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バナナマフィン

こんなやつでも神は見捨てないで下さっています。むしろキリストの愛で生かされています。

パパに会いに行った

2006年11月23日 07時26分09秒 | J.C.
この間の鎌倉旅行
(だって家から電車で2時間ちかくかかるんだもん。れっきとした旅行でふ。)

父親、祖母、祖父に会いに行ってきた。

クリスチャンになってお寺へのお墓参りは長いこと行かなかった。
これは本当に私の信仰の弱さに比例していた態度だったと思う。
でも、クリスチャンだって亡くなった自分の家族や知人を訪れることはある。
日本という地に生きていて、その土地の習慣を無視して生きることはおかしなこと。
それと同時に、宗教は自己選択であるべき
自分が主と思う相手でなければ、真の礼拝なんかできないしね

あの北鎌倉のお墓の中にパパがいるとも思えない。
キリストに出会う前は無理やりそう思っていた。
そしてその思い出に支えられてなんとか生きていこうとしていた。
大好きだった父親が亡くなった後、半年くらいは頻繁にお墓に通い
墓前でオイオイ泣いていた。
若いお坊さんが心配してよく様子を見に来ていたっけ。

人は死んだらどうなるのか
私は聖書のことばを信じるこことを選択した。
だからお墓にパパはいないと思っている。
この間お墓に行ったときの思いと
墓前で泣いていたときの私の思いとは違っていた。

今回の訪問は、
よく訪れた場所 懐かしさが大きかった。
私が主を受け入れる前も
神がどれだけ私によくしてくれていたか
そしていろんな過去を経てきた私に
今、神がどれだけよくしてくれているか
そんなことを思い巡らすよい旅行となった
そんな気持ちでお墓の掃除をしてきた


宗教的な面で考えるならば
私にとってお墓参りはまったく意味をなさない

でも、私の思い出の一部
そして○○家の家族の一員として
役割を果たし、
墓前でも主に祈って帰ってきた。
お墓の掃除や維持は親戚にとっても大仕事
それをクリスチャンだからという理由で怠るなら
それはわがままな信仰としかいえない気がした
叔母達に悪かったなと反省した。

人間は半端。
死ぬまで成長過程にある
神のあわれみでそれが赦されている
この私も例外でないことに感謝する

私と神との関係
どこかで切れるだろうか
そんなことありえない

「たとえ私がよみに床を設けても
そこにもあなた(神)はおられます」(詩篇139編8節)

家も日本の家族。(あたりまえか。ま、体型はポリネシアン系だけどさ)
だからお寺に家のお墓がある。
でも、むかーしっから、私は信仰をもってお寺に行ったことはなかった。

おじいちゃんに会いに行こうとか
いう気持ち。それだけ。

仏教という宗教団体の所有する墓に家族が入っていても
純粋に父親の思い出に浸りに行くことは別にいいじゃん。
と思えるほど神に対する信仰が安定してきたんだと思う。

「わたしの他に神はいない」
そのことばが心の中にどっしりと治まってから
こういった関連の事柄に動揺しなくなった。

恐れで夜中にうなされることもなくなった。

どこで何をしていても、
私が礼拝する方は、主なる神

○○家の娘としての役割
お墓の掃除はしてきた
お花も飾ってきた
(お供えという気持ちでなく)

お寺の門を入ってから
出るまで

感謝な思いで一杯になった。
神がこの家族を与えてくれた。
いろーんな思い出が浮かんできた。
胸がいっぱいになった。
涙が出た。

私の心に沢山影響を与えた家族
残念ながらおじいちゃんには会えなかったけど。
私が生まれる数年前に亡くなってしまっていたから。


クリスチャンであることは単なる私のこだわりとかじゃない
ライフスタイルとかというのともちょっと違う
自己表現とも違う
だから自分を発表することとも違う
だれかにわかってほしいという気持ちもない
そして違う信仰をもっておられる方を否定したり排除する気もまったくない。
そういうことするから宗教戦争が起きる
エゴのかたまりじゃん そういうの

神の命令は、
神を愛し
人を愛すること
自分が犠牲を払うこと

だからお坊さんもわたしにとって大切な愛する対象
神はそう願っておられる
だからマザーテレサもあれだけイスラム教カラーの強いインドで
何万人もの死に行く人をケアしたんだと思う

クリスチャンだけを愛しなさいとは絶対に聖書には書いていない
そんな排他的な生き方を神は1番嫌う
でも、同時に大人の考えで生きろと言われる
なんでも良いという訳じゃない。
自分に関しては、自分の見る方向はしっかりと決める必要がある
でもそれを他人に強要することほど子どもじみたことはない
また自分の責任において決断していくことなしに
キリスト教を強要されたと批判することもおかしなことだと思う
クリスチャンになることも自由意志。神は絶対強要しない。
私が強要されてクリスチャンにならなければならなかったら
大暴れしていたと思う。(こわっ)

強要する宗教をカルトという
洗脳したり
脅かして恐れでコントロールしたり
金をむしりとったり
キリストの名を汚している
でもそういう人たちにも神の愛は向けられている

キリストは十字架にかかってものすごい苦しみの中で
「父よ、かれらをおお赦しください。かれらは何をやっているのか自分でわからないのです。」(ルカによる福音書23章34節)
ととりなしておられた。
キリストはインターセッサー
魂の救いが任務

いずれにしろ聖書を学んでいかなければ私にとって本当に大人になることは不可能と思われた。
知的に大人になることだけじゃなくて
愛することに関してもっと大人になりたい

相手を包含する。
でも影響されない。
このスタンスは神の愛だと思う。

神は犠牲を惜しまない方
いつも与えてくださる
私はいつも受け取るだけ


Personal relationship with God

この一語につきるかな。
私の心にゆるがない平安を与えてくれる神、ヤハウェー

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