豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

死とゆー名の張り手ビンタ

2016-10-15 04:04:45 | 読者に人気の記事
昨日、午前5時35分に祖母がグループホームにて息をひきとりました。

夜勤明けで家でゴロゴロとスマホを眺めていたら母親が「まさひろ、大変や!おばあさんなくなったって」と言った瞬間の空気感の変化の凄さ。

まあ、松枝さんは97歳で大往生だけれども、人の亡くなる時の衝撃は、凄まじい。

小さなころに、たくさん思い出があるので、そーいったイメージが、沸いたり、エピソードを語ったりする。

父親にも、もちろん伝えたようだが、すぐに忘れるし、にこやかにしている。

妹に電話したり、友達に電話する。

前に勤めていた会社の人たちと飲み会の予定があったが、それどころではなくなった。

一応、関係はなくなったけど、千鶴さんにも電話して30分くらい話した。

大往生やんかと、言う。

まあ、そーやね。

母方の祖母も96まで生きていたし、おばあちゃん長生きしたなあ。

もう何年も顔見せに行ってなかった。

数年前に地域の祭で、たまたま会ったのが、最期になってしまいました。

どちらさんでした??

と、僕の顔を見ても誰か分かってなくて、まさひろやんか、まさひろとww

夜の暗がりの中に盆踊りの提灯の灯りが映えていて、沢山の人が、踊る。

姪っ子も一緒にいたかなあ。

たぶん、輪に入って踊ってた。

それを、踊りを車椅子に座りながら、ずいぶんと嬉しそうに眺めていました。

介護してくれている伯母さんと一緒に。

また祖母は、ほとんど皆んなから嫌われた笑

口うるさく非難するからね。

僕も高校生くらいのころに、玄関で、怒鳴り合いの喧嘩してたの覚えているし、みんな、はらわた煮えくり返るくらい怒ったことあるだろう。

グループホームでも、すぐ喧嘩してたらしいw

母親が孤りで逝ったことに関して、業が深いでなあとポツリ言っていたが、そーなんかねー。

マハルシだったら、行為者はいないんだから、業なんてないぞとかゆーんだろうか。

生死を扱う宗教の、お勉強をたくさんしても、まあ、いざこのとき、どうも言葉は軽い。

そこに、行為者はいないのです、、、

で?

それでも、この起こってくる現実には、様々な記憶やら、涙やらがあるのだし、そこには、深い深い、感情がある。

それこそ宝のような、思い出がある。

無常無我であっても、そこには、人生はある。

心はないといっても、起こりくる感情はある。

もちろん、その、言葉は真理を突いているのだが、しかし、ハートが欠けてはならないのだ。

慈悲。

そのような、空の瞬間の連続である、この人生において、様々に変化する体験たち。

そこに愛の関係性があるのは、それは、大切なことである。

見かけ上の表現。

浮き世にオサラバして安眠したわけだが、そこは、最初から最期まで、そこにしかない、そこだろうと想像するが、、、

しかして、死者にしか確かめようがない。

彼女は存在するのか、しないのか。

分かりようがない。

死を知ることがあったのか、消滅したのか、霊魂が輪廻の旅をするのか。

チベット死者の書のようなところにいるのか。

確かめようがない。

霊魂がありますとか、人は死なないとか、観察主体がある状態での、発見は、これは、ほんとのところどうなのかは、実際的にそうなってみなければ、分かるわけがないだろう。

しかして、生きてある状態での、その観念の外れた時。

ただ、今ある浮き世の現実とハートの開かれた、その奥の沈黙がある時、そこは不滅であると、なぜなら、顕現していないからだと、心は安心するし、精神的な苦しみから逃れられるのは、僕の場合には、そー感じるということしか、言えない。

死の問題は、別にいまに始まったわけではなく、祖父が亡くなってからずーっと考え続けているわけだが、再び、張り手ビンタが飛んできた気分ではある。

いろんな人に死については聞いてみたけれど、やっぱりわからない。

わからない。

そのときになったら自分がいない。

考えても答えはでない。

とゆうのが生きている側にとっては精一杯だ。

アストラル領域での、つまり、感情と思考は、一定期間、個体性を保ち、新たな生命体へ生まれ変わるが、それは元々、個性を完成していた人だけであるとゆー説明をどうするのか?

どうしようもない。

また仏教で言われる六道輪廻をどう確認するというのだろう。

天界に昇るように、もちろん祈る。

地獄に堕ちないように。

しかし、天国、地獄、この世界とリンクしてあるという説があり、それをスピリチャル知識なんかに符合させると、その天国や地獄は、、、

とかなんとか。

しかし、頭は、どれだけ、想いを巡らせようとも、ここに解決を見ない。

要は、ここで、この神聖な、敬虔な感情に、対して、言葉での理解を持ち込むと侮辱されているように感じるのだ。

ほんとうの苦しみから解放されるのに、人はいないとか、それは幻想とかをぶつける。

それは真理だが、しかし、そのところを開くのには、感情の関与が必要だ。

つまり、愛情を感じなくては無理なのである。

言葉は正しい。

しかし、感情は、その言葉から、何を取るか。

実質の絶望から、学んで、解放に至るとき、簡単にはいかない。

もちろん、とても簡単なことなのだが、簡単なことを簡単だと表現してしまうと侮辱的に映る。

大抵、宗教の話は人から嫌われる。

そー言えば昨日も、あるブログを見ていたら、散々にスピリチュアルを批判していた笑

現実的ではないとゆーのだ。

この場合、社会の常識の範囲外とゆーような意味だろうと思われる。

そしてなんと、このような悟りやら霊性について、語るのは上から優越感に浸るためだとww

これもよく指摘されますね。

要するに僕なんかは、とんでもなく非現実的で、勝手な理論で優越感を感じたいだけ、みたいに思われているかもしれない。

しかし、生死の問題は、現実だ。

リアルに日々、起こっていることなのだ!

もちろん、忘れてしまう。

まさか、この自分が死ぬわけないとは思ってしまう。

未来に夢観るのも、この浮き世の悲喜こもごもに踊るのも、すべては確かな生命とゆー、基盤があっての話である。

しかし、それは儚い。

まるで夢のように過ぎる。

だから現実だとゆーのは、ほんとに、この、ここで僕たちが生きてあるのは、奇跡に近いとゆーことなのである。

その瞬間の連続が、いま、ここで、愛としてすべてを包んでいるのだ。

それを、アホらしいと批判するのは自由だがw

まあ長くなったんで、このへんにしとこ。

おばあちゃん、長いあいだおせわになりました。

まだ僕のこころには生きてるからね。