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バナナマフィン

こんなやつでも神は見捨てないで下さっています。むしろキリストの愛で生かされています。

私に必要なのは信仰です。

2008年05月14日 01時04分31秒 | J.C.
もし、


与えられた試練にすっかり心をとらわれ、

自分に対してはひそかに

他の人にはそれとなくわかるように

その試練を大げさに騒ぎ立てるならば

そしてそのつらさを

なんとかしてわからせようとするならば

またそのような時、

以前のことをひたすら偲んで、

思い出の脇道にいつまでもかかずらい、

そのために他の人を助ける力が弱まるならば、

その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

      エミー・カーマイケル “カルバリの愛を知っていますか"



主よ、あなたのことばのとおりに
私に与えてくださるほどに豊かな方であることを
忘れて
目の前の状況に怯えて、
自分のちからでなんとかしようとしてしまう私を
赦してください。

信仰がなくならないように祈った

ととりなし続けてくださるキリストに感謝します。

また通訳をやることに

2007年01月17日 00時13分55秒 | J.C.
牧師の奥さんから
今度の礼拝メッセージの通訳をするようにオーダーを受けた。

ぎえーーーっつ なんで?
が私の最初の反応。

確かに前にもバイブルスタディで一回やったことはある。
あるけど、あんときそれはお粗末だったじゃないかーーー。
という記憶があるのになぜ私にやるように言われたのか?

うちの教会にはもっとしゃべれる人が何人もいる。
イスラエルに行って原語で聖書を学び、英語も堪能な人たちや
大学院まで行っていた人
それから英字新聞のライターまでたまに来ることがある。

やめてほしい
なんで芸術系の大学中退のわたしが通訳なんだよぉー
海外生活中だって、英語の得意分野はスーパーでの買い物くらいじゃないか。
そんなお粗末な英語は聞いている人に怒られる。。
と私のプライドは叫ぶ。
いまさら40歳になって人前で冷や汗と恥をかかなきゃいけないのか。。。
と、どんよりした。

「できないところに立たされるのは
主を求めるチャンスです。
どんなのでもいい
神により頼んでよろすく」

「よろすく」って。。。



こりゃ日曜日まで祈らんととんでもないプレッシャーで押しつぶされる

断ろうか、やろうかと考えるとき
自分のプライドを優先させるなら、
丁重にお断りすることを選びたいもの。
だって人前で恥かくの嫌じゃん、
ええかっこしいのmarijunでいたいしよ。

前回は気絶寸前の精神状態で通訳していたかも
その様を見たら「ここに立っているのは一点しか見れない人形ですか?」
といわれそう。。
「失敗したらどうしよう。
せっかくメッセージを聞きに来ているのに無駄足になったら。。
そんなことになったら申し訳ない。。。
私じゃ英語力の役不足だからやるならなんとか必死にならなきゃ。」
と意気込んでいた。
そのときも、自分のプライドに縛られ、
人を恐れてがんじがらめになっていた。

でも、私はキリストに従おうと決めたんだ。
私の自分勝手な願いでなく、
神の願いを優先していくことを
信仰で踏み出していく人生を歩むこと

歩む道は私が選んだり、見つけてきたり
するものじゃない。
最良、最善を与える神の意志に従うと私は決めた。


。。。。。。
となると
今回の通訳の目的は
私が上手にできてホクホクするためではなく
聞きに来たひとりひとりの徳が高まる=イエスキリストみたくなる
ために仕えること

たとえ恥をかいても
それはプライドだけで生きようとする私を
潰す必要な材料かもしれない

プライドが十分に潰された後で
聖霊は豊かに働かれる

誰一人人間が手柄をとることのない状況の中で
神によってのみ人は引き付けられる。

私が生きている間どんなことをするのかは
神しかしらない
それくらい委ねて生きることが
キリストについていくことのようだ。

もう、自分勝手に欲望のおもむくままに生きて
ずたずたにしたくない

この私にも喜んで生きる人生が与えられているんだからね。
やっほー



神と歩くということ。

2006年12月02日 00時04分17秒 | J.C.
思ったことをうまく書けるだろうか。

今までブログにキリストのことを書いてきたが、
その中には頭だけで書いていたこともあった。

神と生きることって
聖書を読み、バイブルスタディに出て知的に学ぶことも大切だけど、
同じくらい祈り(実生活の中で主を求め、心のうちを神に洗いざらい吐露する)
ことも不可欠だ。
私たちは神が存在し、その力が必要であることを認め、どんなときも求める者。

最近の私、
深いところでとてもとても凹んでいたようだ。
そして、すべて排他的になり、絶望していた。
神のことばをここに書いて、自分の知性にすがろうとしていた。
離婚のリバウンド。
負け犬。敗者。半端者。こんな言葉が頭の中をぐるぐるとめぐっていた。
そこから抜け出そうと必死にもがいた。
がんばっていってしまった。自分の力で。
そして完全燃焼してしまった。

絶望することも起こりうる。
人間は半端だから。
でも、神と共に絶望を乗り越えるならば、
それは無意味じゃない。
信仰の大切な訓練になる。

神の言葉は真理。
そしてかならず成就する。

主のみこころを求める者にはかならず神ご自身が成し遂げてくださる。

そこで自分を見つめた時
そのような器じゃないし、到底進歩しないように感じる。
さまざまな現状の問題。
自分の弱さ
傾向性。
これらが立ちはだかって心がかじかむ。

私の上に主のみこころがなったらいいのにと強く願う。
でも、とてもあせってしまう。自分を見れば。

今日語られた。
私はありのまま感じたこと、思ったことを
神に丸投げしなければならないこと。
主は私のすべてをご存知だけと、
私が心を開いて主に話しているのかも重要だと

みこころがなってほしいと思うと同時に
自分勝手に生きたいと私の肉は叫ぶ
この二つをそのまま神に叫ばなくては
私はこのまま行ったら壊れてしまう。

病院の帰りの車の中で
前が見えない程涙が溢れた
泣き続けた
悲しみをこらえずに祈り、
神に話した。

夫と別れたこと、
本当に悲しかったこと
こんな風になってしまうなんて考えてもみなかったこと
張り裂けそうだった。
なぜ私はこんな苦しい思いをしなくてはならないのですかと
辛いですと。
ひたすら叫んだ。言葉にもならない嗚咽だった。

思いつくまま叫んでいい 
と言われた気がした。
どんだけ苦しかったか
どんだけ悲しかったか

隠さず神に申し上げるなら
神はそのいっさいがっさいを抱き
前に進ませると
癒し、回復し、立て直すと
そうおっしゃった。

私に先を見越す力も、精神もない
なのに一生懸命自分を押さえつけて
わけのわからない自分流のやり方で乗り切ろうとする
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる



「ただ
『助けてください』
となぜわたしに言わないのか。
救い出そうと待っているのに。」

"You are Mine." あなたはわたしのもの(イザヤ書43:1)



主よ。
私はあなたのものです。
あなたのみこころがなるように。
この心も変えてください。
聖めてください。
あなたのみこころが私の喜びとなりますように。
私の願いとなりますように。
そのために今の私をあなたにおゆだねします。
明け渡し、待ち望みます。
私の主よ。



「主に帰れ。
そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。
豊かに赦してくださるから。

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
――主の御告げ。――

天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
(イザヤ書55章7-8節)

ままからの電話

2006年11月29日 01時07分11秒 | J.C.
日曜日夕方、私の携帯の簡易留守電にママから2件メッセージが入っていた。
2回続けて入っている

至急話したいことがあると言う内容だった。

ママはたいてい院内の公衆電話からかけてくる
着歴に番号が載っていたので
うまくいけば、電話口でまだママが待っているかもしれないので
すぐに携帯からかけなおした

するとヘルパーさんがびっくりして出た
公衆電話に電話が掛かるのは滅多にないだろう

よくアクション映画で犯人から指示されて
公衆電話に行くといきなり電話がかかるシーンがある

犯人でなく母は、すでに部屋に戻っていたが、呼びに行ってくれた
 
元気そうな母の声
だけど内容は、数日間夜中にうなされてとても怖いという内容だった
夜中に大きな声を出してしまったり
同じ夢を何度も見ているとのこと
自分が変になっちゃったんじゃないかとすごく不安になったそうだ

かわいそうに
夜中に一人でじっと耐えていたかと思うと
こみ上げてきた
一緒にいてあげたかった

でも私はママの夢の中に入っていって安心させてあげることはできない

ママから「祈ってほしい」というリクエストだった
いろんな恐れにとらわれることがある
でも
「わたしの他に神はいない。」
「わたしを呼べ、そうすればわたしはあなたに答える」
「わたしは既に世に勝っている」
このことばを思い出した。

1番怖い瞬間にイエスキリストと信頼して叫び、助けを呼ぶと恐れはみごとに消える。
特に夢の中でものすごい怖い目に合い、声もでないとき
イエスキリストと何度も叫ぶと深い眠りに入れる。

聖書にキリストの名前には力があると書かれている
それが本当なら力があるはず

私は夢を見たときいつもそのようにくぐりぬけている

ママと祈った
心が守られますようように
そしてみことばに立つことができますように
そして素朴に神に信頼することができますように

電話を切ったあと
教会の仲間で心を合わせて祈った

翌日様子を見に行くと
昨夜はゆっくりと眠れて、うなされることはなかったとのこと

闇の力が攻撃してくるときが本当にある
でもキリストはすでに勝っている



「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」
(ヨハネの福音書1章5節)

聖書の言葉は私の小さな実生活の中でさえも実際の力となって生きてくる

バカの壁

2006年11月27日 00時32分31秒 | J.C.
今日は日曜日

いつも教会で終日過ごす。
今日のメッセージで「バカの壁」について聞いた。

「バカの壁」とは「もう知っている」という自分の壁ができてしまって
それ以上知ろうとしないこと。

神を知ろうとすることも同じ
ちょっと聖書をかじると
全部しったかのようにふんぞりかえる。

自分より新しく来られた人に偉そうに教えてあげよう的な態度を取る。
私こそ「無知の壁」に覆い尽くされた者だ。
知らないことがいけないことで、
知っていることで合格としようとする
だからそれを一生懸命披露することで
自分の存在価値を得ようとする。
でもそんなことのために神は聖書を読めといっているんじゃない。


「資格」ということにも学んだ
神が与えた資格というのは、
私たちがその資格を受け取る素質があるからじゃない。
ないから与えてくれる。
それがあわれみであり、恵み

教会の中は競争社会じゃない
キリストは罪人のために来たと言った。
自分は破綻しているから
助けて欲しいと低くなって求める者に救いはある。




みこころがなるように

2006年11月24日 00時10分12秒 | J.C.
今日は賛美集会だった。
Brooklyn Tabernacle ChoirやMaranathaの曲に日本語訳詩をつけたのを歌った。

おお主よあがめます
あなたの約束と
注いでくれた愛だけで
今を生きたい
あなたと生きてく

バイブルスタディや祈り会で深く主に語られたことをdevotionしながら
メロディを聞くと歌詞が与えられる

賜物は人に仕えるためだけにある
このことをわきまえ、自分が取るに足らないものであることを知るならば
自分の能力で立とうとする自己実現から守られる
また賛美のメンバー同士でそのような芽を早いうちに摘んでおくことも
守られる

自分のやり方でなく、
神のことばに従って生きたい

主よ、
どうかのあなたのみこころのとおりとなりますように
あなたは愛そのもので、恵みとあわれみ深い方であることを信じ、
神に預ける信仰のうちに歩めますように

キリストの力ある御名のゆえに祈ります。

パパに会いに行った

2006年11月23日 07時26分09秒 | J.C.
この間の鎌倉旅行
(だって家から電車で2時間ちかくかかるんだもん。れっきとした旅行でふ。)

父親、祖母、祖父に会いに行ってきた。

クリスチャンになってお寺へのお墓参りは長いこと行かなかった。
これは本当に私の信仰の弱さに比例していた態度だったと思う。
でも、クリスチャンだって亡くなった自分の家族や知人を訪れることはある。
日本という地に生きていて、その土地の習慣を無視して生きることはおかしなこと。
それと同時に、宗教は自己選択であるべき
自分が主と思う相手でなければ、真の礼拝なんかできないしね

あの北鎌倉のお墓の中にパパがいるとも思えない。
キリストに出会う前は無理やりそう思っていた。
そしてその思い出に支えられてなんとか生きていこうとしていた。
大好きだった父親が亡くなった後、半年くらいは頻繁にお墓に通い
墓前でオイオイ泣いていた。
若いお坊さんが心配してよく様子を見に来ていたっけ。

人は死んだらどうなるのか
私は聖書のことばを信じるこことを選択した。
だからお墓にパパはいないと思っている。
この間お墓に行ったときの思いと
墓前で泣いていたときの私の思いとは違っていた。

今回の訪問は、
よく訪れた場所 懐かしさが大きかった。
私が主を受け入れる前も
神がどれだけ私によくしてくれていたか
そしていろんな過去を経てきた私に
今、神がどれだけよくしてくれているか
そんなことを思い巡らすよい旅行となった
そんな気持ちでお墓の掃除をしてきた


宗教的な面で考えるならば
私にとってお墓参りはまったく意味をなさない

でも、私の思い出の一部
そして○○家の家族の一員として
役割を果たし、
墓前でも主に祈って帰ってきた。
お墓の掃除や維持は親戚にとっても大仕事
それをクリスチャンだからという理由で怠るなら
それはわがままな信仰としかいえない気がした
叔母達に悪かったなと反省した。

人間は半端。
死ぬまで成長過程にある
神のあわれみでそれが赦されている
この私も例外でないことに感謝する

私と神との関係
どこかで切れるだろうか
そんなことありえない

「たとえ私がよみに床を設けても
そこにもあなた(神)はおられます」(詩篇139編8節)

家も日本の家族。(あたりまえか。ま、体型はポリネシアン系だけどさ)
だからお寺に家のお墓がある。
でも、むかーしっから、私は信仰をもってお寺に行ったことはなかった。

おじいちゃんに会いに行こうとか
いう気持ち。それだけ。

仏教という宗教団体の所有する墓に家族が入っていても
純粋に父親の思い出に浸りに行くことは別にいいじゃん。
と思えるほど神に対する信仰が安定してきたんだと思う。

「わたしの他に神はいない」
そのことばが心の中にどっしりと治まってから
こういった関連の事柄に動揺しなくなった。

恐れで夜中にうなされることもなくなった。

どこで何をしていても、
私が礼拝する方は、主なる神

○○家の娘としての役割
お墓の掃除はしてきた
お花も飾ってきた
(お供えという気持ちでなく)

お寺の門を入ってから
出るまで

感謝な思いで一杯になった。
神がこの家族を与えてくれた。
いろーんな思い出が浮かんできた。
胸がいっぱいになった。
涙が出た。

私の心に沢山影響を与えた家族
残念ながらおじいちゃんには会えなかったけど。
私が生まれる数年前に亡くなってしまっていたから。


クリスチャンであることは単なる私のこだわりとかじゃない
ライフスタイルとかというのともちょっと違う
自己表現とも違う
だから自分を発表することとも違う
だれかにわかってほしいという気持ちもない
そして違う信仰をもっておられる方を否定したり排除する気もまったくない。
そういうことするから宗教戦争が起きる
エゴのかたまりじゃん そういうの

神の命令は、
神を愛し
人を愛すること
自分が犠牲を払うこと

だからお坊さんもわたしにとって大切な愛する対象
神はそう願っておられる
だからマザーテレサもあれだけイスラム教カラーの強いインドで
何万人もの死に行く人をケアしたんだと思う

クリスチャンだけを愛しなさいとは絶対に聖書には書いていない
そんな排他的な生き方を神は1番嫌う
でも、同時に大人の考えで生きろと言われる
なんでも良いという訳じゃない。
自分に関しては、自分の見る方向はしっかりと決める必要がある
でもそれを他人に強要することほど子どもじみたことはない
また自分の責任において決断していくことなしに
キリスト教を強要されたと批判することもおかしなことだと思う
クリスチャンになることも自由意志。神は絶対強要しない。
私が強要されてクリスチャンにならなければならなかったら
大暴れしていたと思う。(こわっ)

強要する宗教をカルトという
洗脳したり
脅かして恐れでコントロールしたり
金をむしりとったり
キリストの名を汚している
でもそういう人たちにも神の愛は向けられている

キリストは十字架にかかってものすごい苦しみの中で
「父よ、かれらをおお赦しください。かれらは何をやっているのか自分でわからないのです。」(ルカによる福音書23章34節)
ととりなしておられた。
キリストはインターセッサー
魂の救いが任務

いずれにしろ聖書を学んでいかなければ私にとって本当に大人になることは不可能と思われた。
知的に大人になることだけじゃなくて
愛することに関してもっと大人になりたい

相手を包含する。
でも影響されない。
このスタンスは神の愛だと思う。

神は犠牲を惜しまない方
いつも与えてくださる
私はいつも受け取るだけ


Personal relationship with God

この一語につきるかな。
私の心にゆるがない平安を与えてくれる神、ヤハウェー

ゆるしのかたち その2

2006年11月22日 10時58分50秒 | J.C.
フランスの田舎にテゼというキリストの共同体がある。
ここの創始者が精神を患っている女性に殺害された。
以下がその葬儀の始めのことば。
神の願い通りに赦すことを選択することで憎しみに囚われていない姿勢、
キリストに従う姿勢がここにもある。
以下本文。


ブラザー・アロイスによる始めのことば
テゼ共同体の名において、わたしたちは、ブラザー・ロジェの送別のときに、あなたがたの参列と支援に心からお礼を申し上げます。正教会、カトリック、プロテスタントと英国国教会の代表に感謝します。また、ドイツ、フランス、ルーマニアと他の国の行政当局を代表する人々に感謝します。

Genevive(ブラザーロジェの親愛なる姉妹)と彼女の家族に心からの愛情を表明します。

ブラザーロジェはわたしたちに道を開き、特別なエネルギーと勇気でわたしたちをその道に導きました。深い信念は、疲れを知らずに彼をその道に進ませました。これらの信念のうち2つに言及させてください。

しばしば、ブラザーロジェはこれらの言葉を繰り返しました:「神は、例外なくすべての人を結び付けます。」、この確信はわたしたちの小さな共同体が教会一致を推進する原動力であり、これからもあり続けるでしょう。全ての教会とともに、わたしたちはこの現実を信じ、私たちの人生そのもので、それを言い表し、全力を尽くしていこうと思っています。ブラザーロジェの心には、すべての国の人々、特に若者たちと子供たちがいました。わたしたちは、その歩みを継続します。

そして、もうひとつの信念は、ブラザーロジェは、絶えず、思いやりという福音に言及しました。そこでこそ、神が働かれているので、それは虚しい言葉ではないばかりではなく、世界を変えることができる力なのです。悪に直面する時、思いやりにはもろさがあるのが現実です。しかし、ブラザーロジェが与えた生命は、地上のすべての人々にとって、神の平和が決定的な言葉であることの保証なのです。

ブラザーロジェは教会で多くを語ることを望まなかったので、祈りで結びたいと思います:

善なる神、わたしたちは、病いによって、ブラザーロジェの人生に終止符を打ったLuminiţa Solcanをあなたの赦しにゆだねます。十字架のキリストとともに、わたしたちは祈ります:父よ、彼女をお赦しください。彼女は何をしているのか知らないのです。

聖霊よ、わたしたちはルーマニアの人々のために、また、わたしたちがテゼで愛してやまないルーマニアの青年たちのために祈ります。

共に寄り添ってくださるあわれみのキリスト、 あなたはすでに世を去った人とも、ずっと近くにいる人とも、 わたしたちを繋げてくださいます。 あなたの御手に今ブラザーロジェをおゆだねします。 彼はわたしたちが見ることのできない真実の中にすでにおられます。 彼の足跡の内に、あなたの光の輝きを迎え入れるようにわたしたちを整えてくださいます。

次の歌の後、キャスパー枢機卿(ローマ教皇庁キリスト教一致評議会議長)のお話しがあり、その後、テゼの聖職ブラザーと共に、聖餐式を執り行ってくださいます。

http://www.taize.fr/ja_article1662.html

ゆるしてくれるから

2006年11月22日 10時35分49秒 | J.C.
私がどうしてキリストを信じているのかというと


罪を赦す権威を持っているのはキリストだけだから



お正月神社の前で、でっかいプラカードを持って、でっかい音で

罪とか
悔い改めろ

とか言っている人がいる

たしかに聖書にそう書いてある
でも、これでは聖書の本当のメッセージが伝わっていない

キリストに赦す権威があるから
自分のしくじったことや、しょうもないところを
ぶっちゃけ神の前に出て話して生きていけ
と聖書は言っている。

神は私達一人一人をまじで愛している。
だからどんだけしくじったって赦したいから
神のところに出ておいで
と言っている

神は痛み、悲しみ、私をあわれみ、慈しむ

その呼びかけに素朴に応答すればいいということ。

「医者を必要とするのは病人です。
私は罪びとを招くためにきたのです。」
とキリストは言っている

罪びとは人からのけものにされて
だれからも無視され、付き合ってもらえない
おもいっきり苦い水を飲む

キリストはそんな私を決して捨てないで
私の身代わりになって、神から受ける罰を受けてくれた
そして私は赦された

人間からのけものにされたくらいで
罪が消えるはずがない

時効が来たって根性曲がっていれば同じことを繰り返すだけ

でも、キリストから学ぶ人生を歩み続けるなら
私は神の力によって変えられる

愛する者へと

愛とは神の愛
本当の愛を行うものになると

聖書で神は約束してくれている

だから私はそれに人生を賭けたい

赦すことが魂を守ること

2006年11月04日 00時29分58秒 | J.C.
久しぶりにカズP氏のブログを開いたら
以前の記事を載せていただいていた。
私もこの記事には衝撃でした。
そしてこれこそが日本で普通に生きている私にも生涯の課題となっていることだということです。

聖書でいう「赦す(ゆるす)」とは、
相手が悪くないからではなく
相手が悪いから赦すということなんです。

赦免という字の赦す。

それはキリストがまずわたしの罪の身代わりに罰を受け、
私が当然受けるべき神の怒りと報いを追ってくれた
そして私を赦してくれた
そして神との関係を回復してくださった

だから
私も人を赦すという神の願いに基づいています。

相手が悪くなかったら「赦す」という行為は不要です
相手が悪いから赦すということ
それは神の願いであり、命令だから
その理由は私の魂が赦せない思いの泥沼に埋もれていてほしくないという
神の父親心から来るものです。

「復讐してはならない。復讐はわたし(神)のすることだ。」
と神は言っています。(ローマ人への手紙12章19節)

人間がそんなことしていたら心がぼろぼろになるからです。
自分の欲求は満たされるかもしれないと思いますよね。
ところが絶対に晴れやしません。たとえ復讐できたとしてもです。

その思いに翻弄され、ずたずたにされるからです。
みじめな自分だけが残ります。
ええ、私体験しましたから。

神の願いは、私たちが心に平安と喜びと希望をもって生きて欲しいということです。

私が教会に行き始めたきっかけは、
赦せない自分に苦しみぬいて泥沼にはまっていたからなんです
これが一番の理由です。

一回目の離婚の時
ゆるせない思いで1ヶ月はらわたが煮えくり返り続けました。
前夫に好きな人ができたから離婚させられたからです。
みじめさと不安のどん底に突き落とされた恨みです。

赦せない思いに自分の心を放してしまうと
それは尽きないで心を蝕んできました
本当に辛くて
死にたい思いでした。

それまで見てみぬ振り
なかったかのよう過ごせていましたが
とうとうその押し寄せる感情に直面させられる状況になりました。

このまま憎しみや恨みの中で一生を惨めにすごすのが嫌だと思いました。

教会には、キリストには本物の愛があると子どもの頃から
幼稚園で、中学で、高校で語られた記憶がありました。

自分の憎しみに打ち勝ちたい
憎しみを選ぶことしかできないこの弱さを助けてもらいたいと思って
教会に行きました。

今私の心に赦せない思いはありません。
私の行っているプロテスタントの教会では、ありがたいことに愛することを学ぶことができ、愛することは憎む、恨む、赦さない心に打ち勝つことを体験しました。

ナチスドイツの収容所にいたオランダ人の姉妹がいました
彼女達は執拗に虐待する看守を愛することができました。
そのことも私にとって衝撃でした。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4264021995/sr=11-1/qid=1162567645/ref=sr_11_1/503-6489599-0580745
(何という愛 著者コーリー・テン・ブーム)

そしてそのような強い神の愛が欲しいと思いました。

だから今教会へ行っています。

いつかは朽ちる身体
この世からは消えてなくなる私

自分の身の回りをお金や環境や思いつく限り整えようと躍起になるより
違う生き方があるんじゃないかと気づき始めた気がします

例えば愛すること
赦すこと

私が最後に死ぬ時まで
たとえベットで寝たきりになっても
この課題は続きます

人を赦し続けて生きること
それだけでなく積極的に愛することにエネルギーを注いでいくこと
愛は忍耐し
愛は親切する
と聖書にあります。(コリント人への第Ⅰの手紙13:8-)

相手の状態に関わりなく

最後までキリストに追い求め続けること

これが神が私たち人間に与えた1番大切な命令なんです
第一の戒めは 神を愛すること
第二の戒めは 自分を愛するように人を愛すること

この答えが神にあり、聖書の中にあり、それを求めていこうとしているのが
教会なんです。

今私には喜びがあります。
「これで、いいんだ」と心の奥底に暖かいものがそう言っています

2度も離婚を経験し、さまざまな失敗を繰り返した
一般的には「負け組」と言われるであろう私の心に
神が与えてくれたものは「平安」」でした

それは私にそのような気質や能力や根性があったからではなく
ただ、教会に行き
聖書を学び
祈り
聖餐式に出て
同じキリストを信じる仲間と関わる

ただそれだけを数年間繰り返しただけなんです
坦々と

私ができることはそれだけです
あとは生きて働く神が私の内側を外側を変え続けてくれるんです

そう、
聖書に書いてあります

そして、
実際そのように私の身に起きています

嘘じゃありません

神に感謝します
キリストの十字架を感謝します

苦しみにとらわれている人がいたら
どうかそこから解放されますように

Marijun with prayer in Jesus Christ

わたしの目にはあなたは高価で尊い
わたしはあなたを愛している
(旧約聖書イザヤ書43:4)