豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

生命の声

2015-06-11 15:53:03 | 読者に人気の記事
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⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは!

本日は午後3時ごろに起きてきました。

相変わらず、憂鬱だ。

そのまま着替えて、コンビニへ。

週刊誌眺めたり、剣道流派の特集本を眺めたりする。

『念流』っていうのが、あるらしく興味深い。

実は亀山市にも『心形刀流』というのがあって、Yくんと一回だけ見学に行ったなあ。



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懐かしい。

とか妄想しながら、バニラアイス、どんべえ、おにぎり、缶コーヒー、煙草を買う。


家へ戻って飲み食いしながらパソコンを見る。

阿部敏郎さんの『リーラ』で大和田菜穂さんのイベントの案内。

メッチャ参加したいけど、今の夫婦喧嘩中に、この高額な出費は不味い。

まあ飲み会で、いっつも使ってるやんと思えば、そうだけど・・・・・・。

なにしろ、ちょっと特殊すぎるので不味いwwwww

このブログを嫁様が読んでいたら「なぬ! サットサン?????」

そないなもんにお金使ってる場合かい(激怒)

という姿が、なんとなく想像に巡ってくる。

いや、ここは意を決してと申し込み画面の八割くらいまで進んだ。

でも、やっぱり今回はやめておきます、笑


知らなかった人はいないかもしれないけど、一応、急いで申し込まないと、すぐにいっぱいになるので「私がいない」になりたい人は、要チェックかもですよ。


あの人は、ほんものです、笑


今朝は仕事帰ってきて、非二元について調べていましたが、結構、以前から注目されていたみたいですね。

しかも、まあ、だいたい一緒だわwwwww

大和田菜穂さんが教わっていたらしいルパート・スパイラさんのインタビュー記事がネット上にあって、それを読んでいたら、笑ってしまった。

僕と興味の対象が、9割あっている(爆笑)

グルジェフ、ウスペンスキー、クリシュナムルティ、ルーミー、ラマナマハルシ、ニサルガダッタマハラジ。

9割は言いすぎか。

シャンカラとロバートアダムスって人は知ってるけど、名前だけだな(苦笑)

しかも、この人は、ダルビッシュダンスとか旋回舞踏とかを、どうもシャンカラ関係のインドのスクールで習ったらしい様子が書かれている。

しかも「これはウスペンスキーの教えの源流だと思われる」と発言!

でも、そこで、何かが欠けていると感じて、アートマナンダ・クリシュナメノンの教えに親しんだらしいですね。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジと並び称されるらしき、このシュリ・アートマナンダ・クリシュナメノンに関する情報も見てみましたが、いろんな方が、だいぶ以前から紹介されているようです。

残念ながら、日本語訳の書籍はありませんでした。

ルパート・スパイラさんの書籍は『プレゼンス』というものが発売されていて、溝口あゆかさんという方が翻訳されています。

溝口さんのホームページを見せていただいたら、イベントなんかも開催されているようですよ。


しまった!

ノンデュアリティという新しい趣味の分野が、開拓されてしまった(爆笑)

楽しすぎるぜ。

ダイレクトパスというらしいですね。

この、クリシュナメノンさん系統の流れ。

まあ、ちょっと勉強不足なので、詳しい事は、わかりません。


たぶん、想像では、それこそ「川」ですね。

『シッダールタ』という小説がありますが、あれ、最高傑作ですよ。

この「川」というのは、いろんな人が書いていますね。

川を掴まえる事はできない!

なぜなら、その川は水が常に新しく流れ去っている。

残っているものは、何も、常に、ない

常に新しく、それでいて、形を「川」という流れを形成している。

小説の中でブッダは、仏陀と言うか、ゴータマは、この川の「声」とひとつになる。

喜びも悲しみも、様々な、人間の弱さも、それが美しい。

人間である事の喜びである。

聖者は、人間になったところで、すべてを理解した。

そして、友であった人は、お釈迦様の下でいまだ探求をしていた。

ゴータマは橋渡し、川を渡す人の仕事をしていた。

友は「修行者」であった。

愛しき人との別れ、愛着に苦しみ、その人間としての苦しみ、その叫び、魂の咆哮が「生命」から溢れていることを知り、その声とひとつになったゴータマ。

一方「聖人」になるために「人間を捨て去ろう」という友。

こんなによくできた小説が、よくぞ書けたものだ。

正に、天才である。


まあ、そういうことですなwwwww


いろいろ見ていたら、まあ、ほとんど一緒です。

ただ禅との違いは、禅は、ただ、その流れさる行為にあとを留めてないだけで「幻想」とは言わない。

ただ、跡形もない。

跡形もないのだが、川という生命があるのだ。

それが生命力であり、コントロール外の、最初からある自己なのだ。


今朝は、更に、久しぶりに『臨済録』を読み返していた。

鶯がケキョと鳴いたら、聞こうと思わんでも聞こえるだろうと書いてある(爆笑)

まあ、そういうことですね。

「思ったとおりに生きているわけではない」

ただ生命の働きが、自分が何かする前に、認識する前に起こっている。



撮影者: ちぼたん


瞬時の働きである。


『後追いの認識』のことを『私』と思っているということの指摘。


だから全体とひとつでしょうwwwwww

鶯がケキョと鳴いたら、もう聞こえている。

耳が聞いたからなのか、鶯が鳴いたからなのか。

分かれていない。

それが、縁起しているということである。


最初から、自然に、そこにしかいないではないですか。

「私はいない」なんて必要ないよ(爆笑)

ただ無に現れている、諸行無常の「私は存在している」体験なんだwwwww

中身は常に、未知で捉えどころがない。

それと、同じことを、大和田菜穂さんは、伝えていると思います。


でも、これって「めっちゃ誤解されるかもね!」

僕だって、動画見て、本まで読んでいたのに、誤解していた。

まあ、いまでも誤解してる可能性はあるけどね。

なにしろ、これらを教えている人にリアルで会った事が一度もないからねえ。

全部「想像」です。


僕が批判したいのは、この無限のリアルを幻想と捉える部分です。

批判というのか、たぶん、理解できていない部分です。

幻想と言うのは、「幻想のようなもの」という意味です。

川の水は常に流れているから「跡形もない」

つまり「認識して捉えたときには、もう、遅すぎるのだ」

だから、常に新しい、コレは、掴まえられない。

掴まえて、手に乗せてしまっては、それは川ではなくなるからだ。

しかし、この川は、リアルに存在していないか?

つまり、それは、全体の表現として、生の叫びとして、川から発せられているのだ。

生命の声なのだ。

そして、その生命の声は、川に限らず、石にも、太陽にも、人間にも、なにもかもの生から発せられている。

その愛と憎しみ、生きる苦しみの中にある、諸行無常の中にある、真の存在の美。

花が散る、悲しみと喜びの中で!



だから「死にとうない」のである。

死にとうなくても、死んでしまうのが、人間である。

しかし、それを幻想であると突き放すのは、違う。

断固として、それは、違う。

清浄なものだけが、あるのではないのだ。 

そういう『絶対無』の世界が本当ではあるけれども、人間を「いまここ」でしているのだ!!!!

自分が自分している。

禅でも、一旦、突き抜けてから、また社会に帰って来るでしょう。


盤珪さんという人が「あなたたちは、そのままで、何もしなければ仏です。その仏さんが、欲のある人間になったり、怒って鬼になったりしてらっしゃる」と言ったときの意味を考えてみてください。

悟って、ハイ、終了なわけがないでしょうwwwwww

僕ら、ここで、生きているんですよ。

だから、瞬間、瞬間の手放しなのです。

川の水を掴もうとしない。

思惑を外れるというのは、常に、ある祈りなのです。

あなたは、悟ったといっても「人間やめれますか?」


お釈迦様は、生きて、教えを説いて回ったのですよね。

社会の中に、帰ってきています。

この世界が「幻想」であるのならば、そんなことするはずがないでしょうwwwww

燃え盛る煩悩の「火」に焼かれている人々を救済しようとしたのです。

その痛みは「幻想」ですか?


これは認識としての我の、お話だと思います。

固定化された「私」などというものはいないという意味なのです。

未知が、向こうから来ている。

何が起こるか分からない。



それは、人間が、何かする前に、もう自然があるからです。

しかし、この、生命、常に新たなる無に吹き抜ける形態なしの、コレ。

コレは厳然として、存在しているではないですか!

ただ、掴めないだけです。


私は悟った!

はい、おしまい。


なんてことが、あるはずがないでしょうwwwwww

日常がありますよ。

みなさん!!


これは僕が叫びたいほどに表現したい事なのです。


囲われた空間の中に、真理はない。

真理は、開け放たれていて、誰にとっても、明白なのです!