豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

人と比べなくても、あなたは大丈夫^^

2015-03-07 08:30:07 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



おはようございます。

嫁様から「アホを晒すななりー!」と言われている豊田です、笑

なんのことやら意味不明。

今朝は夜勤明けで、寝ていません。

帰ってきたら千鶴さんも起きていて、21時から3時まで6時間寝たらしいので一緒に起きている。

携帯電話をだらだら見て、煙草をプカプカ吹かしてから、お風呂です。

さっぱりしてから、座禅を50分しました。



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本日の座禅は、超久しぶりに「クンッ、ピーン」と入りましたよ(爆笑)

なんかこうやっぱり、時間あるのと、やる気と、あとは不動の姿勢がポイントかな。

リラックスも?

とにかく今日は「無心」に近い状態に入りました。

素晴らしい!

心の垢がとれて、すっきりさっぱり、清々しいのであります。

お風呂に似ていますよね。

お風呂は体の垢を落とすわけですが、座禅は、心の垢を落とすのであります。

するとガラスを拭いたように、鏡を磨いたように、映る景色が瑞々しいこと!

先週から12日目にして、ようやく、以前のような、感覚に入りました。

「不動」ですよ、やっぱり。

体と心が動いてはいけないのです。

動いても、元の垂直線に戻らないといけない。

動かなくても、体と心は非常にリラックスして、安心している。

している状態が、このクン、ピンに繋がるのであります(爆笑)


まあ、それはいいとして、えーっと・・・・・・あれです。

今日書きたいのは「比較」についてであります。

この比較というものは思考中枢の機能であります。

これがなければ人間は物事を理性的に判断できない猫のような生物になってしまうかもしれません。

本能のままに生きるのが動物です。

そして本能のままに経済しているのがエコノミックアニマルなのです!

wwwwwww

じゃなくて・・・・・・比較の話しです。

正常に機能していない思考中枢が、他者と自己を比較したり、社会と自己を比較して、喜んだり、悲しんだりしているのですね。


「呑んだくれ」の豊田君は、よく、居酒屋ではギャーギャーと騒いでいますが、普段は、おとなしい性格です。

比較が働くと、他の人は、ああだけど、オレはこうだで終わる。

それが優れているのか、劣っているのか。

でも他の人がああいうから、こういうから、と他の人基準に陥る。

よくあるパターンですね。

それは『自尊心』『虚栄心』によって、思考が、他者に乗っ取られているのであります。


まあ、グルジェフさんに言わせれば『国家』と『階級』によって差別が生まれたらしいですが、そのようにして、この人物は、どういった背景があるのかと比較する。


僕が、仏教の話なんかした日にゃ「お前が言うな」です(爆笑)

また、なにやら、僕なりに、深遠な体験をしたことを共有したいと思っても、誰も真剣には、聞いてくれないのであります(号泣)

なぜなら、僕だからですwww

まあ、身からでた錆なので、しかたがありませんね・・・・・・。

例えば、高級なスーツに身を包んだお医者様が、同じことを、お上品に話したならば、なるほど納得、と、なるのであります。

まあ、実際は、そう単純じゃないかもだけど、可能性は、あるよね?


ここでは価値判断、比較という機能の誤りが、存分に発揮されているのであります。

だめ人間だめまと『高級なスーツに身を包んだ医者』というのは、同じ話をしているという設定なのですよ。

しかし一方は社会における、信頼がある。

イケテル服を着ていて、お金の稼げる職業に就いているから信頼されるのですね。

それに『比べて』この、ヘンテコな酔っ払いは、この体なのです。

まあ、酔っ払いの時点で、真面目に仏教を語る資格はありませんがwwwww


でも妻帯している僧侶の方が、日本では、たくさんおられるわけですので、実は、お酒を飲んでいる人もいるのではないでしょうか。

大乗仏教だとOKなのかな?


ああ、思い出した!

あの時に、そう、小学生時代に、高野山へ研修で行った時、確か、青年僧の方々は『ツインファミコン』をしながら、お酒飲んで、ツマミのポテチ食って、笑いあってたのではなかったか!

そうそう。

就寝時間が過ぎて、僕は寝ていたのだが、トイレに起きたら、笑い声がするので障子の隙間から、覗いたのだ。

たぶんね・・・・・・orz


しかし、古すぎて、記憶はあいまい。

あの方達は、正に、悟りを悟っておられたのであります。


って、そんな話ではないw


えーっと、この、比較というのは、優劣だけではなく、左右とか、まあ、いろんなことを思考する際に発揮されているわけですが、これが、他者と人間を分離させているのであります。

あれがいい、これがいい、あれはアカン「豊田はアホ」とかいう、そういう、比較がですね、僕をこの、苦しめるわけです(爆笑)

ですから、事が起きた後になって、いいとかわるいとか言っても、もう、それは、そこには無いのではないですか?

目の前には、眼前には、違う、真実の風景があるわけす。

とっくの昔に過ぎ去って、頭の中だけ、思考中枢の中にだけ『記憶』されているのでありますが、それは真実か、嘘か!?

どうおもわれますか?

まあ、豊田が言っているのだから、嘘ということには、ならないでしょう。

なにしろ、高名な方々も同じことを言っておられるわけですからwwwww

※ここで潜在意識や高次意識、魂を持ち出すとややこしくなるので、それは抜きでお願いします。


あ、あとひとつ、思い出したのですが、この反対ヴァージョンもあるので、みなさん、気をつけてくださいよ。

ほんとに、これは、気をつけてください。

何かといいますと真剣な顔をして、怒ったように、正当性のある話かのようにみせて、形式をもって語る人のことです。

こう語られると人は簡単に、尊敬したり、信用したりしてしまうのですwww

自分に自信の無い僕のような人限定かもですが・・・・・・。


例えば、この文章はどうでしょう。

『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して始めて解脱し、物と拘わらず、透脱自在なることを得ん』

これを真剣な顔をして、怒ったように、この言葉があるだろう?

これは「殺せ」と言っているではないか。

このように仏道というものは物騒なものであり、軽々しく近寄ってはならないのだ!

修行もせぬ連中が、ああだ、こうだと御託を並べてみても、生命がかかっておらんうちは、全く話にならんじゃないか。

『悟り』とは安易に近寄りがたいものなのである!!!!

『悟り』は、とても、怖いものである!!!!

お主には、とても無理なのだが、我輩は達成しているのだあ。

ガッハッハッハッッハーとかいうwwwww


まあ、極端に表現したわけですが、僕が、これは『自分に徹する』ことを書いているのであって、何者にも惑わされないように、つまり他者と自己のように比較や、分離させるのではなく、ただ自己が「自己であるがままに生きる」ことを表現しているんですよと言う。

「誰とも比較なんて、しなくてもいいよ」とかね。

そうなってくると、まあ、これは、間違えているのかもしれませんがね。

それは違う!

俺が、アタシが、君が、僕が、あの子が、仏陀が、なになにが、超能力が、深海が、神々がとか、まあ、様々に、もう言葉の坩堝となっていくのです。

単なる、階級争いのための、言い合いですね(爆笑)


自己が自己であることに、他者の『見解』を必要とすることこそが比較である。

また、他者でなくても、その他、様々な『対象』への執着を持ち込むことで、そういった諸々、コモゴモが出てくるのだ。

本当は、僕はあなたで、あなたが僕なのです。

比較抜きにしたら、完璧に、縁起しているのであります。


繋がっているんです、みんな、ひとりじゃない!


ああ、また、こんなことを書くと、見方の問題だとか、思われてしまう。

この見方、考えの問題だという話は、みんなが、そこで勘違いしている大きなところなのであります。

比較というのは見方の問題じゃないのです。

どのような認識であっても、認識を分別したこと自体が、もう比較作用が起こっていることなのです。

中身が問題なのではないのです。

だから、ある絵があって、こっちから見たら、こう見えるけど、あの人にはこう見えるみたいなことがよく書いてあったりしますが、あれは、比較作用が起こった、認識が起こった後の話をしているのであります。

そうではなくて、比較しないというのは、認識が、映るままになっている、あるがままになっていることなのです。

だから、分別の中では、ある一定の見方があっていいのです。


とにかく、他者と、社会と、比較しなければ、悟りなんです!

汝、人を裁くなかれ、裁いた罪により、汝も裁かれればなり!!であります。

右も左もないのであります。

しつこいですが、これは、見方の問題ではないですよ。

名称の問題でもないのです。

例えば、コップをプリンと呼ぶのが悟りみたいなことを言われる方も、いるのですが、まあ、白を黒と言うとかです。

確かに、それは、認識上の問題で、比較をしなければ、名称も形態も、なんでもありになるので、悟りのように思えますが、そうではなくて、この今、現生している実物に当たっていなければ、名称、見方の問題だけでは、違う見方が増えるだけなのです。

実物、リアル、真実の風景があって、名称形態が滅び去るのが本当です。

あとの方だけをとるのは違うのです。

諸行が無常なのです。

あらゆる行いは、常には、無いのです。

行を意志と説明してある本もありますね。

とにかく前提があるのです。

諸法が無我なのです。

つまり、あらゆる法とは無我なのです。


ああ、また、見方の問題で、とか言われそう(爆笑)


比較機能の正常な使い方は1、2、3、4なのです。

違いを比較して判断しているのが、思考中枢の働きです。

この思考中枢が、感情中枢から影響を受けて、感情中枢が、喜ぶようなことだけを比較しようとしているのです。

真剣に怒っている人は、心の内に、密かに隠された『慎重なるプライド』を傷つけられたのであります。

他者に依存した自尊心によって怒っている。

そういった時に、形式的に、厳格な表現によって、自己保存する。

警戒心によって、怒りがこみ上げてくるんですね。


このように自尊心が傷つくのは他者を拠りどころとして『比較』するからなのです。

徹底的に自己があるがまま自己である人は「仏に逢うては仏を殺す」のであります。

なぜなら、仏というものは己なのであるから、仏に出会うはずがないのです。

対象化されるものは、全部、偽者なのです。

であったときには対象化している己が消えているのであります。

それが、臨済が言いたかったことであり、僕も同じことを言っているつもりなんですがwwwwwww

まあ・・・・・・「おめえがゆうな」で、ありますねっ!

ごめんww