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管理人 まりあっち

  水俣秘密工場     

2006-03-12 18:16:09 | Weblog
    世界の環境ホットニュース[GEN] 566号 05年03月12日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第2回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第2回 水俣病事件の概略

風化が懸念される事件ですから、今回はその概略を述べ、今シリーズの理解の一
助にしたいと思います。

日本の化学工業界が石油を原料にするようになったのは高度成長期の1960年代以
降で、それまでは原料に石炭から作られるアセチレンを利用していました。アセ
チレンとは昔懐かしい夜店の灯りに使われていたガスです。アセチレンからアセ
トアルデヒド、酢酸、塩化ビニルなどの様々な有機化合物が作られていました。
水銀触媒を加えた稀硫酸にアセチレンガスを吹き込むとアセトアルデヒドができ
ます。その工程で水銀が有機化、その廃水を海に垂れ流し、近海の魚が水銀で汚
染され、その魚を食べることによって水俣病が発生しました。

チッソの水俣工場では 1946(昭和21)年2月にアセトアルデヒド工場が再開され
ました。アセトアルデヒドからオクタノールの生産開始(1952年)、さらに翌年
オクタノールからDOP(塩化ビニル添加剤)の生産開始と続き、オクタノール
は三菱化成が別法で生産を始めるまで10年にわたってチッソが市場を独占しまし
た。オクタノールから作られるDOPが需要急増の塩化ビニルに使われ、このた
め水俣病被害が拡大しても工場を止められなかった、というのがこれまでの通説
になっています。

1951年に製造プロセスを変更すると、まもなく水俣湾に異変が起こり始め、1952
年には水俣湾の魚が大量に白い腹をみせて浮き、猫が狂い死する例が多数見られ
るようになりました。被害はついに人間にも及び、1953年に30人ほどの「劇症型
水俣病」患者を発生させたのです。しかし、このときは市内の病院でほとんどの
患者が診察を受けていたにもかかわらず、共通の奇病であることに誰も気付かな
かったのです。

1956(昭和31)年4月下旬に チッソ付属病院に幼い姉妹が原因不明の特異な神経
症状であいついで入院。小児科の医師が以前にも大人で類似の患者を診たことを
思い出し、伝染病かもしれないと考えて保健所に届け出ました。この日、5月1日
が水俣病の「公式発見」とされています。この日から今年が50年目にあたるので
す。

この時点で既にチッソの工場廃水が原因であることは誰もがわかっていました。
しかし、厚生省が水俣工場を名指しで汚染原因と断定し、熊本大学が「有機水銀
説」を公表しても通産省は操業停止に反対しました。その一方で原因の曖昧化に
奔走、熊本県も漁業被害には一切応じないとの姿勢を貫きます。チッソも責任を
認めなかったため、漁民は困窮のどん底に喘ぐことになりました。

「有機水銀説」が出されると、東京の学識者による反論が続きました。日本工業
協会大島竹治理事の「爆薬説」、東京工大・清浦雷作教授の「有機アミン説」、
東邦大・戸木田菊次教授の、腐った魚が原因とする「腐敗アミン説」などで、い
ずれも根拠がなくすぐに否定されましたが世間を混乱させる効果を果たしました

チッソはサイクレータと呼んだ廃水浄化装置を設置して以後10年にわたって汚染
防止対策が万全であることを宣伝しましたが、実は試運転で水銀除去の効果が十
分でなかったことが判明、工場排水はサイクレータを通過させずに世間を欺き通
しました。

厚生省水俣食中毒部会、熊本大学研究班は工場廃水に言及できないまま立て続け
に解散させられ、さらに漁民の工場乱入・打ち壊し事件の後、わずかな年金支給
という形でチッソと被害者互助会が合意、1959年末をもって水俣病事件は終わっ
たこととされ、1960年よりチッソはアセトアルデヒドの大増産に乗り出したので
す。

チッソは加害責任を認めなかったため、被害者は地域に君臨する会社への反逆者
とみなされ、差別・迫害を受けました。被害者は水俣病であることを隠すように
なりました。水俣を離れる人もでました。(関西など熊本以外でも裁判があるの
はこのためです。)熊本県も 水俣市も 早く終わらせたいとの姿勢でしたので、
「患者が発生してはならない」という点でチッソと利害が一致、その中で「認定
制度」が発足したのです。認定制度は差別・迫害のため名乗り出られない患者に
対しても本人申請を建前とし、患者がいないことにしたい行政(もともと加害者
でもある)が認定する権利をもつなど「潜在患者」を多く作り出してしまう恐れ
のある制度でした。

終わったことになっていた水俣病が1965年に新潟で発生、1973年には九州の有明
海で第三水俣病、山口で第四水俣病 発生かと報道されました。1967年6月に新潟
水俣病被害者が昭和電工を提訴、水俣との交流が始まったことで、水俣の被害者
が再び立ち上がることになりました。

チッソ水俣工場は 1968年に アセトアルデヒドの生産を中止、工場停止を受けて
やっと政府は熊本・新潟「水俣病」に政府公式見解を発表、「水俣病は公害」と
認めました。水俣病第一次訴訟では、1973年 3月20日、熊本地方裁判所は、チッ
ソの過失責任を明快に認め、患者側全面勝訴の判決を言い渡したのです。同時に
認定を棄却された被害者が厚生省に行政不服審査を求め、放置された被害者の救
済活動も始まりました。しかし、被害者の喜びも束の間、認定条件が改悪され、
逆に患者の切捨てが進みました。そのため、被害者は司法に救済を求め、熊本第
二次、第三次、待たせ賃訴訟、関西訴訟と行政側敗訴の判決が続きますが、行政
側が控訴して司法による救済も進みませんでした。

一向に解決を見ない水俣病事件に対し、社会党政権である村山内閣のとき政治決
着が図られました。1995年、村山富一首相は「水俣病問題の解決に当たっての談
話」を発表しましたが、水俣病の発生も、被害の拡大も、救済の遅れも行政の責
任を認めず、自然発生的にそうなったかのように語る談話は他人事で最終解決に
はなりませんでした。このため、新たな認定、新たな救済を求めて次々に提訴が
続いているのです。

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