今日も激鬱症状です。
ゴロゴロしながら読みきってなかった『嫌われる勇気』を読了した。
どうも納得いかん、笑
あまりに単純過ぎて、シンプルで深さがない。
まあ、だいたいが、今、流行りの理論ではある。
感情の他者依存に関する指摘なのだ。
そして他者の反応に惑わされることなく、それでいて、社会、他者に貢献していく能力が、まあ、自己受容であるとなる。
すごく分かりやすく、実践も容易に感じるが、これは自己を無視している。
ように感じてしまった。
感情というものは、思い込みや理解とは共生しない。
それは独自に動いていて、例えば、自ら、統制しようとしても不可能だ。
確かに電話が鳴れば、急に静かに作り笑いが生まれることはある。
しかし深い部分にある失望や絶望は、表面的な現れとは別個にあり、そのような反応だけではない。
それは見えなくしてしまっている、無視しているような感じを与える。
この感情自体を剥離させ、自己の知性が、理性が、うまく使うというのが、グルジェフさんの目的志向の考えであるが、これも、同じようになる。
よく似ている。
深い部分での絶望を解消するには、本質そのものが、愛の側に触れることでしかないように今は思える。
それは知性的でもなく、目的志向でもないのだ。
どちらかと言えば、普段の感覚からして、逃避である。
いまは絶望であるが、それが、その奥にある本質に僅かに触れさせる。
本質は世俗的なリアリティには無関心であり、常に、愛、そのものである。
そこが痛みに触れること、愛に触れることの間を出たり入ったりしている。
これが愛の側に傾くことが心理的な癒しである。
そこに他者との関係性を持ち込むと非常にややこしくなってしまう。
知性、つまり、なんらかの統制が必要になるのだ。
いまここに生きるという発想も同じである。
僕は、この本に書かれているようなアイデアは初耳ではないし、実際に、生きようとした時も、短期間ならある。
しかし、崩れるだろう。
深い部分の感情を見ないことには、表面的な交友関係等々では満ちないものがあると思われる。
変えるとか、変わるという発想がおかしいのだ。
潜り込む、つまり、表面的な関係性、感情の、もっと深海に到達しなければ、ならないと思える。
そこから、この、浮き世の中でも、揺らがない、その不動の中心にある。
そこでは他者との関係性は消えている。
もちろん表面的には、喜びや、悲嘆が続いているのだが、それこそ、そこに私がいないのだ。
そうして、これらの、状態というのか、感情的な深まりが、イメージに映らないでいることである。
知性が、思考が、思惑が、状態を捉えてしまっては、もう、外れてしまう。
ただ、その、現実離れした生の、というか、溶け去るエネルギーの中で融解してしまって、自己の奥ふかくにある絶望が、消えていることで、ある。
表面的な価値や行為を弄ろうとする、つまり、決意や勇気によって変わろうとする提案は、難しいだろう。
それで満足できる人も、もちろんいるだろうとは、思うけれども、目的が動機や心理を作るというアイデアは知性優位である。
生の苦しみや痛みに対するには、それは、軽すぎるのだ。
深い部分の絶望に対するには、イメージが働かないような、自己の存在感覚の落下が必要である。
まあ、なんとなく、の、感想だし、勘違いも、あるだろうけどね。
って、ことで、仕事、いってきまーす。
ゴロゴロしながら読みきってなかった『嫌われる勇気』を読了した。
どうも納得いかん、笑
あまりに単純過ぎて、シンプルで深さがない。
まあ、だいたいが、今、流行りの理論ではある。
感情の他者依存に関する指摘なのだ。
そして他者の反応に惑わされることなく、それでいて、社会、他者に貢献していく能力が、まあ、自己受容であるとなる。
すごく分かりやすく、実践も容易に感じるが、これは自己を無視している。
ように感じてしまった。
感情というものは、思い込みや理解とは共生しない。
それは独自に動いていて、例えば、自ら、統制しようとしても不可能だ。
確かに電話が鳴れば、急に静かに作り笑いが生まれることはある。
しかし深い部分にある失望や絶望は、表面的な現れとは別個にあり、そのような反応だけではない。
それは見えなくしてしまっている、無視しているような感じを与える。
この感情自体を剥離させ、自己の知性が、理性が、うまく使うというのが、グルジェフさんの目的志向の考えであるが、これも、同じようになる。
よく似ている。
深い部分での絶望を解消するには、本質そのものが、愛の側に触れることでしかないように今は思える。
それは知性的でもなく、目的志向でもないのだ。
どちらかと言えば、普段の感覚からして、逃避である。
いまは絶望であるが、それが、その奥にある本質に僅かに触れさせる。
本質は世俗的なリアリティには無関心であり、常に、愛、そのものである。
そこが痛みに触れること、愛に触れることの間を出たり入ったりしている。
これが愛の側に傾くことが心理的な癒しである。
そこに他者との関係性を持ち込むと非常にややこしくなってしまう。
知性、つまり、なんらかの統制が必要になるのだ。
いまここに生きるという発想も同じである。
僕は、この本に書かれているようなアイデアは初耳ではないし、実際に、生きようとした時も、短期間ならある。
しかし、崩れるだろう。
深い部分の感情を見ないことには、表面的な交友関係等々では満ちないものがあると思われる。
変えるとか、変わるという発想がおかしいのだ。
潜り込む、つまり、表面的な関係性、感情の、もっと深海に到達しなければ、ならないと思える。
そこから、この、浮き世の中でも、揺らがない、その不動の中心にある。
そこでは他者との関係性は消えている。
もちろん表面的には、喜びや、悲嘆が続いているのだが、それこそ、そこに私がいないのだ。
そうして、これらの、状態というのか、感情的な深まりが、イメージに映らないでいることである。
知性が、思考が、思惑が、状態を捉えてしまっては、もう、外れてしまう。
ただ、その、現実離れした生の、というか、溶け去るエネルギーの中で融解してしまって、自己の奥ふかくにある絶望が、消えていることで、ある。
表面的な価値や行為を弄ろうとする、つまり、決意や勇気によって変わろうとする提案は、難しいだろう。
それで満足できる人も、もちろんいるだろうとは、思うけれども、目的が動機や心理を作るというアイデアは知性優位である。
生の苦しみや痛みに対するには、それは、軽すぎるのだ。
深い部分の絶望に対するには、イメージが働かないような、自己の存在感覚の落下が必要である。
まあ、なんとなく、の、感想だし、勘違いも、あるだろうけどね。
って、ことで、仕事、いってきまーす。