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世界の環境ホットニュース[GEN] 567号 05年03月15日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第3回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第3回 人が死んでも「工業立国」
仮説は「なぜ、被害拡大を防げなかったのか?」という疑問に対する私なりの解
答です。1956年の「公式発見」のときには原因物質は未解明でしたが、既にチッ
ソ水俣工場の廃水が原因であることは誰もが気付いていたのです。その後もチッ
ソ付属病院の医師が工場廃水をまぜたエサを猫に与え、発症が確認された1958年
には工場廃水が原因であることが「科学的に」証明されたわけですし、遅くとも
熊本大学研究班が有機水銀説をだした1959年には工場に操業をやめさせ、排水を
とめることはできたはずなのです。「防げなかったのではなく、故意に防がなか
ったのだ。」とはよく言われてきたことです。事件発生からの数年間、特に1959
(昭和34)年の通産省、熊本県、チッソの動きを見ていけば、通産省が主導して
チッソの操業停止だけは何がなんでも阻止しようとしていたことが明白です。
熊本大学から有機水銀説が出された直後(1959年8月)に 化学工業を所管する軽
工業局長に就任した秋山武夫は、厚生省の国会における水俣工場名指し発言にも
、
被害の拡大にも、そして核心となる有機水銀説が出されても、結果としてアセト
アルデヒド製造を支障なく続けさせながら、水俣病を闇に葬ることに成功してい
ます。まるでそのような任務を背負って局長に就任したかのように。その彼が後
にチッソ水俣病関西訴訟で証人尋問(1986年11月17日)にたち、次のように語っ
ています。
原告側弁護士「かつて浦安の漁民がパルプ廃液の被害を訴えたとき、本州製紙
江戸川工場は操業を停止した。水俣では人が死んでいるのに、なぜ操業停止を
命じなかったのか?」
秋山「チッソが占める重要度の比率が違う。経済価値なり周囲に与える影響な
りを考えると、紙もアセトアルデヒドも同じだという結論にはならないはずだ
」
通産省の局長が、アセトアルデヒドの重要度は水俣の人命以上だ、と認識してい
たということです。人命以上のアセトアルデヒドがたかが塩化ビニルの添加剤の
原料だったという点には違和感をもたざるをえません。
同じく通産省工業用水課長・藤岡大信は「当時の産業政策からして、排水対策な
ど講じないことも使命だった」という主旨の証言をしています。(同関西訴訟一
審)
水産庁漁業振興課長井上和夫は、各省庁奇病対策会議で「とにかく排水を止めて
被害を防ぐべきだ、原因はゆっくり調べればよい」と主張すると「工業立国だよ
」
と言われた(熊本三次訴訟証言)。
さらに,当時経済企画庁水質調査課長補佐だった汲田卓蔵は「廃水が原因だと解
っていても止めるわけに行かなかった、確信犯だといわれても謝るしかない」と
告白している(NHKスペシャル・戦後五十年「チッソ水俣工場技術者の証言」
1995年7月1日放送)。と、工場の操業停止を阻止した理由として、工業立国とい
う国是、高度経済成長をあげています。
それに対して元NHKアナウンサーの宮澤信雄は「なぜチッソを守らなければな
らなかったのか。それが、高度成長政策を軌道にのせることにつながったのか。
それは直接には、水俣工場でのアセトアルデヒド生産を守るためだった。さらに
は、アセトアルデヒドを原料とするオクタノールを増産させるためだった。そう
、
せんじつめればたかがアセトアルデヒドのためだったのだ。」と吐き捨てていま
す。(宮澤信雄「水俣病事件四十年」葦書房1991)
そうなのです。たかがアセトアルデヒドのために払った犠牲の何と大きいことで
しょう。それにアセトアルデヒドは、チッソ水俣工場が最も生産量が多かったと
いっても、水俣工場でしか作れないという代物ではありませんでした。7社8工場
が稼動していたのですから対策を講じるまでの間、他社から調達するという手立
てもあったでしょう。オクタノールを輸入するという手段だってあったはずです
。
当時は外貨が不足していたので輸入をできるだけ避けたかったという言い訳もあ
りましたが、チッソが水俣病を放置してオクタノールの大増産を行なった1960年
に通産省は外貨の浪費を平気でやっています。三井鉱山(福岡県)の労働争議の
際に、十分な国内炭生産力がありながら通産省が外国炭を輸入して企業にあてが
うという、国が一企業を利する政策を行なって、通産大臣池田勇人は「一貫性が
ない。」と国会で非難されています(1960.3.21 参院予算委員会)ので、説得力
のある根拠とはなりえません。
百歩譲って、人命以上に重要だと通産官僚に言わしめたチッソ水俣工場のオクタ
ノールは輸入品に置き換えるわけにはいかないほどのすばらしい品質を誇ってい
たのかもしれません。次回はその品質を探ってみます。
世界の環境ホットニュース[GEN] 567号 05年03月15日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第3回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第3回 人が死んでも「工業立国」
仮説は「なぜ、被害拡大を防げなかったのか?」という疑問に対する私なりの解
答です。1956年の「公式発見」のときには原因物質は未解明でしたが、既にチッ
ソ水俣工場の廃水が原因であることは誰もが気付いていたのです。その後もチッ
ソ付属病院の医師が工場廃水をまぜたエサを猫に与え、発症が確認された1958年
には工場廃水が原因であることが「科学的に」証明されたわけですし、遅くとも
熊本大学研究班が有機水銀説をだした1959年には工場に操業をやめさせ、排水を
とめることはできたはずなのです。「防げなかったのではなく、故意に防がなか
ったのだ。」とはよく言われてきたことです。事件発生からの数年間、特に1959
(昭和34)年の通産省、熊本県、チッソの動きを見ていけば、通産省が主導して
チッソの操業停止だけは何がなんでも阻止しようとしていたことが明白です。
熊本大学から有機水銀説が出された直後(1959年8月)に 化学工業を所管する軽
工業局長に就任した秋山武夫は、厚生省の国会における水俣工場名指し発言にも
、
被害の拡大にも、そして核心となる有機水銀説が出されても、結果としてアセト
アルデヒド製造を支障なく続けさせながら、水俣病を闇に葬ることに成功してい
ます。まるでそのような任務を背負って局長に就任したかのように。その彼が後
にチッソ水俣病関西訴訟で証人尋問(1986年11月17日)にたち、次のように語っ
ています。
原告側弁護士「かつて浦安の漁民がパルプ廃液の被害を訴えたとき、本州製紙
江戸川工場は操業を停止した。水俣では人が死んでいるのに、なぜ操業停止を
命じなかったのか?」
秋山「チッソが占める重要度の比率が違う。経済価値なり周囲に与える影響な
りを考えると、紙もアセトアルデヒドも同じだという結論にはならないはずだ
」
通産省の局長が、アセトアルデヒドの重要度は水俣の人命以上だ、と認識してい
たということです。人命以上のアセトアルデヒドがたかが塩化ビニルの添加剤の
原料だったという点には違和感をもたざるをえません。
同じく通産省工業用水課長・藤岡大信は「当時の産業政策からして、排水対策な
ど講じないことも使命だった」という主旨の証言をしています。(同関西訴訟一
審)
水産庁漁業振興課長井上和夫は、各省庁奇病対策会議で「とにかく排水を止めて
被害を防ぐべきだ、原因はゆっくり調べればよい」と主張すると「工業立国だよ
」
と言われた(熊本三次訴訟証言)。
さらに,当時経済企画庁水質調査課長補佐だった汲田卓蔵は「廃水が原因だと解
っていても止めるわけに行かなかった、確信犯だといわれても謝るしかない」と
告白している(NHKスペシャル・戦後五十年「チッソ水俣工場技術者の証言」
1995年7月1日放送)。と、工場の操業停止を阻止した理由として、工業立国とい
う国是、高度経済成長をあげています。
それに対して元NHKアナウンサーの宮澤信雄は「なぜチッソを守らなければな
らなかったのか。それが、高度成長政策を軌道にのせることにつながったのか。
それは直接には、水俣工場でのアセトアルデヒド生産を守るためだった。さらに
は、アセトアルデヒドを原料とするオクタノールを増産させるためだった。そう
、
せんじつめればたかがアセトアルデヒドのためだったのだ。」と吐き捨てていま
す。(宮澤信雄「水俣病事件四十年」葦書房1991)
そうなのです。たかがアセトアルデヒドのために払った犠牲の何と大きいことで
しょう。それにアセトアルデヒドは、チッソ水俣工場が最も生産量が多かったと
いっても、水俣工場でしか作れないという代物ではありませんでした。7社8工場
が稼動していたのですから対策を講じるまでの間、他社から調達するという手立
てもあったでしょう。オクタノールを輸入するという手段だってあったはずです
。
当時は外貨が不足していたので輸入をできるだけ避けたかったという言い訳もあ
りましたが、チッソが水俣病を放置してオクタノールの大増産を行なった1960年
に通産省は外貨の浪費を平気でやっています。三井鉱山(福岡県)の労働争議の
際に、十分な国内炭生産力がありながら通産省が外国炭を輸入して企業にあてが
うという、国が一企業を利する政策を行なって、通産大臣池田勇人は「一貫性が
ない。」と国会で非難されています(1960.3.21 参院予算委員会)ので、説得力
のある根拠とはなりえません。
百歩譲って、人命以上に重要だと通産官僚に言わしめたチッソ水俣工場のオクタ
ノールは輸入品に置き換えるわけにはいかないほどのすばらしい品質を誇ってい
たのかもしれません。次回はその品質を探ってみます。