初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
今日は16時ごろに起きてきました。
母親に声かけられて、憂鬱な疲れた感じと共に。
コーヒーを淹れてPCを眺める。
あとは携帯でフェイスブックを見る。
PCがオンボロすぎて、FBを開けないのだ。
見ていると、あらゆる表現が、様々に繋がり、愛情、交歓が生まれていたり、対立や、批判が流れたりしているのが分かる。
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社会問題を批判する人も、人間の弱さを許す人も、同じだ。
結局は、愛、というのか、喜び、の、自由の、安心の世界を求めている。
そして、それが脅かされる事に、怒ったり、脅かされている人を慰めたり、開放された自由を表現したり、今の自分を楽しんでみたり、いろいろな活動がある。
まあ、そういったものの集合と反発が人生なんだろうなあ。
と、なんとなく思います。
疎外感や、苦痛は、心理的に、自己が、認められない場合に起こります。
あるがままに、在る。
その、自分が、最初から最後まで、逃げられない自分で、そこで、最初の最初から自然と一体であり、救われていると知る事が、安心ですね。
ハートの奥に、何も、触れる事のない『絶対安心』の核があります。
思惑から外れて、自分の体を寛がせる。
そうして感じられる、音や空気、触感や風景、様々印象を、敏感に感受する事で、そのハートの奥の、眠れる私は、起きてきます。
起きてくるというか、普段の私の知覚と、つまり純粋意識との交流が始まるのです。
それが真の私、なんでもない私であり、この夢の世界を楽しんでいる、魂とでも呼べそうな存在なのです。
もちろん、それは、知覚したものに色付けをした思考の言葉。
なので事実を、そのまま書いているわけではありません。
しかし、この、私は、現象界における、危機や、感動を敏感に受け取り、集中度と思考の放棄が明確にある場合は、能動的に、ここに現れてきます。
本来の私を表現します。
それは、恐らく、高次の感情中枢と表現されたもの。
呼吸と身体感覚、そして、現実を、リアルを捉える際の、明敏な、シャープな開放された、心理状態。
このような感じることの深まり、が、思考を落とし、その奥に在る、存在との交流を開始させます。
そして体の後ろで見ている意識とは、この現象界を、その別次元の私が、覗き込んでいる状態なのです。
鏡に映された世界。
鏡と言うか、水晶玉のような、この生の世界。
無個性のようで、確かに意志のある、この存在は、常に、眠っていますが、呼びかければ、起きてきます。
例えば、凄まじい危機のときや、あまりの悲しみに打ちひしがれている時、感動が、心の奥にまで響いて、開放された時などです。
そしてまた、瞑想のとき、この存在は、常に感じられます。
ただ、眠っているので、交流がないように、思ってしまうだけなのです。
まあ、こんなこと書いていたら、気が狂った人みたいですね、笑
でも、なんか本気のメッセージが飛び交ってきているので、その、私は存在しないに対する、何かを書かずにはいられない。
個である私は全体と一つである、そして、その映像内の私は、確かに、水晶玉の世界の中に在る、分断されない夢だ。
しかし、これを見ている、感じている、真の私は、不可視のハートにあり、それは、水晶玉の世界を、つまり宇宙を形成している働きの外にある。
例えるなら、○と○が、くっついている感じだ。
○○
で、その、○と○が、普段は離れているのが、感じ尽くすとき、つまり三昧しているときには、○と○が完全に合致する。
そこを分けている、普段の自己存在自体が、完全に開放されて、ハートから、その存在が溢れ出て、ただ、すべてを私、にしてしまうのだ。
これが思惑の消失である。
そうして、この、奇蹟のリアルは、正に諸行無常でありながらも、私の自己だけの機能の上に立ち現れて、感動というのか、凄まじい愛を与え続けている。
生命の力である。
この生命の力の中に、私は、生まれているのだ。
それは確かに、幻想のようなものではある。
しかし、この与えられた体の、大切さは、何者にも変えることはできない。
ただ、いま、この時だけの、贈り物なのである。
永遠とは、この、生命の、神の力が浸透した宇宙の事である。
そして、その生命の力と、目覚めた私がひとつに融合したとき、私は、その命、その力と分断されていない事を知る。
花は塵り、土に返るが、それを見たものがいる。
そして、心が、その内側に生きている、その真のハートは、違わないのだ。
あなたは、私を、生きており、私が、あなたを生きている。
これが本当の真理である。
奇蹟を奇蹟たらしめているのは『私が存在している』からなのだ!
これを否定できるものがいるだろうか?
「何か」が私の不在性に気づいたという。
この「何か」こそが、その、ハートの向こうにある真我なのだ。
その「何か」は、普段は眠っていて、受動的であるが、感情が完全に高まって、沈黙して、凄まじい集中と開放の中にあるときは、能動的に起き上がってくるのである。
それは、普段の知覚では捉えきれないのである。
そのために、様々な、宗教が生まれてきたのである。
だから、そこは、個人意識の消滅と、宇宙意識の誕生のようなものだ。
例えるならです!
確かに、映像は、向こうから、私にやってきている。
これは真実である。
私は生まれてから一歩も動いていない。
ただ、この世界が、巻き起こってきているのだ。
しかし、この、体に、精妙な精気が流れ、そして、その精気が純粋な知覚を目覚めさせ、それが、全体を完全に統御するほどに、高められたとき、その純粋意識の向こう側から、真の意志が、つまり、この世のものではない、魂の叫びが生まれる。
それが芸術である。
この魂の叫びは、VOICE.
声である。
主人からの呼びかけなのである。
この奇蹟の世界に、目を覚ませよ。
この主人の声に、耳をすませて、よーく聴いていく事だ。
その「ささやき」を敏感に聞くならば、本来の面目は、目を覚ます。
風のような我である。
世界には実体はないが、この、生命、精気の流れの向こうから来る、呼びかけは、明確な実体をもっているのである。
ただ、そのスピード、また、繊細さが、あまりにも、微細で、捉えがたい。
それでも、その力は、こうやって、すべてに浸透して、今ある、奇蹟の地球を、天体の運行を、また、人間の生を、太陽を輝かせている。
その力。
そこに帰るのは、体があるから、である。
体のないものは、そことの分離がないのだ。
つまり、魂を、個性を、形成する余地が、生まれていないのである。
そうして、その、魂が、明確に形成されたとき、それらは、眼となる。
純粋な理性が、世界を見る。
その眼は、全体の意識の中に、融合され、あなたと一つになっているのだ。
今までの、すべての、形成された「何か」の経験。
まあ、ちょっと、ここは「空想」が入りすぎましたね。
でもね。
この世界で生きていること、そして、あなたが生きていること、自然があること、そういったものは、体感の世界なのです。
体の感覚です。
その自己の不在性は、思念の世界の事です。
ただ在る、コレだけの世界。
それを捉えている自己は、存在しています。
居場所は「ハート」です。
みぞおちです。
その、愛は、確実に、存在します。
たとえ、完全に、自我が迷妄の中にあろうとも、すべての存在は、すでに救われているのですね。
しかし、このような、ことが、言葉で語られると、ただの概念になります。
だから文字は立てない。
ただ座る。
ただ、瞑想するんです。
開かれた世界が、ただ、黙々と私に繋がる。
その開かれた世界と融合する事、融合している事だ。
生きていることしか問題にしない。
徹底的に、自分だけにしか、問題はないのだ。
私は存在する。
私はできる。
私は望む。
ここに落ち着いて、ただ、その人生の苦しみの中を逃げない。
ただ、そこで、目の前の事実を生きる。
平凡な日常である。
しかし、この平凡な日常こそが奇蹟の実現なのだ。
雨が降っている。
鳥が鳴いている。
花が咲いている。
わたしが生きている!!!!
私は存在しない―それは、本当に、残念な事である。
分別された私というものはない。
それが、無我である。
つまり、すべては縁起しているということだ。
機能としての私。
純粋な知覚としての、また「想い」としての私は在る!!!!!
意志は、その、感覚が、凄まじく集中された時に、生み出されるのだ。
私がしているのではない。
その、意志自体が、この世界に、届く。
天と地が繋がる。
宇宙は、完璧だが、人間の意識は、まだ未完成である。
グルジェフさんの言葉。
「ほんとうに、あなたは、真理を知りたいですか? 知るためには苦しまなければならない。100万フラン分苦しまねばならないが、あなたは1フランも出したくないという」
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
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母親に声かけられて、憂鬱な疲れた感じと共に。
コーヒーを淹れてPCを眺める。
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PCがオンボロすぎて、FBを開けないのだ。
見ていると、あらゆる表現が、様々に繋がり、愛情、交歓が生まれていたり、対立や、批判が流れたりしているのが分かる。
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社会問題を批判する人も、人間の弱さを許す人も、同じだ。
結局は、愛、というのか、喜び、の、自由の、安心の世界を求めている。
そして、それが脅かされる事に、怒ったり、脅かされている人を慰めたり、開放された自由を表現したり、今の自分を楽しんでみたり、いろいろな活動がある。
まあ、そういったものの集合と反発が人生なんだろうなあ。
と、なんとなく思います。
疎外感や、苦痛は、心理的に、自己が、認められない場合に起こります。
あるがままに、在る。
その、自分が、最初から最後まで、逃げられない自分で、そこで、最初の最初から自然と一体であり、救われていると知る事が、安心ですね。
ハートの奥に、何も、触れる事のない『絶対安心』の核があります。
思惑から外れて、自分の体を寛がせる。
そうして感じられる、音や空気、触感や風景、様々印象を、敏感に感受する事で、そのハートの奥の、眠れる私は、起きてきます。
起きてくるというか、普段の私の知覚と、つまり純粋意識との交流が始まるのです。
それが真の私、なんでもない私であり、この夢の世界を楽しんでいる、魂とでも呼べそうな存在なのです。
もちろん、それは、知覚したものに色付けをした思考の言葉。
なので事実を、そのまま書いているわけではありません。
しかし、この、私は、現象界における、危機や、感動を敏感に受け取り、集中度と思考の放棄が明確にある場合は、能動的に、ここに現れてきます。
本来の私を表現します。
それは、恐らく、高次の感情中枢と表現されたもの。
呼吸と身体感覚、そして、現実を、リアルを捉える際の、明敏な、シャープな開放された、心理状態。
このような感じることの深まり、が、思考を落とし、その奥に在る、存在との交流を開始させます。
そして体の後ろで見ている意識とは、この現象界を、その別次元の私が、覗き込んでいる状態なのです。
鏡に映された世界。
鏡と言うか、水晶玉のような、この生の世界。
無個性のようで、確かに意志のある、この存在は、常に、眠っていますが、呼びかければ、起きてきます。
例えば、凄まじい危機のときや、あまりの悲しみに打ちひしがれている時、感動が、心の奥にまで響いて、開放された時などです。
そしてまた、瞑想のとき、この存在は、常に感じられます。
ただ、眠っているので、交流がないように、思ってしまうだけなのです。
まあ、こんなこと書いていたら、気が狂った人みたいですね、笑
でも、なんか本気のメッセージが飛び交ってきているので、その、私は存在しないに対する、何かを書かずにはいられない。
個である私は全体と一つである、そして、その映像内の私は、確かに、水晶玉の世界の中に在る、分断されない夢だ。
しかし、これを見ている、感じている、真の私は、不可視のハートにあり、それは、水晶玉の世界を、つまり宇宙を形成している働きの外にある。
例えるなら、○と○が、くっついている感じだ。
○○
で、その、○と○が、普段は離れているのが、感じ尽くすとき、つまり三昧しているときには、○と○が完全に合致する。
そこを分けている、普段の自己存在自体が、完全に開放されて、ハートから、その存在が溢れ出て、ただ、すべてを私、にしてしまうのだ。
これが思惑の消失である。
そうして、この、奇蹟のリアルは、正に諸行無常でありながらも、私の自己だけの機能の上に立ち現れて、感動というのか、凄まじい愛を与え続けている。
生命の力である。
この生命の力の中に、私は、生まれているのだ。
それは確かに、幻想のようなものではある。
しかし、この与えられた体の、大切さは、何者にも変えることはできない。
ただ、いま、この時だけの、贈り物なのである。
永遠とは、この、生命の、神の力が浸透した宇宙の事である。
そして、その生命の力と、目覚めた私がひとつに融合したとき、私は、その命、その力と分断されていない事を知る。
花は塵り、土に返るが、それを見たものがいる。
そして、心が、その内側に生きている、その真のハートは、違わないのだ。
あなたは、私を、生きており、私が、あなたを生きている。
これが本当の真理である。
奇蹟を奇蹟たらしめているのは『私が存在している』からなのだ!
これを否定できるものがいるだろうか?
「何か」が私の不在性に気づいたという。
この「何か」こそが、その、ハートの向こうにある真我なのだ。
その「何か」は、普段は眠っていて、受動的であるが、感情が完全に高まって、沈黙して、凄まじい集中と開放の中にあるときは、能動的に起き上がってくるのである。
それは、普段の知覚では捉えきれないのである。
そのために、様々な、宗教が生まれてきたのである。
だから、そこは、個人意識の消滅と、宇宙意識の誕生のようなものだ。
例えるならです!
確かに、映像は、向こうから、私にやってきている。
これは真実である。
私は生まれてから一歩も動いていない。
ただ、この世界が、巻き起こってきているのだ。
しかし、この、体に、精妙な精気が流れ、そして、その精気が純粋な知覚を目覚めさせ、それが、全体を完全に統御するほどに、高められたとき、その純粋意識の向こう側から、真の意志が、つまり、この世のものではない、魂の叫びが生まれる。
それが芸術である。
この魂の叫びは、VOICE.
声である。
主人からの呼びかけなのである。
この奇蹟の世界に、目を覚ませよ。
この主人の声に、耳をすませて、よーく聴いていく事だ。
その「ささやき」を敏感に聞くならば、本来の面目は、目を覚ます。
風のような我である。
世界には実体はないが、この、生命、精気の流れの向こうから来る、呼びかけは、明確な実体をもっているのである。
ただ、そのスピード、また、繊細さが、あまりにも、微細で、捉えがたい。
それでも、その力は、こうやって、すべてに浸透して、今ある、奇蹟の地球を、天体の運行を、また、人間の生を、太陽を輝かせている。
その力。
そこに帰るのは、体があるから、である。
体のないものは、そことの分離がないのだ。
つまり、魂を、個性を、形成する余地が、生まれていないのである。
そうして、その、魂が、明確に形成されたとき、それらは、眼となる。
純粋な理性が、世界を見る。
その眼は、全体の意識の中に、融合され、あなたと一つになっているのだ。
今までの、すべての、形成された「何か」の経験。
まあ、ちょっと、ここは「空想」が入りすぎましたね。
でもね。
この世界で生きていること、そして、あなたが生きていること、自然があること、そういったものは、体感の世界なのです。
体の感覚です。
その自己の不在性は、思念の世界の事です。
ただ在る、コレだけの世界。
それを捉えている自己は、存在しています。
居場所は「ハート」です。
みぞおちです。
その、愛は、確実に、存在します。
たとえ、完全に、自我が迷妄の中にあろうとも、すべての存在は、すでに救われているのですね。
しかし、このような、ことが、言葉で語られると、ただの概念になります。
だから文字は立てない。
ただ座る。
ただ、瞑想するんです。
開かれた世界が、ただ、黙々と私に繋がる。
その開かれた世界と融合する事、融合している事だ。
生きていることしか問題にしない。
徹底的に、自分だけにしか、問題はないのだ。
私は存在する。
私はできる。
私は望む。
ここに落ち着いて、ただ、その人生の苦しみの中を逃げない。
ただ、そこで、目の前の事実を生きる。
平凡な日常である。
しかし、この平凡な日常こそが奇蹟の実現なのだ。
雨が降っている。
鳥が鳴いている。
花が咲いている。
わたしが生きている!!!!
私は存在しない―それは、本当に、残念な事である。
分別された私というものはない。
それが、無我である。
つまり、すべては縁起しているということだ。
機能としての私。
純粋な知覚としての、また「想い」としての私は在る!!!!!
意志は、その、感覚が、凄まじく集中された時に、生み出されるのだ。
私がしているのではない。
その、意志自体が、この世界に、届く。
天と地が繋がる。
宇宙は、完璧だが、人間の意識は、まだ未完成である。
グルジェフさんの言葉。
「ほんとうに、あなたは、真理を知りたいですか? 知るためには苦しまなければならない。100万フラン分苦しまねばならないが、あなたは1フランも出したくないという」