豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

自己内部の消滅が苦を滅尽させる

2015-03-17 14:29:12 | 日記
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こんにちは。

本日は13時半ごろに起床しました。

妻が「散歩いってくるわな」と言い「ちょっとベビーカー取ってくる間、見とってくれへん?」と声をかけてきたのです。

僕は目を覚まして『KANTAのミラクルブログ☆』で内臓の状態が、心理面に現れるという記事を読んだが、寝起きの不快感は、それかもしれないと想像する。

ビンゴな感じだ、笑

相変わらず、寝起きにイラッとしてしまう僕は「14時まで寝るって言ったやん。なんで起すの?」と不機嫌MAX。

妻「行ってくるって言っただけやん!」



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僕「普通、寝てる人に、わざわざ言う?」

と、もう既に怒ってきている(苦笑)

そのあとで悠聖が、ごそごそしている音がしたので「障子破いたらアカンよ」とイライラした感じの声を発してしまう。

しかし、何かを勘違いしていたようだった。

こんな父親でごめんwwwww

完全に目が覚めてきたので起きることにして、洗面していると、妻が「行ってくるで、なんかあったらメールして」というので、不機嫌そうに「はぁーい」と答える。

昨日から「イライラ」は胸の上部に麻痺のような感覚で現れることを観察している。

この胸の上部、肺の上くらいに広がる、これ、が緩衝器の働きなのではないだろうか?

この防御壁が壊れると、人間関係における恐怖心が無くなり、怒らなくなるのではないだろうかと想像できる。


洗面を終えると、携帯で時間をセットして、座禅を15分します。

深く考えずにリラックスすることを見失って、頭の監視がとれない状況。

身体も動かしてしまいます。

この停滞状況は、毎日一定期間続けると、毎回、必ずでてくるようだ。

いい状態になるとわるい状態もすごく見えるようになり、どうしても新鮮さもなくなってきて、集中力が低下してきてしまうのだ。

自分の弱点が見えている「ここ」は良い地点である。

もっと良質な意識でいられたら、また、ひとつの壁を突破できるかもしれない。

脇道に逸れそうな時に「それは健全か?」と胸に問うのは、意外に、役に立ちますw


それから玄関脇で読書&珈琲、煙草タイムですね。

やっぱり僕は、ゆったり、のんびりできるのが好きなんだなあ。

まあ、みんな、そうかw

今日は素晴らしい陽気で、光が強く、春が来たなあと感じさせます。

考え事なんて、こういう自然に触れると、ふっ、と、溶けていきますよね^^

そういえば、どうでもいいことですが、5月とか、11月なんかは、気候がいいので、僕はどちらも大好きです。


で、至福タイムを終え、いつものブログ更新中です。


ここ何日か感情と向き合って、思ったのですが、本能の反応をなくすことは不可能じゃないのかなと思います。

でも、それを怒りに展開する事前に留めて、内に在る心を外に帰すということは出来るかもしれない。

自覚でストップして、内面心理に展開させるのをやめる。

感覚としての不快感のままで、胸の上部に、留めておくことはできるのではないかと思うのです。

なんというか胸の中でブツブツ呟いている内的考慮というものは、本能的警戒である「過去の経験」からくる不快感が、感情中枢で風船みたいに内側に膨らんで、目の前の事実から離れた、自己内妄想に陥らせるのだ。

これがトラウマの作用かもしれない。

それは記憶からくる恐怖の、内部への展開なのだ。

脳内での性的空想や、あーだこーだの自他批判は、この感情展開の不調和に起因しているのだろう。

その外部の印象の内部への流入が、人間的な喜怒哀楽に繋がっている。

キリストは笑わなかったと言われるが、それは、この、内的空間そのものが消去していたからではないだろうか。

それが「私」だ。

感情内に不快感が展開すると陰湿な「陰気」が体中に巡りだし、自己を他者から分離させ、脳内妄想へと引きこもり状態になるのだ。

本能的恐怖→過去の経験→快、もしくは不快→感情の不調和→脳内妄想である。

自分勝手というのは、ここからくるのかもしれない。


だから、不快感が内面展開する胸中自体を消失させて、身体の外側へと出ることなのだ。

それは不快感を感覚の段階に留めて、今ある事実から外れないことだ!

個人的内面が働き出すことは、痛みの記憶からくる防御体制であって、それが緩衝器なのだから、この痛みを感覚の段階でストップさせなければならない。

これが意図的苦悩だろうか・・・・・・?(ちょっと自信なしw)


自己の内面感情に位置して、その胸の内から、他者の内面感情の働きを感じるので、その連携から「怒り」が沸いてくるのだ。

他人が怒ると自分も怒るというのは、これだ。

自己の内面世界を消失させ、他者の内面世界をも想像せず、外側にある、事実そのものの動きに目を戻す、というか、胸から抜け出るということなのではないか?

これは、たぶん、合っているような気がします。

胸の内面展開を消失させることで、外へ飛び出すことなのだ。

感情的な妄想器官こそが、緩衝器だったのであり、それを破壊するとは、自己内存在自体を消失させることだ。

これが、ある程度進んだら思い切って死になさいということの意味なのだろう。

個人的な心理活動が死滅することである。

そうすることで今度は、他者が、自己の感情を生きているのであるから、慈悲が出てくるのかもしれない。

ただ感覚としての不快感は胸の上部に緊張として感じられる。

そこから内ではなく外へ飛び出すという忍耐を続けることで、この感情壁が無くなった人が菩薩のような慈悲を見せたに違いない。

これは見事に繋がったのでは!?

そこでは怒りの反応をする自己自体が外側の他者と感情的に分離されていないという状態になっているだろうからである。

もし、この状態になれば、外側の縁でひとつの感情となっているのだ。

他者が自分を生きている状態であり、自己がいない状態になっているのだ。

まるで思考や身体が自然界との同一性を見たように、今度は、感情を外へと向けることで、外側が内面になることなのだ。

○→←○

の片一方の←が消失することで、○←○となり。

この○自体が相手の○と融合することである。

これが「思い」の内的空間を消失させることなのだ。

これが、ハートの全一性を齎すのであり、ここに対する努力が、僕は全くできていなかったが為に、他者に対する温かみに欠けていたのである。

思考と性の問題は、内側の感情が無になることで解決されるのである。

これは、いい感じだ。

このまま、2ヶ月くらい続けられれば、必ず、新しい発見がある!

集中して毎日2ヶ月の法則は、かなり、成功しているという記憶があるwwwww

まあ、地味に頑張っていこうと思います。

では、またー♪

偉大らしい覚醒者さまに、お金を出さなくてもできますよ、座禅は(爆笑)

2015-03-16 08:48:06 | 日記
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おはようございます。

本日は6時15分ごろに起床しました。

千鶴さんと少し語り合ってから、洗面、座禅50分を行います。

どうも落ち着きがない。

心がソワソワと動き続けていると深く入れない。

スーッと落ちるためには、姿勢も落ち着けなくてはならない。

動かないことであると理解しているのだが、心や身体が、ざわついている。



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座禅を終えると、読書しながら、煙草と珈琲を楽しみます。

朝の新鮮な空気、あたりの雰囲気が、匂いとして感じられる。

読み終えて、ブログを書こうと思ったが、妻が朝食の準備してくれたので、いただきました。

バタートースト2枚とサラダ。

昨日、親戚の叔父さんがバイキングで余った料理をたくさん持ってきてくれた。

サラダは、その残りであります。

まだまだ、あるw

おいしくいただいている横で悠聖は、教育テレビを見て、喜んでいる。


で、ですね。

今日も仏について、想像を膨らませてみたいと思うのであります。

「さとりへの道 華厳経に学ぶ」(木村清孝)を読んでいると、あちこちに「眉間の白ごう相から光明を放ち、三千大千世界一切を清める」とか、この「無量の功徳」とか「三千大千世界に等しき経巻は一微塵の内に在り」と凄い表現があります。

これを普通に読んで、眉間から太陽光のようなものを凄まじい果てにまで届かせて、世界全体を清浄にする、溢れんばかりの慈悲、この森羅万象の法は、小さな塵と等しいということなのですが、一体、どういうことでしょうか。

これは、あなたが今、現在、毎日、いつも、していることなのである(爆笑)

この話を聞いて、このように優れたことは、誰にも不可能であると、みんなが思ってしまうし、こういう心に訴える書き方は、信仰心には効果があるかもしれないが、実際に事実として、自分自身の生活の中に、真実を見るには、どうなのかとも思います。

眉間から放たれた光明というのは、智慧の光のことです。

これは、意識のことです。

そして、三千大千世界とは、次元を超えた宇宙全体、つまり時間をリセットした宇宙のありとあらゆる森羅万象、つまり法のことです。

これは、眼前の事実のことです。

無量の功徳とは、心の中にある虚心、つまり真我が、目覚めていることで、至福を体験しているということです。

これは、安心のことです。

そして森羅万象の法は、小さな塵と等しいというのは、この自己と全宇宙は同じ「こころ」であるということであります。

これは、縁起のことです。


そうして、こういった話が伝えたいことは、結局「こころ」なのです。

この「こころ」が、苦を滅尽させることを言いたいだけなのです。

日常を生きている上で、仏が目覚めているというか、認識されていて、その仏の心から行いが生じてくるように調整、準備していくのが修行なわけです。

修行して仏の心を手に入れるのではなく、最初からある仏を妨害している、生老病死に連なる自我の誤認識を正しい見方に戻すことですね。

これは、単に、自然である自己に帰るということなのです。


では、自然である自己とは何かといえば「計算のない自己」なのです。

これのたとえが赤ちゃんや幼児であったりするわけですが、赤ちゃんや幼児になるわけではなく、大人として、計算をしない自己であるようにするわけです。

もっと単純に言えば、あーだこーだ言わないというそれだけのことです。


物事が過ぎ去ってから、あーだ、こーだと批判している自己は、この仏の存在を見えなくさせているのであります。

ですから幸せになろうとする人は幸せになれず、幸せについて思量、計算していない人が、いつも幸せであるわけです。


また無我とか、涅槃等々の言葉にしても、大げさな分析や、いろいろな話がありますが、ようするに無我とは「分け分からなくなっている」ことであり、涅槃とは「生死前の未知世界」のことであります。

それは、同じことなのですwwwww

無我は認識が落ちることであると、言われて、これを気絶することであると思っている人もいるかもしれませんが、そうではないと私は聞きました。

これは分析、つまり分別のない状態のことなのです。

後追いの認識をせず、ただ、目の前の事実を、ありのままに見ることなのです。

これが、私だ、あれが、花だと言い出す前の事実ですよ。

これが同じく、涅槃です(爆笑)


そして涅槃とは真我のいるところです。

リアルな自己は、この世界にありながらも、別の次元にもあるわけですが、それが無量でありながら、一微塵なのであります。

普通は自分自身が涅槃で眠っているのです(爆笑)

そうして偽の主人(思考)が他者(感情)という部下を連れて、この、地獄で戯れているのです。

普段活動しているのはエゴのほうで、真我は眠っているのであります。

運転手、持ち主自体が、起動していないのです。

この眠っている真我、仏自体が目を覚まして「おおっ! ワシャア寝てましたがなあ!!」と言わなければ、普段の意味での自己は、この心の重心に気がつけない。

そして生きている中で、つまり諸行無常の中で、この真我や仏に投影された『我』という思いを消滅させるということが生死からの解脱なのです。


釈迦は、解脱のためには「貪欲を捨てなさい」と単純に説いているのです。

わがものという思いが、あって、これが、自己という分断を生んでいるのです。

本来は、自然の側が、この真我を生きているのです。

私の持ち物である真我ではなく、真我が私であり、それは眼前の自然なのですwwwww


なんか余計に複雑になってしまった気がするな・・・・・・orz


言いたいことはですね。

悟りとは、みんなが書いたり、言っているような、とてつもなく偉大で、達成不可能なことではないということなのです。

もちろん菩薩のような人でいるのは難しいですがね・・・・・・。

智慧の眼を開くまでは、そんなに難しいことではないのです。

事実の指しているところ、仏教の説いているところ、また、悟りについて、真我の覚醒についての理解、等々は、難しくないのです!

最初から、それであるのだから、修行は、本来はいらないのです。

本当に、実際、難しいのは、気づいた後に、そこを生きることなのです。


社会(他者)からの教育(洗脳)があって、生まれ持っている自己(こころ)を見失ったがために、もう一度、故郷へと帰る、帰るように思えるというだけなのです。

エゴの側からは、そう見える。

しかし、これを一度達成しても、また何度でも、そこに帰るのであります。

なぜなら生きている限りは、煩悩があり、怒りがあり、欲望があるに決まっているからなのであります。

覚醒者であっても、何度も、何度も、帰っていたに違いないのです。


って、こう頭の中から書くと、めちゃくちゃ表現が微妙な部分があり、想像と比較が働いてしまうので、どうしても、そこには『嘘』が含まれてしまう。

矛盾が含まれてしまう。

「仏のことなんか考えないのがいい」というのが真実だが「仏であるように精進するのがいい」というのも真実なのであります。

ここにも『嘘』があるのです。

なぜかというと、精進もなにも、仏でなかったときなんか一回もないのです。

みんなが仏であれば世の中で笑いあえるわけですが、その、笑いあえる「こころ」は、常にあって消失しないのです。

だから、仏になるのではなく、ただ、思いが落ちればいいのです。


では、どうすればいいの? と頭が質問します。

そうすると有名な「いまここ」を生きることに尽きるのですが、この「いまここ」を頭の中にもちこんで、何をするときにも頭で統制して「いまここだ、いまここだ」と集中というか執着してしまうことではないのであります。

これはもう病気ですwwwww


今、「ここ」を生きるにはどうしたらいいの? と頭が質問します。

そうすると有名な「あるがままに」生きることに尽きるのですが、このあるがままに生きるということを頭の中で規定して「あるがままに、あるがままに」と自分をコントロールすることではないのです。


「どうすることもない」というのが、真実で、それは、どうすればいいのかと問うている、その人自身がいなくなることなのです。

最初から「いまここ」でしかなく「あるがまま」でしかないのに、「わがもの」という思いが、自己を改善しなくてはならないと奮闘しているのです。

それが私の責任だと言うのです(大爆笑)

そうして、その奮闘の中に○○○○主義や○○○○中毒が生まれて、思想・哲学から人を裁いたりして、挙句の果てには戦争したりしているのです!!!!


では、どうすればいいの? とあくまで食い下がるエゴくんw

そこで、グルジェフさんはモルモット達を絶望させることにしたのでありますね。


まず、自分というものを分析するのであります。

お待ちかねの、思考の大好物である分析を始めます。


①思考、感情、動作というものを見分けて分類する。

思考は比較(1、2、3、4を見分けている力)

感情は情緒(社会や他者との関わり。感覚の快・不快とは別)

動作は運動(生まれたあとで身に着けた動ごき)

であります。

そこに本能(生まれたときからある生理、反射機能)と性(男らしさ、女らしさ)の力を追加して、更に分析、分析していきます。


これに付け加えて、不快感の表現をしない、内的に考慮をしない、自己同一化しないという3項目があります。

感情、感覚が不快でも外には見せない(内側は不快でもOK)

自分の心の内側だけの物事を考えない(無欲であるか?)

自分自身を対象として突き放して見る(自分の言動を忘れない)


このことは、先の分析があって、初めて出来るのです。


このような活動が何をしているかと言えば、エゴ(わがもの)を削いでいるのです。

しかし、これは限定されたテクニックであり、人によって、様々に、合う、合わないがあります。

自己に絶望するこの道は、適さない人が、たくさんいるということです。


じゃあ、どうすればいいの?

どうすれば? を落ちるのに、誰にとっても、一番効果的なのは、何にも考えずにリラックスしているときか、なにかに強烈に集中しているときなのであります。

つまり『瞑想』か『禅定』なのです。

であるからして、究極的には、方法と言っても『瞑想禅定』しかないのです。

瞑想禅定することで、本も知識もいらないのであります。

なぜなら、こういった問題に関しては自分自身が知識であるからです。

汝、自身を知れ!

と偉大なる哲学者が言ったらしいが、それは、瞑想禅定することでしかないのです。


そして瞑想禅定の中でも、一番、優れているのは、座禅なのです。

座禅すれば、もう、それで悟っているのです。

気がついていないだけで、いつか、気がつくのですから、座禅して終わりですwwwww

偉大らしい覚醒者さまに、お金を出さなくてもできますよ、座禅は(爆笑)


ただ、座るだけです。

あなた自身が仏なんだもん

2015-03-15 08:22:19 | 読者に人気の記事
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おはようございます。

本日は6時半に起床しました豊田です。

寝床で目を覚ましてから一体、どこから不快感が出るのかとぐるぐると探していました。

まず身体の「だるさ」があります。

この「だるさ」は、思考、感情が身体と繋がったから認識されたようだ。

ここで、ハッと思い出したのですが、確か、グルジェフさんが睡眠とは、各中枢部の連結器官が外れることで、ひとつ、ひとつの中枢部は休んでいないということを言っていた。

どうも眉間と首筋の後ろくらいから、意識が身体に降りてくると感じる。



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この起床時の本能的不快感は身体の疲れだ。

その本能が、不快感メッセージを感情中枢に訴えて乗っ取り、その感情中枢が、思考中枢を乗っ取るという連携で、まだ動きたくない、寒いから布団から出たくないと気分が悪くなるのである。

と、観察を終えて、洗面、座禅50分を行います。

今朝の座禅も集中力に欠ける状態で、とにかく動いてしまう。

どうにも違和感を感じて曲がっている箇所を直そうとしてしまうのである。

顔の左側が麻痺している感覚があり、その麻痺にエネルギーを通そうとして、奮闘したり、やはり左右のバランスの悪い、左側が後ろへ傾いているような体を元に戻そうとして、アレコレと動いてしまう。

そうすることで、姿勢と連動して、心もアレコレと動き出し、頭は価値判断を始める。

じれったい感じが続いた。

この心の落ち着きのなさがスーッと消えていかないと集中するのは難しい。


座禅を終えると千鶴さんが「ぬけさく先生の新ポーズ」とか言いながら、空へと目を注ぎながら、手足をグルングルンと回しているwwwww

「さあ! マーチンさんも早くやるなりー」と言いながら、何度も踊る(爆笑)

さっきから、横で「これは書いてはいけないなりー」と腕をとってくるので、このあたりでやめておきますw


玄関脇へ出て、読書しながら煙草&ブラックコーヒータイムだ。

と、思いきや、電話が鳴っているらしく、千鶴さんに呼ばれる。

誰かと思えば、南君ではないか。

そういえば、昨日も電話があったのだった。

しばらく歓談を楽しんで、また再来週に出かけようと約束を確認する。

亀山市に『コメダ珈琲』がオープンしたのだが、そこにいるようだ。

僕はまだ開店しているのを知らなかったので行っていない。

今日は、お休みなので行ってみよっかな。


電話を切って、読書をします。

悠聖が起きてきて日本間のガラス戸から千鶴さんと手を振っている。

なんという煌めく笑顔!

これぞ、人間の至福なのではないか。

千鶴さんが玄関脇まで連れてきて「おはヨーグルト」wwwww

僕「ああ、おはヨーグルト♪」

悠聖を抱っこしてあげてと言うので、抱っこして「狸の置物(陶器)」を見せていると「パパみたいなお腹だねー」と嫁が言う。

読書したいので早々に家へ戻して、続きを読みました。


それから戻ってブログの更新をしています。


昨日は買い物のついでに「さとりへの道 華厳経に学ぶ」(木村清孝)という『NHKこころの時代』の本を買ってもらい少し読み始めている。

楽しい。

こういう知らないことが色々と説明してある本はワクワク、ドキドキします。

日曜日なので、あとで、じっくりと味わいたいと思っています。


で、こういう本の中にはいろいろとお釈迦様の言葉が出てきて、それを神話的に解釈していくわけでありますが、仏にしても菩薩、如来にしても、ただ、あるがままの自分自身のことなのであります。

つまり、この、上に書いたような、しょうもない人間としての豊田君自身が、もう、そのまま、それなのです(爆笑)

豊田だけではなく、このブログに目を通しておられるあなたも、あなたの知っている人も、いや、人だけではなく、何もかも一切がそれなのであります。

石ころでもね(爆笑)

ですから、あの人が優れているとか、慈悲に溢れているとか、そういった幻想の中にあるのではなくて、ただ単の眼前の日常が如来なのです。

この如来は三千大世界に通じているわけですwwwww

しかも、この自分は、生まれたときから如来であり、いや、たぶん生まれる前も死んだあとも如来であり、仏であり、菩薩なのです。

誰でも、皆が、差別なく、そうなのであります。

どのような「人格」であろうと「本質」であろうとそうなのです。


しかし、それが、自分が自然そのものであることを認識せずに「思い」や「人格」の統制の中であくせくと活動して、苦しんだりしているわけです。

痛みではなく、心理的な苦にですよ。

それを見た釈迦が「奇なるかな、奇なるかな」と驚くのです。

最初から仏、そのものである、全宇宙である人間が、そのことを知らずに、生きている。

なぜ知らないのか。

こんなに当たり前に、神仏に生かされて、ただ不動に、全世界を顕示している、全体的なる一切合切である自己が、その偉大なる姿をすっかりと忘れて、小さなこの身体のみが、自分だと思いながら生きている。

そうして、それを「無知であるがゆえに苦しむ」と言ったのであります。

縁起していることを知らないから「無知」が出てくるので、最初に『縁起』つまりは相似性について説き始めるわけですね。

何もしなくても、そこに花がある。

その花は、あなたがいて、そこにあるのだが、またあなた自身が、その花なのだ。

という、この不二である世界に、頭の分析が入って、あなたと花の相似性を分断させているのである。

ですから、法身というのは宇宙の働きのことである。

しかし、その宇宙とは、実質、あなたのことなのである。

これが、どちらか一方だけということにはならないのだ。

宇宙と人間は、ふたつでひとりなのである。


人格の優れた人がいたり、劣った人がいたりするという価値判断の向こう側に、この自然としての人間の姿があるので、そこに帰りさえすれば、すべての人に差別なく、この日常自体が奇跡なのである。

この奇跡を顕示せしめている、あなたは「人格」ではなく、その「本質」でもなく、それらを在らしめている神通力なのである。

で、あるから、この神通力の働きである、あなたは、この世界に生まれてはおらず、属してもいないのでありながら、不思議に、このひとつの体の顕現において、属せずして体感を得ているわけである。


神通力という言葉は、よく「超能力」と同じような意味合いで受け取られていますが、まあ超能力(催眠術)というものと同じではありません。

だいたいにおいて超能力と呼ばれているものは「催眠術」なんですが、この神通力というのは、その名の通り、神に繋がっているエネルギーのことなのです。

この神とは「自然」と「人」を顕示せしめている力です。

ここに繋がっていることは、すなわち、無知が滅していることなので、仏は神通力があると言われるのです。

イエスが行ったような奇跡を釈迦は見せていません。

しかし、このことを受け取る人たちは、すべてを神話化してしまい、事実としての自分自身から仏教を遠ざけたのです。


あんまりにも尊重しすぎるものだから、また、実際の事実と懸け離れた視点で描くものだから、現代人の科学とは、相容れない、空想であるとか、人間には目に触れることの出来ない、特別な修行を積んだ人だけのものだとか、また、穢してはならない、恐れなくてはならない、他にも、あーだ、こーだ。

となってしまい、まったくもって信じられなくなったか、もしくは、変な空想を膨らませるヤカラの住処にまでなってしまったのである。


実質の自分自身、つまり、あなたの心と、仏教で説かれている話は、まったく同じなのであって、謙遜したり、祭り上げたりしなくてもいいのである。

誰かが達成して、誰かが達成していないということは、ここではありえないのだ。

要するに、気がついていないだけなのだ。


では、どうやって気がつくのかという時には「自己が落ちる」しかないのである。

この自己というのは、頭の中で規定されている、自己なのだ。

そして、この自己を落とすには、どうすればいいかとなると、観察することから、始まっていくのである。

ラマナ・マハルシが指摘するように「わたしは誰か」と胸に問うことなのである。

最初は、客体化されたものは「わたしではない」と見ることである。

つまり、グルジェフさんのテクニックでもそうだが、思考、感情、本能、動作、性、の各中枢部を分類することが、自己の働きを自然に戻す、私自身に帰す働きをするのである。


この観察から、客体化している意識にまずは気がつきます。

この客体化している意識は、頭の後ろにあって遠景を映し出す望遠鏡のようなものであって、その望遠鏡に映る風景に光を与えているのが、自分自身の心なのです。

ここの部分を見るには、分類している頭を超えた意識体としての活動が、光であると気がつくことから始まります。

天の光とか光明というのは意識光のことなのです。

そうしてこの、白光、というか、透明な意志光が照らし出す、私の世界は、胸にある、私、それ自身が見せている夢「のようなもの」であると知るのですね。

客観意識の光源が、胸に眠る真我なのです!

そのあと、この胸にある私自身というものは、最初から、自我(エゴ)のコントロール下にあるのではなく、この真我自体が自然の一部、神の一部であると知ることなのです。

なんと向こう側から、最初っから、あるのです。

なにも努力しなくても、あるのです。

そこから目の前にある風景を見ると、なんと、風景の側が最初にあるというのです。

最初から、そこにしかいなかったのであり、その変幻無限の自然の側が、あなたを生きているのであり、そこに『差別』はありえないのです!


あなた自身が、仏なのだから!!!!

すいみん、すいみん、すいみん、すいみん、睡眠不足w

2015-03-14 05:16:16 | 日記
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おはようございます。

今朝はなんと午前3時半に起床した、というか、させられた豊田です。

悠聖(チビ)がギャン泣きするので、起こされました。

千鶴さん(嫁)に、泣き止むようにミルク作って欲しいと頼むが、遅いので起きていくと、おもちゃのブロックを片付けている・・・・・・。

ここで、怒り心頭に発する!

なぜなんだ!

なぜミルクを作る前に、他ごとをするのだ!!!!



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エニアグラムタイプ9なのか、お主は~!

優先事項というものが有るだろう、優先事項というものがと暴走w

優先事項とは、つまり、物事の順番のことなのだ。

と、思い始めるや、もう、頭は怒りに完全占拠され「もう起きる」と決意。

散々に、家族に当り散らしながら、洗面をします・・・・・・orz

だいたい悠聖が泣くからいかんと思ってしまい「このガキっ!!」と暴言を吐く。

理性的に考えようと思っても、沸いてくる沸いてくるド怒りパワー。

以前の出来事がフラッシュバックして、掃除も買い物もぜんぜんしてくれないじゃないか、なぜミルクは開けてから一月しかもたないのなら日付を書いておかないのか、その他、様々に沸々と煮立ってくるのであります。


全部人任せとは・・・・・・どういうバカなんだ僕は!?


そのあとも無視三昧で、座禅を50分しましたが、全く集中できるわけもなく、ぐるぐると怒りパワーと落ち着きのない心をさ迷っていました。

あっ、という間に時間は経ち、コーヒーを入れて、ポットが空だったので水を入れる。

読書に玄関へ出ようとすると、悠聖が追いかけてくるが、怒りに支配された僕は完全に無視、無視状態。

読書をしていても、またしても集中力に欠け、印象が残らない。

いつもは煙草とコーヒーを楽しみながら、至福のタイムなのだが、本日は荒々しく、なんにも味わわずに、飲んだり、吸ったり、読んだりです。

真っ暗な朝の中に、親子っぽい白猫とトラ猫が2匹、駆けていった。

白猫は前から見かけるが、トラ猫は初めて見る。


頭の中では、これは自分が人に頼りすぎているから怒ってしまうのだとか、だいたい幼児がいるのに睡眠を期待している時点でおかしいのだとか、本能的欲望が原因だから理性で対処しなければならないのだとか考えるのだが、そんなものは全く役に立たない。

なにしろ煮えたぎった怒りが、脳天を直撃しているのだからwwwww


この直の怒りが、なぜ、こんなに強烈に沸いてくるのか、原因は、己の中にあるに決まっているのだが、気が付かない。

6時まで寝たいのが3時半に起されたというだけで、ここまで怒るというのは、一体、僕という「ダメ人間」も遂に、極まるとこまできたのだろうか。

本能的なことに対処するのは、非常に難しいと感じる。

食欲、性欲、睡眠欲の内、今回は睡眠欲に対して非常に執着していることが判明。


食欲と性欲に関しては、ここのところ節制がうまく機能していて、見た目からして甘いものは、ほとんど食べていないし、お酒も飲んでいない。

異性に対する脳内妄想も極力避けられている。

この辺りは、うまくいっていると個人的には思うのだが、どうも睡眠欲は重症のようです。

よく考えたら「食う、寝る、やる」の中で、寝るの問題は、こういう風に欲望と捉えたことが全然なかった。

集中的なグルジェフワークが行われていた時は、みんな4、5時間しか寝ていなかったと書いてあるし、釈迦も「病人が、惰眠を貪るな」と言っている。

なぜ睡眠の問題を今までスルーしていたのか。

このブログでは目覚めの話を、散々書いているというのにwwwww

口だけ立派で行為の伴わない男「ダメ人間だめま」健在でありますね・・・・・・orz


寝起きに機嫌が悪くなるのは「睡眠欲」が原因だったのだ。

節制が、ここでも大切ということになるのだろうか?

食べるものは見た目を楽しみ、香りを楽しみ、印象深く飾り、味わって食べるとか、無言で食べるとか、様々に「いまここ」へ帰る方法がある。

また、性欲に関しては、自覚によって、自らの体内に「健全なる陽気」を巡らすことで、「いまここ」で慈悲を、他者や外面世界に見るという方法がある。


だが「睡眠欲」に関して何があるだろう。

思い出すのは「思い残さず短時間眠れ」というグルジェフさんの格言くらいだ。

この場合、短時間眠るという計画だと、悠聖くんの夜泣きで、更に短時間になる場合があるのだから、不意を突かれた場合のことを考えなければならない。

時間の問題ではなく、何らかの準備不足が問題なのだ。


7時間睡眠は普通に問題ないと思うのだが起床時に「不快感の表現」を抑えられないという「弱点」には強烈な問題がある。

主要な欠点に関係しているかもしれないくらいだ。

睡眠の質よりも、不意を突かれることに問題があるように感じる。

夜泣きに対して覚悟がないので怒ってしまったのだ。


僕はスケベであるとか、肥満であるという自覚はあったが、まさか、眠りに対して、これほど執着しているとは知らなかった。

毎朝ある嫁様との喧嘩も、呑んだ翌朝での落胆も、仕事前の憂鬱も、すべて「睡眠時間」に対する欲望が、阻害されていることに起因していたのかもしれない。

ある意味大発見だが、これに対して何が出来るだろうか。


計画生活では、4時間半睡眠にして、リラックスできるように、お風呂の時間や食事の時間を調整していたが、これは意味が無いことは判明している。

睡眠時間や質の問題ではないのだ。

だいたいにおいて「睡眠」が欲望だという認識が薄すぎた。

睡眠欲を自覚して戦うことが一切実践されていないのだから「怒り」に対処できない。

僕は睡眠については健康の問題としか捉えてなかった。


仏教では、何か、説かれていただろうか。


確か、目が潰れるまで眠らずに精進して、悟りに至った人がいたような。

彼は、釈尊の説法時に眠ってしまい優しく諭された。

体中に毒が回っている人が、毒を抜くことを後回しにして眠るだろうか的な感じだったかなあ(記憶あいまい)

彼は、釈尊が眠るように言っても絶対に眠らない程の気合で、精進に励んだ。

遂に、目が潰れて失明したのだが、精進のお陰で、悟りに至って阿羅漢になった。


現在の僕は、これに「弱い」

この本能的欲望に対して抵抗する力を何も持たない。

怒り心頭に発するなどという、一番、情けない姿を曝け出してしまったのだ。

何を言っても「すべてがパー」とは、このことだ(爆笑)


しかし、今までが全く想定外だったので効果的な策が思い浮かばない。

誰か詳しい人いません?w

アラカンの人のように、気合で精進の解決は難しいよね・・・・・・たぶん。


有名なお寺なんかで、座禅を何日も眠らずにやるのは「食う、寝る、やる」との格闘でもあるんだろうねえ。

まあ、実際は、苦行は意味ないけどねw

本来、差別無く、みんな救われてますから!


「怒り」があった。

それはそれで、もう、過ぎた。

今あるのは「思い」の中だけで、別に、いいもわるいもない。

あーだ、こーだ考えない。


ここは、例によって僕の『趣味』では大いなる汚点なだけであります。

事実は、そのように起こっただけで、悩まなければ無問題です。

雑念も怒りも、あって人間ですからね(苦笑)


しかしです。

意識して「叱る」のではなく「怒ってしまう」人を散々バカにしてきた僕なのです。

正確には、他人の言動に「怒らされて」いる人を軽蔑していたのです。

つまり、これは、現状の僕なわけですがwwwww


この問題に気が付いたのは初めてかも。

昔から寝坊で遅刻して、怒られるのはショッチュウだったのに、なぜに睡眠問題に気が付かなかったのか不思議。


確か、不意を突かれて起されたときは、怒っていなかった。

そのあとで「まだ3時だ」と認識して「もう少し眠ろう」と思う。

しかし、嫁様が対応してくれないと怒る。

依存体質。


いつもの朝でも起きた時点では怒っていない。

出勤までの時間がないのに色々と頼まれたり、自分の行動が阻害されると怒る。

人のことを考えない、単なる自分勝手。


時間が十分あるときはリラックスして無心になれる。


時間か!?

時間に対する余裕のなさ、拘りが強いのだろうか。

慌てること、急ぐことを嫌っているという側面もある。

僕は人から行動を急かされると怒る。

だからといって時間を忘れることはできない・・・・・・。

時間に管理された社会を生きているのだから、時間を無視できるはずもない。

じゃあ時間への拘りは関係ないと考えなくてはならないか。

まあ遅刻とか、よくあるしねー。

そんなに拘ってることもないはずだよ。

逆に適当なくらいだ。

適当だからこそ、急かされたりすると怒ってしまうんだろう。


ああ、これは、あれか!?

23時に寝て6時に起きる決まりを自分で作って、それに合わせていこうとやっていたというのが問題なのかな。

以前に「仕事はたくさん、早くしなければ」と拘り、それを阻害されると怒りが沸いてくるのを見たことがある。

そんな拘りを捨てるように意識したら怒らなくなった。


では、これは単純に、睡眠時間に対する拘りだろうか?

7時間睡眠とか、6時起床とか、座禅の時間とかを守っているのはいいことだ。

自分は急かされるのが嫌いなくせに、人を急かしているからだろうか?

依存体質は明確だなあ。

寝かしつけだって、ホントは自分でやれば済むことだもんね(涙)


どうも具体的対策が思い浮かばないが、何が、これを解決させるのだろう。

本能の突き上げが半端なくて、手も足も出ないなんて、屈辱的すぎるじゃないかあ!

本能的欲望に起因する怒りに、支配される人々を散々、軽蔑していた僕が、、、事実、こうなのだよ(爆笑)

なんという心の弱さだ。


分からないから千鶴さん(嫁)に聞いたりインターネット検索もしてみた。

身体疲労とストレスを睡眠でカバーしている。

睡眠時間だけじゃなくて、心と体の調整が大事なようだ。

お釈迦様やグルジェフさんが短時間しか眠らないのは、肉体や心理に対する厭離が達成されていたからではないだろうか?

無理せず自然に、短時間でよかったのだ。

思い残さず短時間眠るというのは、短時間睡眠に意味があるのではなく、思い残しがないところに意味があるのだろう。

今は睡眠に対する理解が必要だ。

これもアルコールや性欲と同じで、本能中枢に作用している。

アルコールは思考中枢、性欲は動作中枢を中和させるのだ。

アルコールは脳内記憶(海馬)の麻痺を起し性の発散は動作の停止と「無」の感覚を生じさせる。

睡眠は「感情の整理」に当てられると仮定してみよう。

僕は感情整理に難があるので睡眠(無感情)に対する執着がある。

それだから睡眠が妨害されることに怒り心頭に発している。

感情の不調和が性に作用し、睡眠に作用し、食事や、呼吸に、他者依存や時間執着との関係にも影響しているのだ。

これは、なかなかの推理。


感情問題を解決しないと現在を生きることが機能しない。

僕は内面に重みを感じていて、他者への温かみが欠けるのであり、思いやりが素直に入らないのである。


たとえば人格が『嘘』を生きている問題が、感情面に反映されて、睡眠、その他の、問題にまで発展しているのだろうか。


日常生活で、実際に、この問題に対処するには?

たぶん僕は、自分で思っている以上に感情で生きているタイプの人間なのだ。

気分屋なんだw


「内的考慮をしない」とグルジェフさんが言う。

見過ごされてきたのは、この感情に対するショックなのだ。

本能が直撃する速度の方が、理性が働く速度よりも圧倒的に速いことが問題である。

外側に出なくてはならない心が内に篭っている傾向が原因と見た。

篭っている心が内側で忍耐していてはストレス過多になるし、前面対応はできない。

サーリープッタさんなんて、後ろからいきなり殴られても怒らなかったらしいが、これは絶対に内面の辛抱ではないだろう。

三輪さんという芸能人が「理性で怒りを制する人が悟っている」と言っていたが、これは、己という感情、他者への依存があっては、絶対に不可能だ。

僕は100パーセント、平静でいられんwwwww


内心での忍耐は『嘘』の仮面を被っているようなものでしかない。

日常生活の中でも、真我に注意を移行させないとならないという発想が生まれる。

この「真我ちゃん」は心の動きには一切左右されない心の重心だが、ここに意識を置くというか、移行させる活動を開始してみよう!

それは自然な人間の喜怒哀楽から離れることになるかもしれないが、明らかに、離れているのが歴代の聖者たちじゃないか。

ラマナ・マハルシも殴られても怒らなかったらしいし、イエスに至っては、己の生命すら投げ出して、なお、人々を愛したのだ・・・・・・。

すごすぎw


人間的ではないイメージを沸かせて、また恐怖もあって、実践しようという意欲を削いできたところでもあるが、至福を基点にするのが最期かもしれない予感もある。

どうやって? という問題があるが(大爆笑)


感情面の対処は『真我の至福』であるこの心の重心・核心を日常で目覚めさせて、作動させ続けることである。

しかし、これは私自身が無になるということだ。

これには、さすがに、凄まじい抵抗感を感じてしまうwwwww


僕はどうして個人内に篭りたがるのだろう?


とにかく『眠れる核心』を作動させることで、人格と本質の融和を図ることが、感情面の、また、それにともなった性の調和を実現するに違いない。

それと共に、睡眠の問題も徐々に解決して、長時間、眠らずに済むようになる。

今のところ、ここにしか解決策を思いつかない。


そうなると自覚→本質→性ではなくて、自覚→真我→性が本当であり、ここを勘違いしているがために、調和が崩れていたということになる。

人格→本質

本質→人格

真我→至福

の三段階があったのかもしれない。

まだ実験段階だけど(笑い)


生まれ持った純粋な心(本質)ではなく、超越された不死なる真我こそが目覚めていなくてはならなかったのだ!

ここは、たぶんだよwwwww


人間的な味のある感情ではなくて、眠れる至福を機能させなくてはならない。


そうか、ニサルガダッタマハラジの、幸せになること幸せであること、これが愛のリズムだという言葉は、このことかもしれない。

真我の常時覚醒という、とんでもなく不可能そうな状態w

というか、夢のない状態w


睡眠中も起床中も胸の奥で眠っている真我を意識的に覚醒させようと努力することで、内に篭った本質と人格を、自分自体を離れなくてはならなかったのだ!

本質を生きるという発想が、本能の暴走を誘発していたのかもしれない。

我がまま、他者依存がここからくる。

人格VS本質ではなく。

ここに眠れる真我を覚醒させることで、内面自体を、滅することなのだ。

消失させることなのだ。


これが「主人だ!」

そうだ、主人とは真我のことだったのだ。

なんと、そうなると、やはり人生は夢のまた夢と捉えることなのだ。


夢ではないのだが、すべて夢のようだ。


真我を常に起すなどということが本当に可能だろうか?

とりあえず、様々に工夫してみるしかなさそうではある。


あっ、

目の前の事実を忘れて、長々と妄想垂れ流しを、失礼しました。

(ごめんw)

安心できれば、なんでもいい

2015-03-13 07:19:01 | 読者に人気の記事
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



おはようございます。

今朝は6時15分ごろに起床して、洗面、座禅15分を行いました。

いつものように千鶴さんとの言い合いもありw

金曜日はゴミ出しがあるので、少し早く出なくてはいけない。

それで色々と準備をしてと頼んでしまう。

のだが、言葉遣いが悪いので、だいたい怒らせてしまうのです(苦笑)

座禅のあとでご飯と味噌汁と梅干の朝食・・・・・・。

梅干冷蔵庫から出してもくれないじゃないか嫁様よー。



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子供じゃないんだから自分で出せよ、と言われそうだし、いいんだけどね。

ラップされたご飯が2膳残っていて、捨てるつもりらしいので、また散々に愚痴を、というか指摘をしてしまった。

だいたい彼女は冷蔵庫内とか食品の管理が全く出来ないのだ!

びっくりするのでありますが、まあ、僕も出来ないので人のことは言えません。

でも目の前で捨てているのを見ると、もうちょっと、なんとか出来ないのかなと思ってしまいますね。


そのあとは玄関脇で至福の、読書とコーヒー&煙草タイムであります。

戻って、ブログ更新中です。


昨日、思ったのですが、なんというか、清々しさというものには恥ずかしさも少し混じっていますよね。

こう僕が綺麗な美容院なんかに足を踏み入れると、感じる違和感。

アレに似ている感覚が、最近、よく起こるようになってきました。

透明なキラキラしたものに触れると汚れている心が、違和感を感じるのだろう(爆笑)

ここは完全にテクニックですね。

こういった『教え』を使って、いろいろとやるのは『趣味』となってます。

しかし、この結果は、先程の違和感であります。

この違和感がドンドンと体の中の、というか心の中の掃除をしている。

なので、どんどん、あたふたする感覚の中に生きます。

もう最初から縁起している世界の中で、このような個人的な行為が様々な変化を生んでいくというのは、奇跡であります。


具体的に『悩みが取れて安心できれば』そこには、どんなことがあってもいいわけですが、それを元にして、自他が分離してしまえば意味がありません。

どんな宗教を信じている人よりも、普通の人の方が精神的に優れていたりすることも、よくあることなのであります。

なぜなら宗教が世界を作ったのではないからです。

最初に神仏の世界があって、始めて教えやら宗教やら哲学やらが、人間によって説かれてきたわけであります。

ですから、最初から生かされて安全な世界であるのですが、そこに、まあ、自分なりの安心、健全な状態をおいていけば、いいのではないでしょうか。

美しい風景を見るのが感動する人もいれば、僕のように印象の変化が生まれることに感動する人もいて、そこに仕組みがあっても、それを知らなくっても効果は同じである。


つまり、悟っても、悟ってなくても、そんなことは問題ではなく。

ただ、いま、生きている自分自身が、悩みなく、幸せであるのかが、問題なのです。

自分自身が迷いがなければ、何も必要ないのです。

迷わないこと自体が、もう、解決したことなのであり、精神性の証拠なのです。


って、今日はいつも以上に支離滅裂だったなあ。

で、僕は、趣味として、つまり、悟るためではなく、まあ、楽しみとして、ブログやら座禅やら、また性中枢の変性を作動させるための意図的苦悩なんかをやっているわけでありますので、そこのところはご理解、よろしくでござります、笑