豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

自己内部の消滅が苦を滅尽させる

2015-03-17 14:29:12 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



こんにちは。

本日は13時半ごろに起床しました。

妻が「散歩いってくるわな」と言い「ちょっとベビーカー取ってくる間、見とってくれへん?」と声をかけてきたのです。

僕は目を覚まして『KANTAのミラクルブログ☆』で内臓の状態が、心理面に現れるという記事を読んだが、寝起きの不快感は、それかもしれないと想像する。

ビンゴな感じだ、笑

相変わらず、寝起きにイラッとしてしまう僕は「14時まで寝るって言ったやん。なんで起すの?」と不機嫌MAX。

妻「行ってくるって言っただけやん!」



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僕「普通、寝てる人に、わざわざ言う?」

と、もう既に怒ってきている(苦笑)

そのあとで悠聖が、ごそごそしている音がしたので「障子破いたらアカンよ」とイライラした感じの声を発してしまう。

しかし、何かを勘違いしていたようだった。

こんな父親でごめんwwwww

完全に目が覚めてきたので起きることにして、洗面していると、妻が「行ってくるで、なんかあったらメールして」というので、不機嫌そうに「はぁーい」と答える。

昨日から「イライラ」は胸の上部に麻痺のような感覚で現れることを観察している。

この胸の上部、肺の上くらいに広がる、これ、が緩衝器の働きなのではないだろうか?

この防御壁が壊れると、人間関係における恐怖心が無くなり、怒らなくなるのではないだろうかと想像できる。


洗面を終えると、携帯で時間をセットして、座禅を15分します。

深く考えずにリラックスすることを見失って、頭の監視がとれない状況。

身体も動かしてしまいます。

この停滞状況は、毎日一定期間続けると、毎回、必ずでてくるようだ。

いい状態になるとわるい状態もすごく見えるようになり、どうしても新鮮さもなくなってきて、集中力が低下してきてしまうのだ。

自分の弱点が見えている「ここ」は良い地点である。

もっと良質な意識でいられたら、また、ひとつの壁を突破できるかもしれない。

脇道に逸れそうな時に「それは健全か?」と胸に問うのは、意外に、役に立ちますw


それから玄関脇で読書&珈琲、煙草タイムですね。

やっぱり僕は、ゆったり、のんびりできるのが好きなんだなあ。

まあ、みんな、そうかw

今日は素晴らしい陽気で、光が強く、春が来たなあと感じさせます。

考え事なんて、こういう自然に触れると、ふっ、と、溶けていきますよね^^

そういえば、どうでもいいことですが、5月とか、11月なんかは、気候がいいので、僕はどちらも大好きです。


で、至福タイムを終え、いつものブログ更新中です。


ここ何日か感情と向き合って、思ったのですが、本能の反応をなくすことは不可能じゃないのかなと思います。

でも、それを怒りに展開する事前に留めて、内に在る心を外に帰すということは出来るかもしれない。

自覚でストップして、内面心理に展開させるのをやめる。

感覚としての不快感のままで、胸の上部に、留めておくことはできるのではないかと思うのです。

なんというか胸の中でブツブツ呟いている内的考慮というものは、本能的警戒である「過去の経験」からくる不快感が、感情中枢で風船みたいに内側に膨らんで、目の前の事実から離れた、自己内妄想に陥らせるのだ。

これがトラウマの作用かもしれない。

それは記憶からくる恐怖の、内部への展開なのだ。

脳内での性的空想や、あーだこーだの自他批判は、この感情展開の不調和に起因しているのだろう。

その外部の印象の内部への流入が、人間的な喜怒哀楽に繋がっている。

キリストは笑わなかったと言われるが、それは、この、内的空間そのものが消去していたからではないだろうか。

それが「私」だ。

感情内に不快感が展開すると陰湿な「陰気」が体中に巡りだし、自己を他者から分離させ、脳内妄想へと引きこもり状態になるのだ。

本能的恐怖→過去の経験→快、もしくは不快→感情の不調和→脳内妄想である。

自分勝手というのは、ここからくるのかもしれない。


だから、不快感が内面展開する胸中自体を消失させて、身体の外側へと出ることなのだ。

それは不快感を感覚の段階に留めて、今ある事実から外れないことだ!

個人的内面が働き出すことは、痛みの記憶からくる防御体制であって、それが緩衝器なのだから、この痛みを感覚の段階でストップさせなければならない。

これが意図的苦悩だろうか・・・・・・?(ちょっと自信なしw)


自己の内面感情に位置して、その胸の内から、他者の内面感情の働きを感じるので、その連携から「怒り」が沸いてくるのだ。

他人が怒ると自分も怒るというのは、これだ。

自己の内面世界を消失させ、他者の内面世界をも想像せず、外側にある、事実そのものの動きに目を戻す、というか、胸から抜け出るということなのではないか?

これは、たぶん、合っているような気がします。

胸の内面展開を消失させることで、外へ飛び出すことなのだ。

感情的な妄想器官こそが、緩衝器だったのであり、それを破壊するとは、自己内存在自体を消失させることだ。

これが、ある程度進んだら思い切って死になさいということの意味なのだろう。

個人的な心理活動が死滅することである。

そうすることで今度は、他者が、自己の感情を生きているのであるから、慈悲が出てくるのかもしれない。

ただ感覚としての不快感は胸の上部に緊張として感じられる。

そこから内ではなく外へ飛び出すという忍耐を続けることで、この感情壁が無くなった人が菩薩のような慈悲を見せたに違いない。

これは見事に繋がったのでは!?

そこでは怒りの反応をする自己自体が外側の他者と感情的に分離されていないという状態になっているだろうからである。

もし、この状態になれば、外側の縁でひとつの感情となっているのだ。

他者が自分を生きている状態であり、自己がいない状態になっているのだ。

まるで思考や身体が自然界との同一性を見たように、今度は、感情を外へと向けることで、外側が内面になることなのだ。

○→←○

の片一方の←が消失することで、○←○となり。

この○自体が相手の○と融合することである。

これが「思い」の内的空間を消失させることなのだ。

これが、ハートの全一性を齎すのであり、ここに対する努力が、僕は全くできていなかったが為に、他者に対する温かみに欠けていたのである。

思考と性の問題は、内側の感情が無になることで解決されるのである。

これは、いい感じだ。

このまま、2ヶ月くらい続けられれば、必ず、新しい発見がある!

集中して毎日2ヶ月の法則は、かなり、成功しているという記憶があるwwwww

まあ、地味に頑張っていこうと思います。

では、またー♪