豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

来る我ままに

2015-03-02 08:37:38 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



おはようございます。

朝から嫁様と喧嘩中の豊田ですorz

起床して洗面している時に「今日は夜勤だから仮眠する」的なことを言ったら、何やら不機嫌そうになり、それに対して僕があれこれ言ってたら、もう爆発しているwwww

おーい、仮眠ぐらい、いいじゃないかあ、笑

まあ昨日から、買い物と悠聖(息子)のお風呂手伝いとかは、すると言っていたのだが、別に、それをしないと言っているわけではないのに……。

カチンときて、こちらも、イライラマックスであります。

そのあとで座禅50分をしました。



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素晴らしく沸いてこられる妄念というか、思いのパターンさんを眺めました(爆笑)

このようにして人間というものは、いや、人間というか、僕という男は、単純なのだなと改めて確認できたわけです。


座禅を終えて煙草を吸いながらコーヒーを飲み、読書1章です。

そこから朝食ですが、嫁様が怒り心頭な感じで洗濯物を干して、そのあとで、悠聖を連れて、母親の家に行っている。

見るとシンクに食器類が溜まっているので、いつもは、洗わないのに洗ったwwww

ご飯と味噌汁でもいいかと思い、インスタントを探すが、ない。

仕方ないので永谷園のお茶漬けの素で食べました。

まあ、でも、美味しいよね!


それから、またまた煙草を吸ってきて、ブログの更新であります。


このようにして「思い」「怒り」が沸いてきては流れていくわけですが、これらは、まあ、自然の流れの中で普通に起こってきているわけですね。

そこに手をつけようとして、あれがだめだ、これがだめだ、ああしなければ、こうしなければと『監視』している態度が迷いなわけです。

いや、まあ、監視もしなければいけないのですが、その結果に対して、ああだ、こうだと分別を立てる。

分別というのは、いいとかわるいとか言っている、そこのとこです。

だからね。

高尚な仏典とか、仏教用語とか、立派なお寺だとか、その人の権威だとかに裏づけされた、言葉が、ひとりでに、凄く、達成不可能な、異次元の境地だと、思わせる効果を生まなければですね。

無分別なんて、誰にだって分かることなのです。


しかし、分かられては困る人がいるのだろうかと思うほどに、この、悟りとか、座禅とか、苦の滅尽にたいして、凄まじく大きなことが言われてきているのです。

だから実際に、そこに触れたことがある人でも、そんなことではないと思う。

もっと超人的で奇跡的なことでなければ、違うとか、意味がないとか思うのです(爆笑)


幸せと不幸という分別を立てれば、これは、迷いであって、そこに真の涅槃、極楽があるはずがないのです。

幸せであるということは、環境の如何に左右されずにいることで、これが無分別なのであります。


太陽があって、惑星があって、月がある。

これらの運行が、地球の環境を決定付けており、そこから、気候の変動、大地の変動があるのであって、その変動が、人間の身体に影響を与えている。

本能中枢は生まれながらに持っている人間の機能を指す言葉であるが、そこに影響が与えられると感情中枢に肯定的、また、否定的な、つまり快、不快の気持ちが生まれる。

そうしてそれらの感情の機微にしたがって、思いが流れ出てくる。

また、それらの思い、感情、本能の何れかの中枢からの指令によって動作、つまり行為が生まれてくるのである。


ここで仏の心と言われているのは、所謂、感情センターの喜怒哀楽の活動のことではないのである。

喜んだり、怒ったりということは、上のように、環境に左右されているのだ。

つまり、早い話が、本能が満足すれば、人は幸せでいられるのである。

しかし、ここで指す幸せと、涅槃、悟りの指す、大安心とは別物である。

別物であるにもかかわらず、最初の本能的幸せを悟りと結びつけるということが、スピリチュアルの記事を扱っている人々の中で、また、読者の中で、散見される。

この意味での幸せと言うのは、環境を整えるように働くことで達成されるだろう。

気温、湿度、胃の状態、等々に左右されているのである。

だから、例えば、香水を部屋に置く女性が、環境を整えているように、体の本能中枢を管理することで、最初の意味での幸せが、以前よりは多くなるだろう。


しかし、これは、悟りとか仏教とは無縁の、違う話である。

こちらの方は、環境は諸行無常で掴まえられないと、離れているのである。

そこに行ったり来たりしている。

その活動の中にあること自体が悟りなのであり、ある一定の境地を維持することではないのである。

その行ったり来たりしているなかには、善い事も、悪い事もあるだろう。

そこで、これはだめだ、あれはだめだという以前の、ただの認知した、認知と言うか、自然にある、その、そこ、そのもののままに生きている。

生きているしかないのだというところなのである。


では実際問題として、このような一定の境地ではない状態を、どのように受容するのか、その「方法」はなにかという問いが、当然出てくる。

どのようにすれば?

この、どのようにすれば、ということに対しては「何もしない」「手をつけない」「来たままにしておく」ということになるのである。

それはどういうことかと言えば「不動」であることなのである。

私がいないところの「空」において「不動」であることが、一切の活動を顕現させているかのように、どれかひとつの活動に、追いつかないことである。

それは一体どういうことなのだとなるw

それは「思いを掴まない」ことなのである。

思いを掴まないということは、つまり、何もしないことであり、何もしないということは、来たままにしておくということであり、それが無分別なのだ。


自己を改造しようとせずに、ただ、そのままに、在る。

在ること自体が私なのである。

そうして、その在るという私自体が、全体としての自然と一斉に縁起しているのである。

この一斉に縁起している「私」というものは、実は、変幻しており、そこに「意志」とかは存在できない。

であるから、自然の一部である私は、その私ではない、なんでもない全体という事実世界における、表現のひとつなのである。

しかし、実体がない。

実体がないがゆえに空であるが、この空は厳然としてあるのである。


とかまた屁理屈三昧に・・・・・・orz

今日言いたかったことは「マイナス感情」も「あるがままに」ということですwwww

ではまた!