豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

超個人的疑問

2012-12-26 14:34:16 | 超個人的疑問
 私は、昔に見た夢が現実に形になって現れることがある。
 未知で不可解だった風景が、長い時間を経て目の前に姿を現すと恐怖に襲われてしまう。何となく見たことがあるのではない。完全に一致した瞬間が現れてくるのである。しかし、それは一瞬のことであり、その後、夢に続いたはずのストーリーは必ず実現しない。気付いた瞬間より前はストーリーが被るが、気付いた後は一度も同じストーリーになったことはない。完全にない。
 なぜそのような不思議なことが起こるのか。
 そしてまた、なぜ、私たちは現実と呼ばれる世界にいるのか。
 人間の意志が作りあげたものではない、人体と自然界の驚異的に複雑な構造はいかにして現れたのか。
 こういった昔からの疑問に関して、私自身の人生で起こってきた出来事を追いながら考えてみたいと思う。
 と、いうわけで、その時、私は夢を見ていた。 
 私は真っ暗やみの中で河原にいる。かすかな明かりが、水深の浅い川や、土の道、草むら、少し離れた森などを多少、判別可能にしている。別段、変わったにおいはない。周囲には影のような人がたくさんいて、群れを成して、ぞろぞろと歩いていた。薄明かりの発生源は丘の上にある、中世のヨーロッパの城のようであった。遠くにぽつんと単独で輝いている。意味も分からずに、その列と一緒になっている。どうもあそこへ行くようだ。影は身体の形をしているが、皆、全身真っ黒で、ボソボソと話している。それらの声が全体を成して異様な音楽を奏でているようだ。それら影に奏でられた音が、異様な静けさを感じさせる。と、母の切実な声が聞こえてくる。はっとして、耳を澄ましてみる。どこかから「真大!」と繰り返すか細い声がするのだ。か細いながらも、はっきりとした呼びかけは意志を持っているようだった。声のする、こちらへ来てくれと言っているのだと理解できるのだ。それで私は、声が聞こえると思える、離れた草むらの方へ、どんどんと進んでいった。周りにいた影が響めいて、指さし、戻れと手を振っている。森は、ジャングルのように深く、母の呼びかけだけが頼りだ。声のする方へ、本当に歩いているのか心配になってくる。何日も迷宮をさまよっている。どこにもゴールはないのではないかと思う。さまよい疲れて一歩も歩けず、地面にうずくまった。母の声はまだ続いているのだが、どうもそれが地面の下からしているような気がした。私は耳を地に付けて、じーっと聞いてみる。すると突然、地面がガラガラと壊れて、私を連れさり、落ちてゆく。あまりのできごとに全世界が崩落したかと思う。一瞬、おがくずのにおいがした。すさまじい恐怖に叫びながら急降下してゆくと、意識が飛び、夢から覚める。母の意志と私の意志がつながり、現世に再び現れたのである。
 一歳の時、百日ぜきと水ぼうそうと四〇度の発熱で「翌朝までに熱が下がらなければ残念ですが……」と医師に言われたらしい。母は付きっ切りで朝まで看病してくれていた。きっと助かってくれと切なる祈りを発していたに違いない。昔から、その夜の夢は現実にいた場所ではないのかと感じている。私は死の瀬戸際で命を探索する冒険をしていたのだ。極限の意識状態によって、私は身体を離れた別世界へ移行していたのかもしれない。
 私の父は一九六五年から一九九五年まで、三重県において、兄とともに建具屋をしていた。祖父の始めた家業を兄弟で継いだのだ。建具屋というのは、ふすま、障子、ドアや家具を作る木工職人である。手仕事は兄の方が優れていて、父は人柄が良く、どちらかというと営業向きだった。
 四日市にある近鉄百貨店に勤めていた母とお見合いをして、一九七六年に結婚する。翌年の一九七七年七月に長男である私が亀山市内の豊田病院で生まれた。母は当時、ネクタイの販売員をしていたそうだ。その後、近くに市立病院ができてからは、看護助手として長年勤務した。
 私の家は亀山市にあって市立病院前の道路に面して南側にある。片側一車線の道路で交通量は多くない。向かいに酒屋と花屋がある。酒屋は昔スナックもしていた。近くにコンビニができてからは、余り人も来ていない。タバコとジュースの自動販売機が多数置かれており、便利だった。花屋さんは、行ったことがないが、どういう風に営業されているのだろうか。造園もしているのかもしれない。要は活況を呈しているわけではない。自営業の小さなお店である。あとは民家に囲まれているが、西側は隣家の畑が広がっている。とてつもなく広大なお陰で、見晴らしがよい。隣家の方が作物の栽培をしているが、余り興味をもって眺めたことはない。春になると耕運機の音が激しく、映画などを見ている時、嫌だった。当時の我が家は、三〇〇坪の土地に、小さな工場と小屋のような家が建っていただけだった。小屋にはふろと八畳の台所がある。ふろは土間で木を燃やしてたいていた。小屋の隣にくっついた屋外トイレがあり、用を足すには家から出なければならない。更に寝室は工場の二階にあったため、食事とふろが終わるとそこまで移動しなければならず、かなり不便であった。祖父が五〇〇円で購入できたと言っていたような気がするが、土地のことか工場のことか、記憶が不明確である。聞いた時は、時代によって変わっていく相場にとても驚いた。
 幼稚園の一番年上のクラスにいたころ、クリスマス会があり、そのあとで、お昼寝の時間があった。私はサンタクロースを見てみたいと思い、眠らずに目を覚ましていた。すると幼稚園の先生と、見知らぬ人たちが、赤い靴下に入ったプレゼントを園児たちのまくら元へと置いていく光景が目に入ってくる。
 やっぱり、サンタクロースはうそだったのだ。
 同じころだったと思うが、トイレへ行こうとして外へ出た時のことだ。
 私は家族のしている会話や笑い声を聞いていて、はっと思いついた。みんなが、世界があるように見せている。演技をして、だましているのではないか。本当は、家も、人も、あらゆるすべてが冗談のようなバカな偽装ではないのか。いつかバーンと真実を暴く時間がきて、大笑いして終わる。楽しかったけど全部作られた世界だったんだよ。あなただけが知らずにいたんだよと言われるのだ。まだ幼かったが、うそっぽい人生に疑問を感じたのだろう。現実は夢ではないのだろうか。幼稚園の先生がサンタクロースに化けたように、みんなも化けているのだ。夢の体験が、疑問に拍車をかけたのかもしれない。
 当時は、祖父と一緒にいる時間が楽しかった。
 祖父は私たちの住んでいる工場から徒歩で十分ほど離れた村の中に住んでいる。大正三年生まれで、二十八歳の時に指物屋を始め、父や兄弟を育てたそうだ。祖父の離れ家に自作のタンスがあったが、とても丁寧に作られていて印象に残っている。私は外で出会う人に「指物屋さんのお孫さんやな」とよく言われていた。大きくなってから、指物屋と建具屋の違いを調べたが、指物屋はくぎを使わないようだ。くぎを使わずに組み込みをすることで様々な木工用品を作る。
 祖父にはかわいがられて、一緒にチョコレートを食べながら『暴れん坊将軍』を見て切るまねなどをしていた。その影響で仁君が悪を裁き、弱き民を助ける物語が好きになった。
 祖父はふろに入りに工場の方へ毎日来ていた。
 自分で作ったのか、本当にある詩なのか良く分からないがよく調子に乗って歌う。
 ちゃんちゃんちゃん砂ぼこり、切っても切っても血がたらたら。
 第二次世界大戦の話をたまにしていたが、そういう時に冗談めかして出てくるので家族が苦笑していた。「天国地獄はこの世にござる」ともよく言っていた。
 一九八四年の春、亀山西小学校へ入学した。亀山城のすぐ近くにある市内で三番目くらいの人数がいる小学校だった。家からは徒歩で三十分くらいかけて通学している。
 一年生のころからバカなことをして、廊下にバケツもって立たされたり、チョークが飛んできたりしていた。
 祖父が将棋を教えてくれて、学校帰りに、いつも対戦したが、よく負けてくれていたようだ。何か嫌なことがあった時、いつも僕をかばってくれ、良いんだと言ってくれた。
 二年生の時、市内にあった加藤書店で、父が学研の『豊臣秀吉』を買ってくれた。それから歴史漫画がずっと好きになり、毎月一冊くらい買ってもらって読んでいた。小説の主人公や歴史の物語に登場する人たちにとてもあこがれた。彼らは世間の常識とかい離しているが生き生きと過ごしている。
 四年生と五年生の二年間、夏休みに高野山の研修に参加した。
 真言宗のお寺に二泊三日くらいで泊まり込み修業をする。
 食事は精進料理で、私は高野豆腐が食べられずに、残そうとするが食べ物を粗末にしてはいけない、出されたものは嫌いでも食べなければならないと、大学生の修行僧に横に付かれてしまった。泣きべそをかいて、食べられないと繰り返したが、絶対に食べろと言う。
 長時間が経過して食事の時間が終わり、教育映画をみんなは見ることになるが、私は別室に移されて、高野豆腐と対面し続けることになる。
 ふすまを挟んだ隣の部屋から『壁に耳あり障子に目あり』のストーリーが音声で聞こえてくる。人間は悪いことをしてもだれにも気付かれないと思うようだが、壁に耳あり障子に目ありで、きっと世界は聞いている。真実は天が、神が見ている感覚と近いと思った。それを聞いた私は、心が動き、ついに意を決し、高野豆腐を飲み込む。やっと孤独から解放された。
 確か、寝相が悪くて重要文化財のふすまを外してしまい、お寺の住職にひどく驚かれた。調べてみると金剛峯寺という真言宗総本山に国宝のふすまがあるようだ。が、まさか、そんなところに泊まれるはずもないので、修行僧が大げさに言ったのかもしれない。
 だが、確かに「重要文化財だ」と言った人がいた。
 しかも翌年の研修の時は、畳の大きな部屋で寝ていたのが、床の、少し粗末な部屋になった。つまり、そのふすまのない部屋になり「お前がやったからじゃないか?」と同級生にからかわれた。若しくは修行僧にだったかもしれないが、記憶が明確でない。
 仏教のお寺なので座禅を組んだが、本山で座禅を組んだ時に、障子の向こうから閉じたまぶたにさし込む光が柔らかく、とても印象的に感じる。生まれて初めて見た光もこういう質感を持っていたのではないか。その暖かな質感を、とても明確に覚えている。
 般若心経を丸暗記して帰った私は、得意になって、祖父の家で仏壇にお経をあげた。
 祖父は私たちの先祖はお坊さんであったので、お盆に生まれたお前は、その生まれ変わりだと言った。あとで位牌を見たところ『阿闍梨任海』と記されており、天保時代に確かにお坊さんをしていた祖先がいたのだ。
 そのころ、母の叔父が危篤の時に、一人で留守番を頼まれたことがある。私はその人の置かれた状況と苦しみを想像して、恐怖を感じるとともに哀れに思った。ふろに入りながら、神様に向かい、どうか無事でありますようにと何度もお願いしたが、翌朝になり、祈りむなしく、あっけなく、亡くなったのだった……。人間は苦しみとともに死ぬのだと思い、私もそうなるのだと感じ、泣けてきた。初めて、他者の死を意識した瞬間だと思う。病の恐ろしさと無常が、人生の敵として認識されてきたのだ。
 しかし、その記憶はすぐに忘れてしまい、ほかごとへと興味が移る。考えたって仕方がないと思っていたのかもしれない。
 小学校時代から、バカなことをしてスケベなので、よく怒られた。基本的な性格が弱いのか、何かすぐに人に頼ってみたり、意地を張ってみたり、バカなことを言ってみたりする。でも基本的に恥ずかしがり屋なだけだと思いたい。いろんな人に迷惑をかけてしまうタイプだった。
 一九九〇年、小学校のすぐ近くにある、亀山中学校へ入学する。
 中学校から自転車通学になったので、楽になる。
 祖父と見ていた時代劇や歴史好きの傾向から剣道部に入部した。部活では黙想というものを練習や試合の前にやる。静粛の内にすがすがしさを味わうのは座禅と似ている。武道でも茶道でも礼義や規律の中に人間の育成をすると思うが、その精神はその他の教えにも通じているものがあると思う。
一年生の時は、自転車で坂道を飛ばしていて、激しく転んで腕の骨を折った。そして、夏にはいとこが交通事故で亡くなった……。事故現場は、何と私が事故した坂道であった。
 悲しみに明け暮れる人の中で、祖父は「死んだものは帰らん」と言って終わりだったと言う。親せきの家族は激怒していた。
 二学期辺りから二年生になるまでクラスメイトにいじめられた。
 クラスメイトの女の子のパンツが見えていて、それに興奮した男たちが話しかけてきたが、私は恥ずかしくなり、「アホちゃうんか」と強く言ったのである。その場にいたメンバー全員を敵に回した。私自身、彼らよりも更に変態レベルのスケベだったのだが……。性に対する敏感さ、つまり、悪いことをしているという意識があったので、反射的に言葉が出たのだった。余りにもスケベな自分自身は隠さなくてはならないと思っていたのだろう。それが自然なのだということが、まだ分かっていなかった。不用意に人の罪悪感をあおる発言をしたので、恨みを持った彼らが暴行をするということが頻発した。
 我慢が成らずに一度だけ殴り返した。それでも、全く収まらなかったが、けがをするほどの激しさではなく、どちらかというと心理的な側面と、痛みを与えるという形であった。クラスメイトの友達や女の子が心配してくれたが、私はみんなが周知しているにも関わらず「いじめられていない」と繰り返した。自分こそが原因と思っていたからである。非常に暗い時期を過ごしていた。人が内心で悪いとか、恥ずかしいとか思っていることをはっきりと批判するとろくな事がないと思った。だが、時間がたつと飽きてくるものか、クラス替えになって毎日顔を合わせなくなったからか、次第にいじめはなくなった。
 二年生の三学期から突然、学校の成績が伸びた。といってもクラスで中の上くらいだったので、間違っても賢い人間ではない。それまでがひどすぎたのだ。面倒なことはすべて投げ出す性格だった。友達と一緒に学習塾を変わったのだが、分からないところを基本的なことから教えてくれるので良かったのだと思う。私はとても喜んで、基本的なことにさかのぼって少しずつやれば、ある程度何でも理解できるのではないかと思った。
 祖父は、当時飼っていたチョマと名付けた雑種の犬をかわいがっていたが、母が散歩に行った時に手を離してしまい、車にはねられた。小さなころに、走らせていたのが良くなかったのだ。姿を見かけなくなって「捨てたんなら返してもらえ」と祖父がとても残念がっていたのを覚えている。本当に人情味のある良い人だった。
 私は学習塾の帰りに母から聞かされ、家に帰った時には遺体は川に流されたあとだった。愛情が無常に食われていくような体験をまた加えられたのだった。
 そのころ、司馬遼太郎が好きになり『竜馬がゆく』など様々な本を読んだ。藩閥中心の考えから日本という統一国家中心の考えに移行していくのは、天の下、皆平等であるという考えで、国境線を越える考えと、つながっていると思う。ジョン・レノンと被る。
 中学校を卒業するまでのあいだ、疑問に関する特別に印象的なことは余り覚えていない。その当時は、何もかも適当だったし、両親や兄弟に学校でのストレスをぶつけて、けんかばかりしていた。反抗期だったからかもしれない。私は社会の中で、自分を押さえすぎていたのだろう。自分を表現すると、バカにされるという思い込みを激しく持っていたが、その傾向が疑問につながっていったと思われる。
 一九九三年春、高田高等学校に入学。隣町の津市にある高校だったので電車通学をしていた。私立のマンモス校で中学からの六年制の生徒が優秀だった。親鸞聖人の高田本山が運営する学校で、仏教の授業があった。私は、それもバカにしていた。悟りがどうだと語って偉そうにしているわりに、自分の子供の名前を宗教チックにして喜んでみたり、お寺の由来に権威を持たせたり、ファッションに重きを置いている。実際、あんたたちは商売しているんであって、それにしては古くさい、そしてださい、辛気くさい、仏教なんぞにのっかって自分の権威を形作るなんて、まあ、実際大成功して踏ん反り返っているわけだが、余計にうさん臭いぞ。ひねくれて、どんなことでもまじめに受け止めていなかったが、様々な問題が表面化してくるのだった。
 幾つになっても、生きることを何も考えず、バカなことばかりしていた。まじめに生きていること、やっていることに耐えられなくなる。やることが適当すぎて笑われるようなことがあると得意になった。
 一年生のころは、椎名誠の『探検隊○○に行く』等、笑える本を読むのが好きだった。小説の中にある、世間でやらないような楽しいことに、あこがれていた。しかし、本では楽しむのだけれど、実際には気が弱くて大きなことは何もやれなかった。でも社会常識を強要されることからは逃げていたいと思っていた。
 二年生の秋には、好きな女の子ができた。
 一つ年下の子で、明るく目立つ人だった。
 確か文化祭で好きな男女人気投票をするイベントがあって、彼女が二位だったが年下で、顔を知らず、クラスメイトと一緒になって見にいき、外見と立ち居振る舞いが美しいので、好きになったのだと思う。フィギュアスケートの安藤美姫に似ていた。
 私は、全く話したこともない彼女の家に電話をして、隣の関駅まで来てもらい告白するという暴挙をしてしまう。それで振られても仕方ないだろうに夢中になりすぎて我慢できなくなったのだった。彼女には、彼氏がいたのだが、そんなことすら知らなかった。友達になろうと言ってくれたが、自分の行動が恥ずかしくて話せなかった。
 それからやけになり、うつ状態で、怒りやすくなり、友達ともけんかしてたら、毎日帰りの電車待ちの時間が暇になった。いつも、こういう負の出来事があったタイミングで何かがやってくる。
 一人になって寂しい時に、Yと仲良くなる。帰りに使っていた一身田駅で、電車待ちしている時間に、一緒に会話するようになったのだ。彼はビートルズのCDをほぼすべて持っていて、少しずつ貸してくれた。『イマジン』くらいは授業で聞いたけれど、洋楽はそれまで映画の中でしか聞いていなかった。
 抵抗といえばバカバカしい振る舞いしかなかった私が、その辺りから、心理的な方向性が変わってきた。考え方を変えて、外面ではなく、内面で特別であろうと思ったのだろう。知らないだけで、解放された新世界があるのだと思い、躍動感のある、開放的な気分になった。
 彼は村上春樹の小説をもっていて『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を貸してくれた。触れたことのない世界観がとても新鮮で、主人公のテンションに引っ張られていく。そして、その後に切り札となる『聖なる予言』を借りた。その当時Yは、新聞広告に大きく載っていたので買ったという。読んでみて、かなり衝撃的だった。
 偶然の一致、エネルギーの存在、すべてはつながっている、などの観念が生まれた。その本について、Yとはいつも話していた。世界は〇なのか一なのかと話していたが詳細を忘れてしまった。その当時は、深い背景があったのだが……。
 小説を読むのが前以上に好きになり、太宰治、三島由起夫、村上龍などを読んだ。『コインロッカーベイビーズ』は最高だった! かなりの数の本を読んだと思う。記憶に残ったものは少ないけれど百冊以上は読んでいた。その時は世界に対する概念ができていたのだけど、それが何だったのか思い出せない。
 坊主にして世間の価値観からずれている人間だと主張して、バカなことをやっているのは変わらないままだった。
 Yは心理学的なことに興味がでてユングにはまっていた。集合的無意識の話や、河合隼雄というYの好きな人の話をよくした。
 高校二年生の冬、一九九五年一月十八日。祖父が他界した。
 あとで知ったが、死の瞬間と同時刻に私の学生服のボタンが何もしていないのに飛んでいた。虫の知らせであろう。非常時、強烈な意志は時間と空間を越えるのだ。
 病院で息を引き取った祖父を見て、ぼう然とたたずむ。
 家族が慌ただしく知人に連絡をしているのを見て、腹が立つ。こんなショックなのに、よくも動けたものだと思い、泣きそうになりながら怒鳴った。
 祖父は肺がんで入退院を繰り返していた。私はたまにしかお見舞いに行かなかった。行くと「来なくても良い」と言っていた。私は気にせず自分のやるべき事をしていたら良いのだと解釈した。
 祖父の葬儀では、それまで全く涙がでなかったのに、最後に棺おけが火葬場の炉へと入る瞬間、勝手にポロポロと落ちてゆく。人間は明らかに死ぬのだと実感した。身近な一番好きだった祖父が亡くなったのが本当に信じられない。何故にこんなに恐ろしいことに気付かなかったのか。世界の在り方とは違う、新たな疑問が生まれてきた。
 一九九六年春、私は鈴鹿国際大学へ入学した。生きることについて何も考えていないので、何かシステムに流されていくしかない。世間的に意味のあることに集中できないという病が勉強する事を妨げ続けている。
 できたばかりの大学で印象に残っているのは、司馬遼太郎が年に一度だけ来るという宣伝があった。実際は実現せず、五木寛之になった。
 田原総一郎の番組で見た西部邁が来ていて、けっこう好きだった。講義を何回か受けた。内容は忘れてしまったけど、授業中にタバコが吸いたいと「お前一本くれ」ということでタバコをあげたのを覚えている。こういう出来事の方が概念的なことよりも記憶に残る。
彼は教室でタバコを吸うという行為を、肩ひじ張って主張しながらするのではなく、自然にやってみせたので、私は安心し、リラックスしたのだった。
 大学では主に澁澤達彦の『快楽主義の哲学』にはまっていた。それから『グレートギャツビー』と、『地獄の季節』が好きだった。図書館で授業を受けずに本を読んでいた。確か、ヒットラーの本も読んでいたが余り印象に残っていない。音楽はボブディランなど古い洋楽を中心に聴いていた。あとは小室哲哉の曲や、Mr.childrenの曲がはやっていてどちらも好きだった。友人のYは坂本龍一が好きだった。
 大学で出会ったIと、大学で再開した中学時代の同級生Sと仲良くなり、よく遊んでいた。Sのクラウンで何度かナンパに付いていった覚えがある。
 Iはなぜか大学の入学パーティで自然に話していて、それからも食堂などで話したりして同じ時間を過ごすことがあった。彼は授業を受けずに、つまらなくしている私に、よく声をかけていた。
 何か面白くないという感情が最高潮に達していたある日。
 大学の食堂で昼ご飯を食べていると、友人Iが目の覚めるようなテンションであやしげなセミナーへ誘う。それは阿部敏郎という方が大阪で主催しているユリイカというものだった。費用全額負担までしてくれるというので、それならどんな人か会ってみたいと思う。私は自分の築いていた世界観を確認しに行くんだと思った。反射的に警戒心が働いたのだろう。Iの話はぶっ飛んでいたからだ。「彼は出会った人全員のことを背景も含めてすべて覚えているのだ」とか、「くそみたいな面白くない世の中がとてつもなく輝かしくなる」と言う。彼は明らかにすさまじいエネルギーを発していて、その人にあって人生観が変わっていたのは明らかだった。そんなすごい人に会って、私の正しさを確認してやる! 悲観的な思いが作り出した概念だったが、世界で一番得意になっていたのだった。だれにも理解されないが、私だけは知っていると思っていた。
 ユリイカは新大阪センイシティホテルで二日間開催された。一九九七年二月頭の土日だった。内容は書けないが、体験として「自分を出しても大丈夫だ」という安心感を得た。最後にセミナーを通して仲良くなった男が「どうしたんだよ」と笑った時に、逃げたい感情が溶けて、泣きそうになったことが印象に残っている。
 心の中にはダイアモンドがある。そのダイアモンドはくそに包まれて光を放てない。くそとは観念のことだ。観念を取り払うことで本来の輝かしい生を取り戻すことができる。
 それをするのは今ここである。今やる、すぐやる、できるまでやる、とことんやる。それがユリイカで阿部氏が講義したことである。もちろんその他にも様々な実習があったが、一番記憶に残っているのは、コミットメントと名付けられた、すぐ行動するという考え方である。しかし、私は、何を勘違いしたのか、超我がままな感情的エネルギー発散野郎になりさがったのだった。
 ユリイカは理論的な側面が強かったが、もっと実地に体験する場としてリーラというセミナーが用意されていた。私はすぐにはお金がなく、二月ではなく三月に参加した。音楽がとてつもなく心地よくリアルに聞こえてくるとか、星空の光が太陽のように輝いて見えるとか、いろんなうわさがあった。要するに五感が信じられぬほど研ぎ澄まされるのだろう。
 一九九七年三月二一日から金・土・日の三日間、リーラに参加した。開催されたのは浜松の方広寺というお寺であった。方広寺は南北朝時代の一三七一年、無文元選が開いたという禅寺で臨済宗方広寺派の大本山である。山奥にあり、自然に恵まれ、風光明美である。無文元選の父は後醍醐天皇であるというから、時が違えば皇居になっていたかもしれない。
 天皇はもちろん、神道の象徴であり、生ける神とあがめられたことのある存在である。しかも南北朝時代に北朝という正統性が揺らぐ継承がなされたのだから、こちらの方がより神聖な血統を有する可能性があるのではないだろうか。調べていないので、はっきりしないが、神仏習合、しかも悟り体験を強調する禅と天皇が結びつくというのは、日本の歴史から見ても面白い。自然をあがめる神道と世を捨て去る禅とがひとつに結びつくというのが、後世の茶道へと発展して、日本的精神の根幹を作ったのではないだろうか。
 さて、リーラではある約束を最初にするのだが、それは、その場で聞いたことは絶対に人に話さないという約束である。私はそれを覚えているので、詳しく何をしたかということを書くことはできない。なぜなら、各人が極めて個人的な体験をしたので、またカミングアウトすることも多々あったので、書くことに支障があるからだ。しかし体験した私個人の感想を書こうと思う。
 リーラ体験とは、観念と、内にこもった負の感情、またエネルギーの解放をして、繊細な感受性を取り戻すということだ。自分の枠を壊せば良いのだ。私は小さな世界で必死になって内面を守ろうとあがいているのだが、実は他者と私は同一なのである。特別な自己、天涯孤独な自己などは、幻想である。精神構造は皆、同一であり、体験が違い、刻印してきた記憶の種類が違うだけなのだ。いったん、記憶、観念をわきにどけ、本来生まれ持った私の心をさらけ出せば、何とも言えないすがすがしさが身体を包み込む。それは生まれた時の状態に近いと思う。真っさらになった自己である。
 さて、方広寺に向令孝という方がいて、彼に胸の内の疑問を聞く時間が設けられていた。一対一である。私は悩んだ挙げ句、人間は死んだらどうなるのかと質問したところ「わしにもわからん」と言った。
 すべての内容が終わって、みんなで座禅を組んでから目を開いた時、外の日本庭園風に手入れされた庭石がとてつもなく光っていて仰天した。
 信じられないほどリアルな質感をもって輝いている。鈍い光しか放てなかった心を、全くきれいに掃除したのだ。
 光が増している感覚は高野山で座禅をしている時にも感じたのだが、そういった瞬間の記憶は何十年たっても明確に質感を持って思い出すことができる。
 私は浮かれていたので、ずっと疑問に思っていて、解決していかなければいけない敵と激しくぶつかっていることに気が付いていない。私はとてつもなくきれいな世界に住んでいたのだ。
 そのセミナーで仲良くなった老人と帰りの新幹線の中で話していた。確か、広島の方で、事業でかなり成功している人だった。セミナーが終わって時間がたっていないのに、彼は完ぺきに抑制されていた! さっきまでの開放的な彼とはまるで別人である。社会通念が作り上げた巨大な環境が、敵として現れているのだが、私は気付かず、大したことないと浮かれ続けていた。
 電車に揺られている間中、ほとんどすべての人の顔に生気がないと感じる。特に中年の人に顕著だったが、顔が固まって、死んでいるのだ。そして、記憶に縛られた人生がいかに獄舎であるのかと、みんなが理解を共有できたら瞬時にして世界が変わるであろうに、と思うのだった。
 三重県に帰ると津駅の改札出口で大学の友人Iと、その友人の女性Sが出迎えてくれる。私たちは軽く抱き合う。リーラを体験してからハグをするということが一般的になっていた。普通は恥ずかしくてできないが、その当時は抵抗感もなく女の子とでも自然にハグすることができた。
 それから少しも時間がたたない内に僕はIの友人のSが好きになる。それから、十年くらい解くことができなかった愛情の問題が降り注いできた。結局Sとの関係はうまくいかなかったが、タイミングが、リーラでの体験とほとんど同時に起こったことで、愛と愛情の違いを全く混同してしまいパニック状態に陥る。Sとの関係が、完全に絶たれそうだと思った時から、それまでにないであろう、ほぼ絶食状態に何日か陥った。そして大学にも通うことがなくなる。やけくそになってバカなことに感情を発散させてしまう。記憶と感情に同一化することが私を非常に苦しめたのである。
 アルバイト先の友人や、Yと遊びながら、また世の中でまじめにやっても仕方ない状態へ移行していく。その時、愛とは何か、自然な関係とは何か、みんな分かってないと思っていた。私が体験したことを表現できたら、分かるだろう。煮えたぎるかまの中にほうり込まれて、リーラの体験の本当らしさと、個人的に経験してきた人間関係での失敗を埋め合わせる必要に駆られる。
 過去に書かれた本の中に秘密があるかもしれない。私はいろいろな宗教、心理学、精神世界の本を探すようになる。それでも、どれを読んでみても心底感動するものがない。コリンウィルソンの『アウトサイダー』か澁澤達彦の本か忘れたが、どちらかでグルジェフという人を知って興味がわく。たまたま、名古屋の書店へ行った時に『グルジェフ弟子たちに語る』を見かけたので買ってきて、読んだ。遂に、不明確だった疑問がふに落ちる。彼の本の中で自己想起という重要な考えが語られている。人間は統一された私を持たないので、偶発的ショックにより主人がコロコロと変わる。疑問に思ってきたことを大問題としてとらえていた。複数の私に対して意識する私が関与することで、人間は機械である事を知り、またそこから脱することができる。それらの努力を総括して自己想起と言い、その方法を第四の道という。私はその体系『第四の道』が大好きになった。忘れては思いだし、思いだしては忘れ、自己観察に挑戦していった。
 その時、自己を意識的に観察した瞬間は長い間記憶に残るという主張を読んだが、間違いないと思う。
 何げないビリヤードの玉を突く一瞬だとか、ある部屋の配置や質感などが、いまだに超リアルに感じることができるが、その瞬間、私は自己観察の実験をしていたのだ。はためにはだれにも分からないが、自己観察をしている間は私は世界から隔離される印象を持った。
 同時期にYとは音楽のことで夢中になり、アルバイト先であるカラオケ店の友人ともバンドでもやろうぜーと浮かれている。
 YがDTMを始め、私も楽しくなって一緒に曲を作って交換し合ったりした。私の作曲していた音楽はめちゃくちゃなので、お笑いのネタになっていた。大抵の人が凍り付いてドン引きするが、友人のYだけは面白がってくれる。いろんな機械が壊れたり、体調が悪くなったりするとも言われる。恥ずかしいので忘れてしまいたいが……。
 そのころ友人のIが暗黒舞踏を習いに東京へ行くという、天然肉体詩人・藤條虫丸という方がいて、その人と出会い感動し、自分も舞踏をしたいと思ったらしい。
 それに感化されて、私も音楽で食いたいと思い、東京の専門学校へ行く。楽器も弾けず、大して練習していなかったのにである。お金もなかったのだが、新聞配達をしたら奨学金でいけると知り、電話して次の月に東京へ立った。
 音楽や芸術が、社会の人を変えるのだと心底信じていた。 
 二〇〇〇年秋、十月の初めに上京する。
 お世話になった新聞店は秋葉原駅のすぐ近くだった。
 あとからメイド喫茶やAKB48の登場で有名になったが、その当時は、オタクの街、電気の街で余り面白くなかった。
 音楽はピアノ教室に通いながら、DTMで曲を作った。
 だが、新聞配達という仕事があんなにきついとは知らなかった。初日から自転車で配達ということを知るが、体力的にぜんぜんついて行けない。
 下宿することになった部屋は新聞店ビルの四階にあり、三畳ほどの広さであった。道路からの雑音がすごいし、すきま風もひどく、とても寒い。すぐに寂しくなり、ホームシックにはかかるし、仕事のストレスも限界になっていた。もともと大した気合いがなかったのも問題である。
 私は新聞店で仲良くなった二人組とお酒を飲み歩いてバカ騒ぎをする。最高に面白かったが、やっぱり小さいころからの問題が解決されていないので、本当に冗談を生きていると思っていた。抑圧されたエネルギーを創作に使えば良いものを、酒に飲まれて、めちゃくちゃやることで発散した。
 ある日、大雪が降って、極寒の中配達をした。何度も滑って転んだ。坂道の途中で、タイヤが滑り、靴も滑り、顔には吹雪が当たり続け必死で登った。商店街を自転車で走っている時に、BGMが流れている。私は、こんなものが何の役に立つと思ってしまった。巨大な東京の街が音楽や芸術なんかで、変わるはずがない。
 死ぬ思いをして新聞店にたどり着いたと思っていたが「ご苦労さん」の一言だった。私は考えがあまかったのである。
 また、そのころ好きだった浅井健一のバンド、シャーベッツの『オーロラ』を聴いた時に、絶対に自分は到達できない気迫で楽曲を作っているということを理解した。
 心を打つのは、切なる思いであり、それを芸術に表すには命を張った真剣さが求められるのであり、そんな意志が自分にはない。ただの独りよがりの幸運探しゲームを東京に来て、していたのだと痛切に感じた。
 東京に舞踏修業に来ていたIと何度か会ったが、彼は舞踏からヒップポップダンスに興味が移ったようで、ライブハウスやクラブなどで踊ったり、著名なダンサーがやっているスクールに通ったりしていたようだ。
 さて、ある時、知人のミュージシャンが友達を集めて、そのころの私の曲を聴く会を開いてくれたらしいが、あまりの意味不明さに「おれたち無力だわ」と言い帰っていったとYから聞いた。当たり前だが、自由気ままにやれば良いというわけではない。
 二〇〇一年三月。上京から五か月して、三重へ帰ってくる。
 それからはアルバイトを転々としながら、ああでもない、こうでもない、とうなっている日々。友人Yともいろいろな話をして、ああ素晴らしいなと感じる時が何度もあったが、それが具体的行動に結びついたのは数えるくらいしかない。
 そして私は、ファイナルファンタジーで廃人となった。
 その時、働いていた工場で仲良くなったMが強烈に勧める初のオンラインRPGで、それをやるために自作PCの作り方というガイドブックを購入して、PCを作成。
 私は白魔導師ハジとなる。
 すさまじく広大な世界とチャットでコミュニケーションできる仲間たち。また、協力することで上達可能な戦闘。どれもがはまるに十分条件だった。自由になる時間のすべてがゲームに費やされた。その前にも、カラオケ店で仲良くなった友人と『サカつく』というゲームで廃人化したことがあるが、それよりひどい。
 何しろ人格がゲーム内のキャラにひょう依できるのだ。
 私はもはやハジであった。
 現実の肉体は食料を詰め込み、ハジへと同一化するために維持されているのであり、忘れ去られた世界の住人である。
 何がそれほど私を廃人とさせたのか、というと、協力することが可能な世界であったからである。ゲーム内の人間関係は協力し合うことで成り立っていた。
 しかし、ある時から、友人のMが苦情を言い出し、その他の知り合いも苦情を言う。一番多かったのが、批判する人間を批判するということだ。その次にあったのが、愛する人間が自分の思い通りにしないことに腹を立てるというものである。
 つまり、ゲーム内が現実化してしまったのだ。
 なぜ、そのようなことが起こったのか。最初は未知の世界で、みんながやることなすこと新鮮だったのだが、いつの間にかレベルあげ、お金ため、アイテム自慢しかすることがないと気付いてしまい、そのためにやることがパターン化していくという、正に現実とリンクしたミニチュア国家になったのだ。
 嫌気がさしてみんな去っていった。そして私も去った。しかし、バーチャル世界と言えど、みんなで見た夢は実在していたと思う。
 それからは、インターネットラジオ放送をしたり、恋愛をしたり。
 基本的に疑問について、あきらめの境地にいながら、社会的なことにも全力で物事に取り組めない日々。
 二〇〇六年に自動車部品の会社に入ってからも同じ傾向が続いていて、煮詰まってきたら座禅をしたり、精神世界系の本を読んでみたりしていた。ニサルガダッタ・マハラジの『I am that ―私は在る』がお気に入りだった。その逃避的な人生を二〇〇八年まで続けることになる。その間にもたくさんの出来事があったので、社会的な方の経験値はしだいに増してはいると思う。
 二〇〇八年、Yの友人の影響で岡本太郎『自分の中に毒を持て』にはまる。危険だと思う方向にかけろ! ということで、久しぶりに新しい世界へ体験をしに行った。いろんな人にも会った。詳しくは書けないが、ある人たちに教えてもらうことで、全体的な体験をする。私と私の周囲にある印象が分離されることがなくなって、意識範囲がバーンと広がった。それは、恐らく煮詰めればリーラで体験したことと存在を認識することに橋わたしできるような経験だ。宇宙と私はひとつではないか。本来の自己とは認識の外にあるのではないかと感じだした。
 二〇〇九年夏から会社の先輩に飲みに連れて行かれることが多くなる。夜勤専属から交代勤務へ変更になったので、平日の夜にも飲みにでられるので誘われる。いつもバカなことをしているので、笑いのネタになって、そういう場所では、みんなも楽しいようだ。ある日、泥酔して記憶が完全に飛ぶという体験をする。よくあることなのだろうが、完全に覚えていないのは初めてだった。自分の歩いた場所さえ忘れていたのである。気になって、当時やっていたマニアックすぎてだれも来なかったブログにアップした記事が残っている。再読しても意味が分からないので、編集して掲載しよう。

『泥酔と自我』 二〇一〇年二月二八日

 記憶がなくなると私自身をコントロールしている自我意識も弱くなる。そうなると動物のように、本能のまま反射的に行動するようになる。酒を飲み過ぎると脳の海馬が麻痺して記憶障害が起こるらしいが、その意識状態だと自覚がなくなり、自分自身を全く認識していない。見えていない。私は現実に存在していないとさえ感じる。にもかかわらず、頭や心は何らかの現実を判断して反射的に活動し続けている。
 不思議だ。
 酒を飲むことで、脳が麻痺し記憶障害を起こしている時、私は身体とともにそこにいないと感じる。
 私は記憶の働きによって現実にアクセスしているのだろうか。海馬が弱まると私は現実に対して眠っているのだから、そうかもしれない。現実を認識しているのが記憶なので、脳が損なわれると私はいなくなってしまうのだ。
 記憶がなくてもどこかには存在していたのではないかと考えてみる事もできる。しかし時間の感覚も全く飛んでしまっているので、気が付いた時には一秒もたってないかのように感じる。時間が経過した意識がないのだから、どこかで私が存在していた可能性はほぼないだろう。いたとしても確かめようがない。
 私自身にとっては記憶のない時間は現実がなかった、と同時に私自身がいなかったのだ。
 若しくは時間の連続性は単に記憶が作り出しているので、記憶のなかった時間、私の存在してなかった時間というものは本当は他者にしかないのかもしれない。
 私がいなかった時間は実際は一秒もないのだが、現実は身体が作り出しているので、身体と記憶の接点が外れたら、その間は時間がなくなってしまう。という事は、時間や空間も認識が、身体機能が作り出しているだけという可能性がある。私自身にとってそうであるのは当たり前の話だろうが、私がいなくても本能的反射だけで身体は生きていく事ができるのではないか。
 ふだんの正常な意識状態では、私は脳内の記憶や興味をひかれた現象等に注意を向けて存在している。眠っている時でも私は存在しているはずだが、私はどこにいるのだろうか。私は眠りの中にいるのだ。
 こう考えてみると、頭や心は、自分自身の本体ではない可能性が高いと感じる。私は私自身だと認識していた身体と現実体験を共にしている。だが、私と身体が離れれば、一切何も残らないのであれば、一体全体、生きている事に何の目的があるのだろうか?
 しかし、とにかく、身体機能と私自身は別物なので、意識状態によって私は様々な場所に存在している可能性があるだろう。

 二〇一〇年四月十三日の朝。父が仕事に行く前だったので七時から七時半くらいまでの間に、健康な父との最後になる会話をした。父は、一九四九年十二月二九日生まれで六〇歳。「還暦を迎えて残りの人生も少なくなったけど、何か得たものはあるの?」と質問をした。父は冷めた顔で「何もかわらんわ」と言った。それを聞いた私は、六〇年も生きて何も変わらないなんて! と思っていた……。
 様々な体験が深まり、何かが始まってきたと思えていた。前日か前々日、東京へ赴いて自分の疑問に対する何かを与えてくれるであろう人たちと一緒に様々な経験をしてきたばかりだった。
 その日は夜勤だったので、昼間に自室で座禅をしていた。黙想して身体感覚をスキャンしてゆく。その日の座禅は限りなく透明で、上空と私をつなぐエネルギーの流れを、しっかりと、とらえていた。すごく良い感じだと思っている最中に、母が焦燥して駆けつけてきたのだ。
 駆け足で仕事から帰ってくると「父が事故をして病院へ搬送中」だと取り乱している。
 私は驚くと同時に、心霊的なことが深まった時、現実世界に大きな変化が起きるという不思議な感じを受けた。
 手術は緊急を要するので、私たち家族が駆けつける前に開始する旨が医師から電話で伝えられる。
 それから病院へ急ぎ、手術の終了を祈る思いで待つ。
 会社の人から聞いたところ、桜の木をリフトに乗って切っていて、バランスを崩して落下、アスファルトに頭部を打ち付けたらしい。保護具は何も付けていないし、その前に、リフトに人を乗せる時点でおかしい。が、父が自ら志願したというので仕様がない。
 手術は成功したが、いつ意識が戻るか分からない状況だった。生死の境をさまよう父を見て、重々しい雰囲気の中、家へと帰る。
 翌日は、父の元に家族が付きそう。私は休憩のため、病院の喫煙所でぼう然としていた。あまりの出来事にショックを受け、脱力しながらタバコを吹かしている。すると、空に浮かびあがる夕日が何かとてつもなく印象的に入ってくる。それは幼いころに、遊び回って満足したあとに見た夕日だった。そのとても印象的な感受は、リーラできれいになった時の感覚とまるで一緒なのだ。様々な思わくに満たされている内面の私を忘れさることで対象との距離感が近くなり非常にリアルに印象を受け取ることができるのだ。
 その体験にとても興味がわいたが、同時に、父が倒れていやおうなく社会的責任を感じざるを得ない。社会環境の変化と心霊的なことは人生の中で同期してやってくるのだと明確に気が付いた。体験が深まったとピタリと同時に、父が事故にあうというのは、現実生活の充実へと興味を転換せよという天の声にしか聞こえなかった。
 妻となる千鶴と出会ったタイミングもそのころだった。二〇〇九年十一月、最初に会った時、彼女は無職で家事手伝いをしていた。明るく、話しやすい彼女といるとバカな演技が少し収まりリラックスできる。
 その後、父が事故をして入院していることを知り、千羽づるを折って渡してくれた。優しさに打たれて、私は大事にしたいし、付き合っていきたいと思った。彼女は私を受け入れてくれるという感情をもった。
 私はそれまで、自分の感情や思いをいかに表現するか、どうやって相手を動かすのか、また、どう逃げるのかと考えていた。そうやって相手が、また社会が自分の満足のいく状態へ変ぼうして初めて私は、安心して解放されるのだと信じていたのだろう。
 しかし彼女は私の失敗や行き過ぎているところを許して、受け入れてくれるのだ。人をありのままに受け入れられるのが、優しさであり、個々人の関係の内でそれが、良いバランスを持てるようにすることが大事なのだと思う。理解してから理解されるとは、そういうことだろう。
 交際は順調に続いて、二〇一二年の秋、結婚する。
 父の事故から半年ほど経過してから、内なる私を忘れること、気にしないことと、父との会話であった「何もかわらんわ」という言葉が引き金になって、生まれた時にもあって、死ぬ瞬間にもあるであろう私に気付く。別段、驚くべき事は一つもない。ただ、忘れていた本来の私が、それであった。何一つとして現実が変わることはない。だが、仏教がいうように空こそが、私たちの本来の姿なのだろうと思う。
 私は、様々な瞬間でジョーカーの声を期待していた。バーンと本当の正体を現す人がきて何もかも冗談になるんだろう。人間が死ぬなんてうそだと思いたかった。
 二〇一二年夏、冗談でしかないと思える世の中のうそを暴くことに関して新たなショックがやってきた。
 尋常ではないと思える勢いで坂口恭平が社会にメッセージを送っている。ゼロパブリックを表明して、とても明解に行動している。私たちにイリュージョンを与えている。彼の、社会という無意識の中に何かを持ち込むのではなく、新しくゼロからつくっていこうというメッセージは、素晴らしい。
 友人のYが、YouTubeで面白い動画があると、彼の対談を教えてくれたのは最近のことだ。そして、私は経済的に行き詰まりつつあり、新たな展開に挑戦せざるを得ない状況なのだ。少し前にあったうつの症状も、それらの中で生まれてきたものとしか思えない。
 こうなったら、私は概念でない生身の『豊田真大』を表現していくことしか思いつかない。かっこわるい、ぐうたら人間にも本来の自分があるのだが、何やらうその人生を生かされている。しかし、世界の外では自由なので、日常で起きてきたことや、思ったことを書くことくらいならできる。経済の別レイヤーが存在しているように、意識の別レイヤーがあり、自分たちが努力することで、社会層を広げることができる。

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