豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

ノンデュアリティ VS 妄想自我くんw

2015-06-15 18:26:53 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



フッフッフ。

遂に激鬱病から脱出の気配が見えてきたぜ。

ノンデュアリテイ。

大和田菜穂さんの著書の副題は『個人のすべてを失ったとき、すべてが現れる』だが!

メインタイトルは『すでに愛の中にある』ではないか!!

メインはこれでしょう。

これを見失っては、ただの絶望イエイの悲惨な話ではないかww



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いや、昨夜も3時過ぎまで彼女の動画を見ていましてね・・・・・・orz

やっぱり、あの、セクシーな感じに惹きつけられているのだとww

そして、あの笑い。

うむ、どう考えても、ただの自己喪失ではない。

これは、つまり、心に帰ったのだ。

まあ、もちろん、そんなものはないとおっしゃられていますが、まあ、それを心と呼んでいるのである。

心の触れ合いとかいうときの心である。

言い方を変えれば『想い』だ。


この『想い』というやつは、実は、スピリチュアルとか非二元なんかでも、めっちゃ敵対視されているのだが、実は、これが愛とか慈悲とか言われるエネルギーなのである。

なんちゃってだけどww


でさ、開放されると愛の中にあるから、純粋な想いが、溢れているわけだね。

だから、あんなに元気なわけでしょう。

ただ、それが、まあ、非二元では触れられてないだけである。


肉体は我ではないし、世界は空であるが、しかし、私は、この向こう側の、言うたら彼岸の私は、認識は出来ないのだが、この想いとして、世界に触れているのだ。

そして、この想いの、力が、愛や慈悲である。

これが、愛と愛情とか慈悲と忍耐なんかを勘違いするので、難しい。

愛とかいうと「すきすきー」みたいなカップルではないのだ、笑

また慈悲も「自分が食べるのを我慢して、両親にあげる」とかではないのだ!

それは、変幻無辺の空の中に、また、想受滅した先にある、ほんらいの自分自身のエネルギー体の事である。

って、こんな、書き方したら余計に妄想になるww


だから、まあ、なんとも表現の仕様のない、しかし、感情で繋がっているものである。

ハートが開くと、そこが、起きてくるのだ。

そして、ノンデュアリティがメッセージで強調していないのだ。

強調していないのだが、タイトルは『すでに愛の中にある』なのだから、まあ、僕が、感じ取っていないだけかもしれない。


しかし!

動画なんかを見ても「生命の描写だけ」という部分「わたしはいない」という部分だけが強調されている。

ライフはミラクル。

確かに、ライフは、これしかない。

しかし、これは、ワンネスと一緒ではないか?

すべては縁起していて、ひとつであるものはない。

無明によって、行がある。

無明とは、なんのことだったか。

頭が無明であると知れである。

そして頭の裂け落ちる事が、解脱だ。


そして、ここに、愛が誕生しているではないか。

それは、これとか、あれとか、言えない、ただのエネルギーだが、それのことを生命エネルギーと呼んでいるのだ。

完全なるリラクゼーションと表現しているのは、つまり、これは、真我実現のことを話しているのではないか。

まあ、だから、こうやって、言葉で書くと思念の世界に入るから、表現手段としては、まあ「全体の描写だけがある」となるのだ。

そして、愛が、ある。

全てが現れる、それが、愛である。

そして、それは、想いに繋がるのだ!!!!!


フッフッフ。

そう、このハートの覚醒から、また、更に先があるのである。

そしてやはり、機能としての自己は失われていない。

それが『想い』なのだが、そこに繋がるには、このエネルギー、天と地を結んでいる、智慧の光と繋がらなくてはならない。

それが純粋理性であり、その純粋理性が、眼となり、この世界の体、感情から、経験を利用して、ある形成体を生み出すのである。

それが、グルジェフさんの示していた、自然に逆らう道だ。

めっちゃ、想像は入ってます、すいませんww


この、見ている眼、理解する眼、感知する存在は、非常に繋がりずらい。

眠っている時に夢見ているのも、感情と知性が働いているのだ。

そして、この真我のほう、つまりハートの奥の、なんとも表現しがたい、溢れ来る温かみのようなものは、その、想いの中に現れている。

この想い、こそが、こころなのだ。

こころである。


そうして、その感知体は、意識を集中して感じているとき、に、意図的に、体を委ねている時に、つまり集中してリラックスしている時に、そこに、ある力が、働いていることでしか、繋がらない。

この『ある力』のスピードと広さと、感受力は、生まれたままだと、全然、鍛えられていないのである。

そして、その『ある力』を鍛えるには、今、生きている状態で、自己を想起する事でしか鍛えられないのである。


しかし、一度、繋がってしまえば、その『ある力』のお陰で、この、真の私、つまり、真の理性である、夢見る向こうの、ひらめき的な、ものが、成長しだす。

うーん、これは、微妙かなwwww


まあ、つまり、ハートの奥に在る真我が、眠っているのが「おお、俺じゃないか」と目覚めていないのだ。

うーん、これも、めっちゃ妄想入ってますが・・・・・・orz


でも、あれだねえ。

この『愛の中にある』という核心部分を見逃してはいけませんぜ。

完全なるリラクゼーションは、全体と一であることで、齎されている。

しかし、この全体と一である状態、の、向こうに空無辺所があり、その空無辺所である、愛そのものの、エネルギーが、理解力を、目覚めさせるのだ。

これが覚醒である。

この理解力というのは『ある力』の性質が、そのスピードと広がり、感受力が高まらないと、働かないというか、働いているのだが、それが、自己の普段の知覚では捉えきれないのだ。

そして、恐らく、そのための修練をしていないので、それが、昔から秘密にされてきているので、そこが、まだ、目覚めていない可能性があるだろう。

だから、心なんてない。

神なんていないという発言が飛び出したのだ。


フッフッフ。


かなり読者を限定する書き方になってしまったぜww

しかし、この2ヶ月というもの、自分が自分しているという、言い方を変えれば、純粋意識の覚醒を促し続けるという、僕の趣味が、崩壊寸前だったのだから、まあ、書くしかないだろうww

なるほど、ここは夢の世界だ。

諸行無常で、そして、何もない。

しかし、この、言葉では言い表す事のできない、コレ。

そして、コレの、想いが、夢の世界を見ているのだ。

そして、そこで、触れ合ったりしている。

触れ合っているのだwwwwwwwwwww


って、まあ、今日も副作用で、必死な抵抗である自我君。

明日はまた崩壊しているかもしれません。


まあ、でも、ぐちゃぐちゃした認識の話はさておいて、この『安心』

なんというのか完全なるリラクゼーションの副産物は、これは、対象じゃないかもしれないが、あるのじゃなかろうか。

まあ、まだ、勘違いしてるかもしれません。


でも、どうしても、この、こころの奥にあるエネルギーが、溢れてきた結果としての表現があるような気がするんですよね。

これは更に純粋意識の中に包括されて、純粋意識が目覚めていると、この世界が夢ではなくなって、今度は、超絶リアルに、自分に踊りこんでくるはずなのだが・・・・・・。

「それもストーリーなんです^^」

という言葉が、脳裏を掠めるwwwww


この内部空間に消失しているのは、どうも、違うような気がするんですよねー。

この内部空間というのは、普段生きている世界で、その外側に、宇宙の外側に、心があるんですよ。

そして、その心と内部空間が融合すると、凄まじいリアルが、自分に舞い込んでくる。

その時に、自然と自分が一体化して真我実現。

そして、その内部空間と外部空間の間にある人間である自分自身。

その自分自身に帰ってきて、ただ、目の前の平凡な日常を見ると奇蹟だ。

神がいないなんて、とても、思えない。

神というのは、偉大なるクリエーターのことである。


法眼の話や、世界外自己の話、それに光のエネルギーの話が出てこないのも奇妙と言えば奇妙である。

でも、なんか、触れるものがある。

どうも真理のような、もの、情報に触れたときの僕の勘が働いている。

なにか、まだ、分かっていないのだろうなあ。

こうなったら、ドンドン吸収して、トコトン理解していくしかないだろう。

とりあえず「生命の描写」である世界で自己を消失している状態を維持してみよう。

そこで「愛」に浸り続けてみよう。


なんか、それって、ちょっと抵抗感があるんだけど・・・・・・。

まあ、やっぱり、自分って大切だし、せっかく生まれてきてるんだし、まだ愛の中に消失しなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。

まあ今日も、本読んで、動画見て、研究しよーっと!

恐怖以外のなにものでもない自己が失われることに、こんなに、のめり込んで大丈夫なのかなあ(爆笑)