豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

仕事経済大国

2015-03-06 15:17:36 | 読者に人気の記事
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こんにちは。

朝からシロアリ駆除の営業トークに目覚めてしまいました豊田です。

保証期間中で点検にこられたそうです。

よく分からないので母親に相談しておきました。

そのまま、洗面をして、座禅を15分だけしております。

なんか、妄想が沸いてきて、自分の家の修繕とかしないといけないなあとか、あの、工場の名前とか消さないとなあとか、おお、あそこに「豊田真大」とデカク書いたら面白いなあと思っていたら、笑ってしまった。

座禅しているのに、妄想して笑っているというwwwww



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「なにを笑っとんの?」と妻のツッコミ。

まあ、そんな感じで、なんちゃって座禅はあっという間に終わってしまいました。

これは座禅ではなく「妄想」ですね、笑

妄想が沸いてくるのは、当たり前ですが、今日はそれを追いかけてしまっていたのです。

引っ張られて、戻るという、繰り返しが必要なのですね。


そのあとでシロアリ駆除のことを皆で話してから、妻は息子を連れて福祉施設へ遊びに行きました。


しかしまあ、毎日、毎日、いろんなことがあるのですが、予想されたものだけではないですよね?

マサカ、朝から、このように起きる展開になると誰が予想したでしょう。

未知の現実が常に動いて、向こう側からやってこられる。

自分がああしても、こうしても、自由だけれど、それでも、やっぱり、最初からある土台の上にしか人生はないわけだ。

大人と子供が違うのは「社会」「他者」「時間」「仕事」ですね。

社会や他者との関係性の中で、自分を見失い、仕事(家事)などで、時間がなくなり、やることばかりで、自分を見失い。

結局、自分ってなんなんだ?

そうなってきた時に、心理的に救われない気持ちになる。

刺激によって、それを誤魔化していくわけだが、その刺激にも様々な種類があって、仕事の成功を目指すとか、お金持ちになるようにがんばるとか、恋愛でモテるためにいろいろやるとか、美味いもの食べるとか、まあ、様々な「快楽」というものを追い求めることで、そのような根本的な問題には向き合わないようになる。

成功した人は、成功した人で、また新しい刺激が必要になるしねえ。

苦しみを忘れるためにです。

まあ「ストレス解消」とかいう便利な言葉もあります。

恐るべきことに、この快楽主義をトコトンまで極めた結果が「薬物依存」であったり、「自殺」であったりと、また、○○中毒、○○主義であってりするのです。

ニコチン中毒で、いい加減主義の僕が書いても説得力ないですがwwwww

中毒したり、主義したりするのです。


それで、ある程度、経済的に豊かになった国々の人々は、アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリスだと思いますが、これらの国々の若者達は、中毒したり、主義したりしだしているのです。

なぜなら、自分でも気がつかずに、苦の滅尽を目指しているからです。

つまり諸法無我の境地に、誰もが、たどり着きたい、自分自身に帰りたいがために、様々な行為が生まれてきているわけですね。

心理的にはですよ。 心理的には!

まあでも、本能と心理という人間の動作を形作る機能は、同じような条件の下に置かれると誰でも一定の反応をするのであって、多少の違いはあるけれども、大きく違わない反応を見せるのである。

この反応の仕方が、まあ、各人の性格であり、運命であり、宿命なのですが、それらの宿命としての「本質」は生まれ持っているわけです。

まあ、昔から言われるように『三つ子の魂、百まで』なんですね。

だから、この三つ子の魂にしたがって、ある環境下における中毒や主義の方向性は変更させられるわけですが、まあ、ここから、進歩していないのが、私たちでしょう。

私たちというと怒られそうです。

僕ですねwwww


で、まあ、政治家とか、仏教者の方たちは、このようなことに対して、責任を負うべき立場におられるわけですが、この現状の目的が「経済活動」になっているのです。

永平寺に言ったら「観光名所ですがな」wwwww

入場料、お金取られたのではなかったかな。

また、経済のお話が、重要なのは、もちろん食べるためには、つまり本能の満足のためには、当たり前ですが、その前に、基本としての、仏教と国家の姿がなければですね、虚しくもなりますよねwwwww

食べなければ死んでしまうのは明白な事実なので、もちろん、その活動が重要であることは認めなければなりませんが、その活動自体だけでは、救われませんよ、人間。



例えば、以前にお世話になっていた会社なんかでも、お金と人間だと「お金」の方が価値があると心底思っている人が何人もいるんですよwwwww

全く、友情という言葉を何だと思っているのか!!!!

このエコノミックアニマル!

いや、まあ、僕も「お金」があったら嬉しいですけどね、もちろん。


ああ、話しがそれました。

まあ、それで、経済繁栄して、ようやく息つけるようになったら、なったで、快楽の追求は収まらないわけです。

それで、もっともっとと、どこかに答えがあると探し回る。

行動しまくる。

そうして、どこにも、なんにもないとなる。

なぜなら、自分自身は、一番近くにいるのだから、そうなります。

どこへ行っても、自分は、自分でしかないのであります。

どのように対象が客観世界が移り変わろうとも、自分は自分しているしかないのです。

真の救いは、この自分が、落ちることなのです。

そうして、自分が、たとえば神仏にしろ、無心にしろ、なんらかの状態において、心底、精神集中してリラックスしているときには「幸福」なのです。

『仏道とは自己なり』という言葉は、あるお寺の入り口に掲げてありました。

自己の問題を外側に探している間は安心ですが、それが自己自身の問題であると気がついた時に人はどうすればよいのか、と夏目漱石が問うたとも読みました。


この、宗教的な質問が、自然に出てきて当然の社会情勢、国際情勢に、なってきているのであります。

それは、まあ、昔も今も同じなのかもしれませんが、とにかく『甘美なる食卓』も『愛』がなければ冷たいように、経済活動も『人間』が置き去りにされていれば、問題が多々起こってくるのであります。

それが誰が見ても、明らかになっているのです。


ここで、このようなことは、社会でのことなので、自分とは関係ないと思われるかもしれませんが、実は自分自身の精神、心の状態に、非常に影響しています。

社会と自己は、もちろん、縁起していますから、法が動けば、自己も動くのです。


では、どうすればいいのか。

自分が自分のことを知るという活動が必要なのです。

ですから、アメリカでもスピリチュアルの書籍が何百万部も売れたり、著名人が『禅』に興味を示したりしているのです。

そうしてアメリカで起こっていることは10年後に日本で起こるのです、笑

まあこれは、眉唾ですがwwwww


日本でも様々な動きが起こってきているのですが、それは、僕とか、また周囲の人たちが、単なる経済活動ではなく「自然」であるとか、気(呼吸)の働き、またヨガ等々に代表される宗教の一部をもってくることに関心を示しているからです。

それは一般的になるに従って、様々に変遷していますが、心理問題が自然に、そちらの方向へと導かれるようになっているのです。

まあ実感としても、明治の『富国強兵』、戦後の『仕事経済大国』から、現在はどんどんと離れていて、精神の時代に突入しているのである。

なんちゃってw


自己がいないというのは、自己が自己を見失っている状態のことではありません。

自己は厳然と存在しているのです。

マダムドザルツマンが、ゲノンという人が「私はいない、ゲノンはいないのです」と言うので、

「ゲノンは存在しないのですか、それは残念!」と言ったらしいですが、この存在しないというのは、区別されたゲノンは存在しないのです。

動きのないゲノン、固定化されたゲノンは存在しないわけです。

つまり僕にしても常に動いているのであり、瞬間瞬間における実相は、気がついたときには、もうないのです。

ここで存在しないと言っているのは知覚された我、つまり、認識、記憶における我のことであります。

この我は対象を置いて、その対象と分離することで成り立っているのです。

しかし実際は、この対象と自己がひとつなのですから、そういう意味では、私は法であるからして、この小さな個性としての私、自我としての活動の私などというものは、本来は存在していないという意味なのです。

存在しているのはではなにかというと『縁起した我と法』なのです。

しかし、この我と法には違いがないため、我はいない、一切が法の働きであるとなるのでありますね。

名称と形態が拭い去られた、本来の自己、本来の面目自体は、最初からあるのです!

目は横、鼻は縦、別段に何も手に入れずに帰ってきた道元さんなのです。


この無我、無常を理解するには、自己に帰る必要があるのです。

そうして、実際に、自分が何かする前に、認識が働く前に、その本来の法である働きが起こっていて、それらの土台の上に、まあ「空」の中に色があり、色は空であるという認識に至ることなのです。

しかし、その認識もまた知覚外に行かねばならないし、諸行無常を離れないのです。


とか、また、支離滅裂になってしまったなあ。

徹底的に『自己』なのであります。

自己の問題が、それ以外であると勘違いしているのが、今の時代であり、それに、気がついているのだが、まだ、明確に社会に現れていないだけなのだ。

だから、現代は鎌倉時代以来の、1000年に一度レベルの、日本の変革期になる可能性が非常に高い。

いままでの「仕事経済大国」は、変革される運命、宿命に、あるのである。

たぶんだけどね(ごめんww)