豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

聖戦とは何かを考える

2014-04-30 13:09:27 | 日記
さて、今日は神からメッセージが来ました。

それは、聖戦とはなんでしょうと訴えてきたのです。


僕は思うのですが、自己解放というのは、僕が至ることではないのではないでしょうか。

僕が救われるには、赦しが必要です。

あるがままに現れを受け入れることも必要です。


しかし、これを悪魔を野放しにするという意味に受け取ったら、どうなるでしょう。

パーティが始まってしまいます。

もう、パーティが始まっているのが、今の世界なのです。

ピンチ!

なのです。





煙草が切れたのでコンビニ行こうと思ったが、髪がボサボサすぎるので母親の家へ。

髪の毛なおして「16時20分くらいに出てくでなあ」とか言う。

ふと、テレビを見ると韓国船が沈没したというニュースが・・・・・・

船内放送で待機するように流れ、娘からメールを受け取った父親が、それに従うようにアドバイスした。

結果・・・・・・

僕「なんで待機するように放送したんだろう??」

ここで母親が「船長は真っ先に逃げたらしい」

僕「え!? マジで?」

母親「あんたみたいなオカルトで罪を犯しても許されると思ってたんやに」


ちょ、ちょーっと待ったあああああああああ!!!!


これは想像が入りすぎているだろう。

その非常時に思想が影響した可能性があるとして、まず船長は、なぜ船内放送で待機を命じて逃げたのだ!?

まあ、それがほんとうの情報かどうかは別として、ほうとうと仮定してみると、どうなんだろう。

単に我が身可愛くて逃げたのだとしても、他の乗客にも「逃げろ」と普通は言うが・・・・・・

不思議だ。

状況判断を誤って、なんとかなると思っていたら、意外にすぐに非常事態になって、そのままスタコラサッサだったのだろうか。


うーむ、しかし、これを『すべての罪は赦される』と信じていたからそうなったというのは、いくらなんでも、酷い。

この『すべての罪は赦される』は、自分のやりたいようにやっていい、ではないのだ。

この話の流れだと、

何をしても赦されるから『自己』のやりたいようにやりなさいと、そのオカルトが言っているようではないか。


まあ、僕もその教えを知らないから、この2つの言葉からの、勝手な想像だけれども、

『悔い改める必要は無い』とその教えは言うのだという。


①全ての罪は赦される

②悔い改める必要は無い


その教えが、船長の行動に直接、繋がったのかどうか。

もし、ほんとうに咄嗟の非常時に、繋がったのだとしたら、悲しすぎるじゃないか。


『罪悪感』というものは、神の悲しみが反応している状態で、これが赦されるのは、神の至福に留まるからである。


神の至福に留まっていたら、目の前にある生命は、すべて自分自身なのだ!!!!

主客一体というでしょう。

わたしはあなたで、あなたはわたしなのです。

微細なる生命という『心』は、真我の展開した状態で、この至福は、いま、ここで愛なのです。

人間だけではなく、ありとあらゆる生命(空)は、自分と分割されない、生命(空)だからこそ、不死なのである。

一体化しているからこそ、赦され、癒されるわけです。


これは非常に重要な問題だ。


つまり僕が『想念』と『罪悪感』と『習慣(恐怖)』という3大悪魔を簡単にペットにすると書く。

すると、ある人がこれを、自分が2人いて、片方の自分が本物で、もう一人の自分に都合の悪い方を悪魔とするということだ!!!!

都合のいい方の自分を『神』として都合の悪い方の自分を『悪魔』としてしまったら、もう何でもありになる。

見たくない部分、『罪悪感』を感じる部分は悪魔で、自分が善いと認識している部分が『神』というのは、単に我が儘なだけでしょう。


この悪魔に対抗しているのは『至福=愛=宇宙』で、もうひとりの自分ではない!

観照者ですらない!


この時点では心は虚しくなっていて『自己』というものはトータルに明け渡されているという前提があるわけです。

嬉しい、楽しい、大好きではないのです。


アルジュナが戦いたくない親族との戦争に悩んだとき神は、

アルジュナよ、ためらうな、これがお前の運命なのだ、

今は戦うべきときなのだと言ったのです。

そしてアルジュナは神の与えた試練に立ち向かった。


ここには現状を受け入れて、戦いに向かう姿が描かれているのではないでしょうか。

現状を理解しているのです。

この場合『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』は差しだされている。

しかし、これは、何をやっても赦されるから戦おうという姿勢ではない。

むしろ、自分が差しだされているからこそ『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』が払拭されているのです。

自分が差しだされていない場合は、もちろん、戦わずして捕らえられたでしょう。

それで『自己満足』というわけです。


博士が、聖徳太子の息子の一族がすべて戦わずして滅亡した話を書いていました。

聖徳太子ですら、戦ったのですと書いている。

目の前の人生に、神が与えた、試練を、『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』で避けてはいけないということでしょう。

自分の居場所がわかったら、あとは人生を生ききるのです!


①すべての罪は赦される

②悔い改める必要は無い

なぜなら、あなたは自分の人生を生ききったからだ。

戦ったからだというわけです。


この地点での戦う姿勢というものが何なのかは理解にかかっているでしょう。

というか、普通に理解できる。

なぜなら、その人は至福に留まっているからです。

ハートにある人が、現れに対する信頼がある人が、目の前の試練を避けるでしょうか。

受け入れて赦し、悔い改めないのは、人生を生ききっている、戦っているからでしょう。


ムキになって書いてしまいましたが、自分も、解決しなければいけない問題だからでしょうか。


例えば、ある人が、散々悪い事をしている。

自分も、その悪い事の被害にあってしまった。

そのとき、すべてをあるがまま赦しているのであれば、単に自己都合なのです。

すべてを赦すには、悔い改める必要がなくなるには、悪いことをしている人の『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』を見て、それが救いがたい者であれば、無視する。

救いを求めるようであれば、諭す。

また、自分自身が被害を受けるようであれば、避ける。

また他者が被害を受けるようであれば助けるわけでしょう。


実際には心のない人間はいません。

『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』が、その人を悪業に立たせるのであって、それで苦しむのは、その人自身なのです。

僕自身も、この悪魔に自分を差しだして、散々苦しんでいるわけです。

ハートの奥に帰れば神である人間が、その魂の汚れのために現れを穢し、苦しんでいる。

その苦しみを見て、アホだと言うのはだめだと思うのです。


苦しんでいるのは、心が鬼になっているからなのです(爆笑)

ああ、あそこに業によって苦しむ人々がいる、しかし『僕』は至福にいる、彼らもそのうち気が付くだろう。

ほうっておけ!

というのは、いくらなんでも、おかしいでしょう。


ハートの奥にある至福と共にいる人が、そんな行為をするわけがない。

ブッダが食中毒で死にかけたとき、その食事を提供した人に「私の最後の食事を供養したのだから、お前は功徳を積んだ」と言ったらしい。

これが赦しであって、悔い改める必要がない境地ではないでしょうか。


しかし、ここで、もし、ブッダが、その人の供養した食事が、毒だと知って食べたのだとしたら、どうでしょう。

これでは、おかしな話になってしまいます。


グルジェフさんも、こう言っています。

悪いと知って罪を行えば、償いがたい罪を犯す。


『罪悪感』がないというのは、目の前の、いま、ここで、愛と一体化しているからなのです。

良心が痛むのに、大丈夫だと無視することでは、あ、り、ま、せ、ん。

この場合に、真に教えを理解している人が、愛と一体化している人が、どう人生を戦うのかなのです。


僕が飲み放題で、お金にだらしないけど、そこは、まあいっかっていうのは、赦しではないでしょう(爆笑)

また、過去に、あんな悪い事したけど『罪悪感』なんていらないやと言ってしまったら、アホでしょう(爆笑)

『良心の呵責=神の悲しみ』がそこにある。

しかし、ここで無欲が貪欲を制するように戦うには、神の至福がなければ無理なのです。

悪想念の海の中で生きる、僕たちの周りに、真我の至福でいる状態を頻繁に起こらせる必要があるでしょう。


悪魔が、その人を乗っ取っているからです!!!!

本来の、その人のハートにある自然な心は、愛そのものなのです。


『罪を憎んで人を憎まず』という珠玉の格言があります。

この罪は、『想念』『罪悪感』『習慣(恐怖)』の3大悪魔で、これを消滅させなければいけない。

自分自身の『善』を持ち運んだら、信条を持ち運んだら、こんなことできるわけがないじゃないですか。

自分がもういないから、神がそこにいて、この神の至福が、行為に無意識のうちに現れる。


あるがままに生ききっている究極の境地!


まあ、僕はまだ、ふんだんに、守るべき自己を持っているということが、よくわかります・・・・・・orz


バベルの塔のてっぺんで、見ているのは、単に孤独な自我である。

この観照者は、人生の現れの中に消滅してしまわなければならないのです。

そこで、初めて無為自然。

愛という大海、極限に到達し、もはや死はない。

また悔い改めることも、罪もない。

なぜなら、その人は、もはや、神、そのものであるからです。


って、まあ、偉そうなこと書いてないで「お前がそうなれよ」と怒られそうですが・・・・・・orz

興奮してごめんw


でも、真我の至福というのは世界そのもので、つまり目の前に、今展開している人生そのものだと思うのです。

あるがままに、純粋な美しさが爆発している映像なのです。

ド素人の禅

2014-04-30 10:50:42 | 日記
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こんにちは!

不生不滅の真我である、みなさん。


本日から夜勤再開ではやくも疲れてきた豊田です笑


思えば、この連休中はずっと精神世界に迷い込んでいました(爆笑)

昨日なんか、深夜にブログ書こうと思って、瞑想状態に突入しない自分に悩み出すという意味不明な展開。

首の後ろがポイントだと思って情報探索してみると、憑依霊の出入り口だとか、ソーマ放出のポイントだとか、神経の帰還点だとか、まあ他にも様々に怪しい情報のオンパレードw


そこから禅批判のページを発見しておもしろいので熱読。

筆者は、自分は悟っていると確信されてました(爆笑)


あ、

念のため、書いておきますが、


僕は、解脱とか、悟り、光明等々には達していませんからね!!


もちろん、知っているとは思いますが、単に、怠け者の妄想狂なのです。

書くまでもないと思いますが、念のため、書いておくのです笑


この悟ったと思われている方は、比較停止=無=悟りと言う。

だから、簡単なことでたいしたことはないのだ! と、


まあ僕も、たいしたことはないには同意しますが、この比較停止=無=悟りには爆笑

しかも、散々に批判している対象の名文の中に悟りの境地がユニークに表現されています。

理解できないから間違っていると思うのですが、知っている人が読んだら理解できるのです笑


しかし、これを知っているからと言って、悟ったことにはならない。

だから、あの禅僧の人たちは、先達とは違う、ユニークな表現で体験を語るのです。

誰かと同じ表現だったら、本物かどうか、分かんないじゃないですか。

体験からくる、その人、独特の、言い回しが出てくるのです。


師:あなたは、どこにいるのですか?

弟子:どこにもいません! 無!

とか言ったら、中国の禅だったら、棒で散々に叩かれてしまうでしょう。

師:わかったか?

弟子:わかりませんよ!!!!

師:そこだ!


って、まあ、これはド素人が勝手に考えているので専門の人が見たらアホかと言うでしょうが笑


師:あなたは、どこにいるのですか?

弟子:沈黙

師:カーツ!!!!

弟子:沈黙

師:お前はアホなんか??爆笑

弟子:師匠をひっぱたいて、カーツ!!!!


うむ、自分のアホさ加減を晒すのは、これくらいにしておこう。


たとえば目の前にコップがあって、これはコップではないと言う。

でも、この人は、これはプリンだと言うのでしょう爆笑

コップでも、プリンでも、ただの名前だから一緒のことだというわけです。

だから、死も、ただの名前ですと、言うことですね。

死ではなく、電卓だとかで解決できる話だから、たいしたことないですねと、

しかも比較が働かないので、生死を意識することもないわけです。


いやいや、これは、いくらなんでもアカンでしょうがなあ!


あ、

でも、、、


まあ、


そんだけのことなのかな??



生老病死は避けがたい、煩悩の火も避けがたい、しかし、ただそれは過ぎ去る。

名称と形体とが滅び去れば、煩悩は消え去るが火は残る・・・・・・


意外に、凄い人の話を読んでいたのかもしれない(爆笑)




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ハート

2014-04-29 17:16:37 | 日記
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こんばんは!

親愛なる同胞の、みなさん。


自我の大騒ぎにすっかり、心奪われていた豊田真大です。


この現実世界は『わたし』の現れです。

静かにしてハートを感じていると、意識が何もかもを生み出していると分かるでしょう。

この光の大本がハートにある『わたし』


静粛の中にゆらめく無の世界は、心の潜在性が開花させている現れなのです。


自我に固執した我々は、いつも目の前の映像しか見ていないので、親愛なる人を忘れてしまいました。

あなたが本来『幸せである』ことは、全員が最初に生まれる前からいる場所なのです。


真我は何処にあるのか問い続ける意識は、真我の煌めきの反映なのです。

この煌めきは『意識』という煌めきなのです。

閃きが起こる大本は、ハートにあるので、存在の確立、や、恐怖の克服もほんとうはない。


絶望することも、ほんとうは必要ない。


だけれども、人間は絶望して、自分がちっぽけな無であることを自覚しないとハートへ向かわないのです。


休日で暇していたので様々なスピリチュアル情報を見ていましたが、そこに書かれていることは、

自我の大騒ぎです。

世界の拡大です。


普通に言って、自己を忘るるには、どうしたらいいか。

何もせず、源に帰るしかないのです。

源は、自分が体だとは認識していません。

そして、この源は、意識が帰ってくるとわかるのです。

ニコッと微笑むのです。


神の愛に抱かれるとは、この状態に完全に突入することだと思います。


僕はグルジェフさんとOSHOとクリシュナムルティを比較した場合、

クリシュナムルティは明らかに別次元に突入している存在だと感じます。

またラマナ・マハルシにも同じような『空気』を感じます。


全存在を感じている『わたし』が存在している地点は、更に深く入れる地点なのです。


頭頂から性の根源的エネルギーが抜けるという恍惚体験をよく目にしますが、これは、単に状態の変化です。

もちろん、通常の生活には比すべきもはない恍惚感に浸っているのでしょう。

しかしサマーディは、最終地点ではないのでは、ないでしょうか。


まあ体験もしていない僕が偉そうに言える立場ではないのでしょうが、心の奥にある『わたし』は、明らかに至福です。


今朝、起きたとき、

神が幻影を見せましたが、それは裸の女神に裸の赤ん坊が抱きついている、抱かれている絵です。

そして、その周辺にたくさんの人がいて、それを見ていました。




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出来事は変わる!

2014-04-29 15:06:53 | 日記
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こんちにちは!

人生という壮大なる冒険を楽しんでいる、みなさん。


さっき嫁さんと電話していたら『占いツクール』っていうサイトの小説に嵌っている様子。

僕も登録してみたけど、作るの面倒そうで、速攻挫折しました(爆笑)


さて今日は暇という最高の贈り物をいただいてますので、もう1丁。


出来事は起こっているということであります。

なんと人間に為しうることは一つもないのでありますよ。

ですから、このままで大丈夫かな?

とか、性格変えないと、これからうまく生きていけないんじゃないかなとか、

悩んでいる皆さん!


なんと、今、このブログを書いている僕も、

ただ出来事が起こっているのを眺めているだけなのであります(爆笑)


これは、生まれたときにいただく体、そこから形成される心が、まあ言ったら経験が、同じ反応を繰り返すからなのです。

現実世界と自分の内面世界は、作られたものなのです。

誰が作っているかは、もう知ってますよね!?


そう!

あの!

神なのです(爆笑)


ですから、この人生という一大ドラマで、出来ることは何もないのです。

行動したり、創作したり、遊んだり、仕事したり、恋愛したり、いろいろしているのですが、

なんと、ヤツに嵌められているのです(爆笑)


だから、皆さん、心配無用です。


何事が起こったとしても、全ては神の采配の内にあるのですから、自己責任などありません!

実際の社会的責任は起こってきますよ。

しかし、この何もかもが、一切、自然法則の中で起きている。


人生を変えることはできませんが、存在を変えることはできるのです。

そして、何と、我々凡人は、運命から逃れることも許されているらしいですよ!

つまり、この波動、もしくは振動と呼ばれるものを希薄な段階に高めていけばいいのです。

こう書くと難しそうに見えますが、実は、


単に、純粋であるということだったのです!!!!


このコツは、執着しないということなのですが、これも難しく感じる。

なぜなら、お偉いさん方が、この執着という言葉に執着して、散々にごたくを並べたからです(爆笑)

執着に執着していたのです。


執着しないというのは、現実に何がやってきても無視することなのです。

無視というと聞こえが悪いですが、出来事は淡々と起こってきて、もちろん僕の個性はそれに社会的に対応します。

しかし、この対応、まあ反応は、仕組まれているのです。

まあ、カルマやら、なんやら、難しい論理が色々あるようですが、そんなものを勉強している時間はありません(爆笑)


ですから、単に、今起こっていることを見て、聞いて、確かめて、そして華麗に無視!

気にしない。

何を気にするかというと、自分が、至福に留まっているか、純粋であるかと気にするのです。


ここで問題になってくる最強にして最大の敵『恐怖心』を克服しないといけないのですね。

これは、まあ、無理なようですw

だから、生存の恐怖の上に乗っかっている状況を頻繁に作る必要があります。

慣れと親しみを遠ざけるのです。

今日は、初めて、見て、聞いて、確かめているように感じてみる。

まあ、これも難しいか・・・・・・。

でも意識すると少しは変わります。

自分の家とか、自分の会社とか、自分の友達、とか、まあ慣れていると、すべて知っている自分のものになります。

自分の親とかね。


しかし、今日、初めて、そこに立っていると思えば、少しは恐怖が沸いてきます。

禅の『一期一会』ですね。


何が起こるか分からない!

ほんとうに何が起こるか分からないのが人生のはずなのです。


これを意識して突入させるのですね。

そうすると、なんと、出来事が新鮮でドキドキしてくるのであります。


かなり脱線しましたが・・・・・・。


とにかく、出来事のパターンを変えるには、自分がやっているという意識を手放さないといけないのです。

明日はこれをしよう、昨日はこうだった、よし、これをやって成功しようとか、すべて出来事なのです。

出来事のパターンを毎日見ているだけなので、自分がやっているわけではないのですね。


しかし、この偉大なる人間は、機械だけではない。

機械にくっついている、真我は、『幸せであること』なのです。

この『幸せであること』とは純粋さが爆発しているということなのであります。


この純粋さが爆発した状態で、人生の平凡な瞬間を過ごしてみると、パターンが見えてきます。

しかし、ここで何もしないのです。

ああ、嫌だ、こんな自分は変えてしまいたいとか、

もっと大金持ちになるために努力しようとか、

悟るために座禅をして、読書をしよう、なんなら禅寺にでも通うかとか、

そういう思考もしないし、自分を変えるための何もしない。


ただ見ていて、無視するのです(爆笑)


沈黙!

そうすると段々と心が軽やかになってきて、恐怖の出来事が、カオスの出来事が、至福の中で展開しているとわかる。

悩みが無くなります。


これは通常の考え方と大きくずれていますが、これは役に立つと思います。

まあ、僕自身が役に立っています。


出来事は相変わらず続いていきます。

人生は相変わらず続いています。

しかし、ここで、何か微妙な変化が起こっていることに気が付くのです。


振動率の変わった世界では『幸せであること』が出来事に邪魔されなくなるのですね。

そしてストレスが軽減するのです。


このストレスを軽減させることが、非常に、非常に、重要だったのです。

ストレスが軽減すると、怒るはずのパターンで、怒らなくなるのです。

そして行動も無意識のうちに変わっている。

無意識のうちにですよ!


こうなってくると、今まで無視していた世界が、変化してくるのです。

出来事が変化してくる。

映画のチャンネルを変えているようなものでしょう。


ここで至福を味わったら、今度は、『想念』『罪悪感』『習慣』という3大悪魔の存在に気が付くはずです。

これらの3大悪魔は、愛くるしいペットなのです(爆笑)

いつでもペチャクチャ喋っている悪魔くん、またストレスが要求する習慣、これらに対する神の悲しみ『罪悪感』を倒すのは、

簡単なのです。

ここは無視はできません。

無視できるほど、我々は強くないのです。

しかし、餌を与えて虚しくさせることはできるのです。


これを可能にするのが『至福』だけなのです。

心を虚しくして『至福』の感覚を味わったら、それを頻繁に自分に思い起こすことが必要で、これを梃子にして悪魔をペットにする。

与えるものは与えなくてはいけませんが、それは自分のためにではなく、悪魔のためにやってあげていると思うのです。

そして、悪魔は、意識を保った人間には憑依できないのです。

だから、肉体の欲求を満たすときには、必ず、自分が至福と一緒にいるということだけなのです。

そうすると悪魔は虚しさを食べます。


って、また、同じ事書いてしまっているじゃないか・・・・・・。


とにかく、言いたかったことは、

出来事は起きているのであって、あなたの自己責任は、ひとつもないということです!

しかし、社会的には責任を負わされますので、これは、回避するにはストレスを軽減することだけです。

方法は各自様々であります。

僕はブログを書くことでストレス軽減できます。


出来事が変化するのは長時間の自己解放によって、ストレスが軽減するからなのです。

意識して自己変革をして、何かを手に入れようと考えると、ストレスが増えて、完全逆効果になる。

自然法則を変えることはできませんが、そこから離れることは許されているのです。

離れるとは、自己から離れることなのです。




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古代中央アジアの神秘

2014-04-29 12:00:17 | 日記
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こんにちは!

執着が自然に流される光のシャワーを浴びている皆さん。


まあ・・・雨降ってますがw


昨日は一日中、グルジェフさんの本と睨めっこしていて、疲れ果てました。

そして電気を付けたまま寝ていて、母親に怒られるw

しかも、嫁さんと電話しているときに母親と口げんかになるという嫌な感じでした。

まあわたくし、こんなもんです。


本日は連休最終日ですので、ブログを更新しまくりたいと考えてますが、できないかもしれません(爆笑)


しかしまあ、みなさん、グルジェフさんの言っていることは、凄まじく高度ですね。

どの宗教の人が読んでも、自分の宗教と同じ事を指していると言うそうです。

中央アジアのトルキスタンで何かあったのだと思いますが、

たぶん、超古代のエジプトのスクール(アトランティス?)が中央アジアのトルキスタン周辺に移転していたのではないでしょうか?

なぜトルキスタンかというと、グルジェフさん自身がトルキスタンに何度も言及しているからです。

また中央アジア発祥の、ゾロアスター教、ボン教があり、これはチベットや日本の密教、禅、また仏教の如来蔵思想などにも影響しているらしいじゃないですか!

そして日本の正倉院には中央アジアからの宝がたくさん置かれているという。

つまり古代の中央アジアには、凄まじい根本宗教があったのではないだろうか?

まあもちろん「スーフィ」の影響はあるに違いはありませんが、あの辺り、アムダリア河とかの記述とか考えると、ゾロアスターの教えがどういう風に形成されていったのかも含めて、かなり興味があります。

中央アジアとチベットの『ゾクチェン』が繋がっているともネット情報ではあります。

まあしかし、隠された僧院を発見したグルジェフさん、凄まじい執念としか言いようがありませんね。



  トルキスタン                   
                 『出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 トルキスタン(Turkestan/Turkistan)は今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す。原義はペルシア語でテュルク人(Türk)の土地(-istan)である。
 トルキスタンは、西トルキスタンに含まれるトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギスタン・カザフスタン・タジキスタンと、東トルキスタンとも呼ばれる中華人民共和国の新疆ウイグル自治区(ウイグルスタンとも)からなる。

 歴史
 「トルキスタン」とは、「テュルク人」(Turk-)という単語に「~が存在する(ところ)」(-istān)を意味する接尾辞が付属したペルシア語での他称に由来するものであり、「テュルク」と呼ばれる一定の人間集団が集まり住む地域を指す言葉であって固有の地名に根ざした名称ではない。そのため、前近代においてはその地域的な範囲は明確ではなく、イスラーム時代以降はマーワラーアンナフルと呼ばれた中央アジア南部のオアシス都市の地域の北方に広がるテュルク系遊牧勢力がいた領域を指す漠然としたものであった。一方、スィル川の中流にはヤサヴィー教団の始祖アフマド・ヤサヴィーの廟墓があることで有名なトルキスタン市(古名ヤス)がある。
 13-14世紀のモンゴル帝国時代、いわゆる東トルキスタンは天山ウイグル王国のウイグル駙馬王家があったため、この地域はおおよそウイグリスタンと呼ばれ、15世紀からはチャガタイ家のアブル=ハイル・ハンなどモグーリスターン・ハン家の領域を本来モンゴル高原を指していた「モンゴル人の住むところ」を意味する言葉であるモグーリスターンなどと呼んでいる。西トルキスタンは変わらずマーワラーアンナフルと呼ばれていた。これはティムール朝末期のバーブルの時代でも同じであった。これらの地域を「トルキスタン」と一括する慣習はロシアなど19世紀以降のことである。
 13世紀以降はモンゴル帝国、次いで後継の汗国に支配される。

 テュルク人とその国家
 国名 人口 構成民族比率 面積 GDP 一人当たり 備考
 カザフスタン 1,683万人 カ46%、露35% 272万km2 1,184億ドル 7,800ドル
 キルギスタン 464万人 キ60%、露10% 20万km2 77億ドル 1,600ドル
 トルクメニスタン 424万人 ト77%、ウ9% 43万km2 270億ドル 5,700ドル
 ウズベキスタン 2344万人 ウ76%、露6% 44万km2 441億ドル 1,700ドル
 タジキスタン 605万人 タ64%、ウ24% 14万km2 69億ドル 1,000ドル イラン系のタジク人が多数派
 新疆ウイグル自治区 2000万人 維45%、漢41%、カ7% 165万km2 320億ドル 1,600ドル 中華人民共和国の自治区
 アフガニスタン 2800万人 パ45%、タ32%、ウ9% 65万km2 200億ドル 700ドル トルキスタン外

 ※テュルク系(カ=カザフ人、キ=キルギス人、ト=トルクメン人、ウ=ウズベク人、維=ウイグル人)
 非テュルク系(露=ロシア人、タ=タジク人、漢=漢民族、パ=パシュトゥーン人)
 上表のように面積はカザフスタンが桁違いに広い。人口はウズベキスタン、ついでカザフスタンが多い。一人あたりの所得はタジキスタンが目立って低い。
 アフガニスタンはトルキスタンには含まれないが、その国内には1000万人程のテュルク系民族が居住する。

 近代以降
 西トルキスタンは帝政ロシアの支配下となり、帝国がロシア革命で倒された後は社会主義共和国が作られ、ソ連の傘下に組み込まれた。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。ソ連崩壊とともに1991年に悲願の独立を果たした。しかし、独立以降も経済的・軍事的には未だにロシアの影響は強い。中央アジア連合創設への提案も行われている。
 東トルキスタンは清の乾隆帝に征服されて以来、清朝→中華民国→中華人民共和国と異民族による支配が続いている。1933年および1944年にソ連の後押しで東トルキスタン共和国を立てたが、いずれも短期間で消滅している。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている。 また、1950年代から1960年代にかけてはカザフの新疆脱出が発生した。現在は、独立運動各派は中国政府に非合法化され弾圧されている。そのため、東トルキスタン独立問題は米中間等で人権問題として問題視されてきた。なお、独立運動各派は、2004年9月に東トルキスタン亡命政府をアメリカで樹立している。

 その他
「トルキスタン」は、ロシア帝国時代には、西トルキスタンの南部であるウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタン一帯と、さらに狭い地域の名称として用いられたこともあった。



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