豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

僕達は生きている!

2015-06-10 16:29:05 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは。

今日は16時ごろに起きてきました。

母親に声かけられて、憂鬱な疲れた感じと共に。

コーヒーを淹れてPCを眺める。

あとは携帯でフェイスブックを見る。

PCがオンボロすぎて、FBを開けないのだ。

見ていると、あらゆる表現が、様々に繋がり、愛情、交歓が生まれていたり、対立や、批判が流れたりしているのが分かる。



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社会問題を批判する人も、人間の弱さを許す人も、同じだ。

結局は、愛、というのか、喜び、の、自由の、安心の世界を求めている。

そして、それが脅かされる事に、怒ったり、脅かされている人を慰めたり、開放された自由を表現したり、今の自分を楽しんでみたり、いろいろな活動がある。

まあ、そういったものの集合と反発が人生なんだろうなあ。

と、なんとなく思います。

疎外感や、苦痛は、心理的に、自己が、認められない場合に起こります。

あるがままに、在る。

その、自分が、最初から最後まで、逃げられない自分で、そこで、最初の最初から自然と一体であり、救われていると知る事が、安心ですね。

ハートの奥に、何も、触れる事のない『絶対安心』の核があります。

思惑から外れて、自分の体を寛がせる。

そうして感じられる、音や空気、触感や風景、様々印象を、敏感に感受する事で、そのハートの奥の、眠れる私は、起きてきます。

起きてくるというか、普段の私の知覚と、つまり純粋意識との交流が始まるのです。

それが真の私、なんでもない私であり、この夢の世界を楽しんでいる、魂とでも呼べそうな存在なのです。

もちろん、それは、知覚したものに色付けをした思考の言葉。

なので事実を、そのまま書いているわけではありません。

しかし、この、私は、現象界における、危機や、感動を敏感に受け取り、集中度と思考の放棄が明確にある場合は、能動的に、ここに現れてきます。

本来の私を表現します。

それは、恐らく、高次の感情中枢と表現されたもの。


呼吸と身体感覚、そして、現実を、リアルを捉える際の、明敏な、シャープな開放された、心理状態。

このような感じることの深まり、が、思考を落とし、その奥に在る、存在との交流を開始させます。

そして体の後ろで見ている意識とは、この現象界を、その別次元の私が、覗き込んでいる状態なのです。

鏡に映された世界。

鏡と言うか、水晶玉のような、この生の世界。

無個性のようで、確かに意志のある、この存在は、常に、眠っていますが、呼びかければ、起きてきます。

例えば、凄まじい危機のときや、あまりの悲しみに打ちひしがれている時、感動が、心の奥にまで響いて、開放された時などです。

そしてまた、瞑想のとき、この存在は、常に感じられます。

ただ、眠っているので、交流がないように、思ってしまうだけなのです。


まあ、こんなこと書いていたら、気が狂った人みたいですね、笑


でも、なんか本気のメッセージが飛び交ってきているので、その、私は存在しないに対する、何かを書かずにはいられない。

個である私は全体と一つである、そして、その映像内の私は、確かに、水晶玉の世界の中に在る、分断されない夢だ。

しかし、これを見ている、感じている、真の私は、不可視のハートにあり、それは、水晶玉の世界を、つまり宇宙を形成している働きの外にある。

例えるなら、○と○が、くっついている感じだ。

○○

で、その、○と○が、普段は離れているのが、感じ尽くすとき、つまり三昧しているときには、○と○が完全に合致する。

そこを分けている、普段の自己存在自体が、完全に開放されて、ハートから、その存在が溢れ出て、ただ、すべてを私、にしてしまうのだ。

これが思惑の消失である。

そうして、この、奇蹟のリアルは、正に諸行無常でありながらも、私の自己だけの機能の上に立ち現れて、感動というのか、凄まじい愛を与え続けている。

生命の力である。

この生命の力の中に、私は、生まれているのだ。

それは確かに、幻想のようなものではある。

しかし、この与えられた体の、大切さは、何者にも変えることはできない。


ただ、いま、この時だけの、贈り物なのである。

永遠とは、この、生命の、神の力が浸透した宇宙の事である。

そして、その生命の力と、目覚めた私がひとつに融合したとき、私は、その命、その力と分断されていない事を知る。

花は塵り、土に返るが、それを見たものがいる。

そして、心が、その内側に生きている、その真のハートは、違わないのだ。


あなたは、私を、生きており、私が、あなたを生きている。

これが本当の真理である。

奇蹟を奇蹟たらしめているのは『私が存在している』からなのだ!

これを否定できるものがいるだろうか?


「何か」が私の不在性に気づいたという。

この「何か」こそが、その、ハートの向こうにある真我なのだ。

その「何か」は、普段は眠っていて、受動的であるが、感情が完全に高まって、沈黙して、凄まじい集中と開放の中にあるときは、能動的に起き上がってくるのである。

それは、普段の知覚では捉えきれないのである。

そのために、様々な、宗教が生まれてきたのである。

だから、そこは、個人意識の消滅と、宇宙意識の誕生のようなものだ。

例えるならです!


確かに、映像は、向こうから、私にやってきている。

これは真実である。

私は生まれてから一歩も動いていない。

ただ、この世界が、巻き起こってきているのだ。

しかし、この、体に、精妙な精気が流れ、そして、その精気が純粋な知覚を目覚めさせ、それが、全体を完全に統御するほどに、高められたとき、その純粋意識の向こう側から、真の意志が、つまり、この世のものではない、魂の叫びが生まれる。

それが芸術である。

この魂の叫びは、VOICE.

声である。

主人からの呼びかけなのである。

この奇蹟の世界に、目を覚ませよ。

この主人の声に、耳をすませて、よーく聴いていく事だ。

その「ささやき」を敏感に聞くならば、本来の面目は、目を覚ます。

風のような我である。


世界には実体はないが、この、生命、精気の流れの向こうから来る、呼びかけは、明確な実体をもっているのである。

ただ、そのスピード、また、繊細さが、あまりにも、微細で、捉えがたい。

それでも、その力は、こうやって、すべてに浸透して、今ある、奇蹟の地球を、天体の運行を、また、人間の生を、太陽を輝かせている。


その力。

そこに帰るのは、体があるから、である。

体のないものは、そことの分離がないのだ。

つまり、魂を、個性を、形成する余地が、生まれていないのである。

そうして、その、魂が、明確に形成されたとき、それらは、眼となる。

純粋な理性が、世界を見る。

その眼は、全体の意識の中に、融合され、あなたと一つになっているのだ。

今までの、すべての、形成された「何か」の経験。


まあ、ちょっと、ここは「空想」が入りすぎましたね。


でもね。

この世界で生きていること、そして、あなたが生きていること、自然があること、そういったものは、体感の世界なのです。

体の感覚です。

その自己の不在性は、思念の世界の事です。

ただ在る、コレだけの世界。

それを捉えている自己は、存在しています。

居場所は「ハート」です。

みぞおちです。


その、愛は、確実に、存在します。

たとえ、完全に、自我が迷妄の中にあろうとも、すべての存在は、すでに救われているのですね。


しかし、このような、ことが、言葉で語られると、ただの概念になります。

だから文字は立てない。

ただ座る。

ただ、瞑想するんです。

開かれた世界が、ただ、黙々と私に繋がる。

その開かれた世界と融合する事、融合している事だ。


生きていることしか問題にしない。

徹底的に、自分だけにしか、問題はないのだ。

私は存在する。

私はできる。

私は望む。


ここに落ち着いて、ただ、その人生の苦しみの中を逃げない。

ただ、そこで、目の前の事実を生きる。

平凡な日常である。

しかし、この平凡な日常こそが奇蹟の実現なのだ。

雨が降っている。

鳥が鳴いている。

花が咲いている。

わたしが生きている!!!!


私は存在しない―それは、本当に、残念な事である。

分別された私というものはない。

それが、無我である。

つまり、すべては縁起しているということだ。

機能としての私。

純粋な知覚としての、また「想い」としての私は在る!!!!!


意志は、その、感覚が、凄まじく集中された時に、生み出されるのだ。

私がしているのではない。

その、意志自体が、この世界に、届く。

天と地が繋がる。

宇宙は、完璧だが、人間の意識は、まだ未完成である。


グルジェフさんの言葉。

「ほんとうに、あなたは、真理を知りたいですか? 知るためには苦しまなければならない。100万フラン分苦しまねばならないが、あなたは1フランも出したくないという」