけにしか、問題はないのだ。

私は存在する。

私はできる。

私は望む。


ここに落ち着いて、ただ、その人生の苦しみの中を逃げない。

ただ、そこで、目の前の事実を生きる。

平凡な日常である。

しかし、この平凡な日常こそが奇蹟の実現なのだ。

雨が降っている。

鳥が鳴いている。

花が咲いている。

わたしが生きている!!!!


私は存在しない―それは、本当に、残念な事である。

分別された私というものはない。

それが、無我である。

つまり、すべては縁起しているということだ。

機能としての私。

純粋な知覚としての、また「想い」としての私は在る!!!!!


意志は、その、感覚が、凄まじく集中された時に、生み出されるのだ。

私がしているのではない。

その、意志自体が、この世界に、届く。

天と地が繋がる。

宇宙は、完璧だが、人間の意識は、まだ未完成である。


グルジェフさんの言葉。

「ほんとうに、あなたは、真理を知りたいですか? 知るためには苦しまなければならない。100万フラン分苦しまねばならないが、あなたは1フランも出したくないという」