私たちの環境

今地球の環境がどうなっているかを
学んでいきます。

管理人 まりあっち

水俣秘密工場     第4回                  

2006-03-18 06:31:14 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 568号 05年03月17日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第4回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第4回 オクタノールの品質
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 568号 05年03月17日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第4回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第4回 オクタノールの品質

水俣工場でのオクタノール生産開始は 1952(昭和27)年9月、塩化ビニルの添加
剤(可塑剤)であるDOPは1953年に生産を開始しています。可塑剤の主要メー
カーである三菱モンサントはその社史の中でこの頃の事情を次のように記してい
ます。(三菱モンサント化成三十年史)

「1949(昭和24)年頃までの可塑剤は戦前に生産されていたものと同一の製品で

戦後急速に拡大した塩化ビニル加工に使用するためには質・量ともに極めて不十
分だった。当初使用されたDMP、DEPは揮発性が高くすぐ硬化して使い物に
ならないという欠点があったし、DBPは比較的品質はよかったが、電線用には
適さず、可塑剤メーカーの間で共同研究の動きが始まった。
 協和発酵は発酵法からオクタノールを生産、1950年にDOP月産30トンの製造
開始、三建化工もチッソからオクタノールの提供を受けDOPの生産を開始した

しかし、この時点では原料の品質にも問題があったことと供給量も不足していた
ため、可塑剤を輸入に依存する状態は解消されなかった。」

この当時、協和発酵の生産量は微々たるもので、国内産はほぼチッソが独占して
いました。水俣病事件の通説では「当時は輸入を極力抑えて国内生産でまかなう
ことが至上命題だった」中、供給不足の状態だったためにチッソの操業停止は考
えられなかったと言われていますが、塩化ビニル業界でトップクラスの三菱モン
サントが可塑剤の輸入を続けていたという事実は先の通産官僚の証言と食い違う
事態です。しかも、量の問題だけでなく、チッソのオクタノールには品質にも問
題があって使えなかったというのでは、水俣病を無視してチッソに操業を続けさ
せた通産省の政策は一体何なのだということになります。ひょっとして、三菱モ
ンサントの技術が低くて、チッソに限らずオクタノールから可塑剤を作る能力が
なかったという可能性もあります。これについても、「三十年史」はきっぱり否
定しています。

「三菱モンサントでは 1952年11月 可塑剤工場が完成(チッソ水俣工場よりも早
い!)、直ちにモンサント派遣技術者の指導に基づく試運転を実施、DOPとB
BP(ブチルベンジルフタレート)2品目の試験生産に 良好な成果を収めた。」
輸入品のオクタノールを使えばなんら問題がなかったのです。

「DOP原料のうちオクタノールは品質の良い国産品の安定受給が望めなかった
ため、全量を輸入することになった。しかし、輸入も困難を極めたため生産当初
から品質、歩留まりとも良好であったにもかかわらず、原料面の制約を受けざる
をえなかった。」

チッソのオクタノールには品質に問題があって、三菱モンサントではオクタノー
ルを全量輸入していたというのです。一体これはどうしたことでしょうか? 何
のためにチッソはオクタノールを作り続けたというのでしょう? しかも、この
ような事態は三菱モンサントに限りませんでした。業界最大手の日本ゼオンの社
史「ゼオン五十年のあゆみ」には次の記述があります。

「可塑剤については 1951年6月から研究班を組織し、古河電工理化学研究所の一
隅を借りて研究を開始し翌年11月にはすべての基礎研究を完了したが、既に数社
が生産を始め、輸入品も出回って原料をもたない当社(日本ゼオン)の立場は苦
しくなった。・・(中略)・・(可塑剤設備建設)の計画は中止した。」

日本ゼオンが基礎研究を終えた時点では、チッソがオクタノールの生産を開始し
ていて、三菱モンサントでは 可塑剤工場が 完成という状況でした。「数社が生
産」とはチッソとチッソから原料供給を受けた三建化工のことと思われ、「輸入
品」とは三菱モンサントが輸入オクタノールで可塑剤DOPを生産開始したこと
を指していると思われます。チッソと三建化工のDOPは使い物にならないと三
菱モンサントは評価していたのですから、日本ゼオンが可塑剤工場建設を見送っ
た最大の理由は、「期待していたチッソのオクタノールの品質が悪くて採用でき
なかった」ことにあったと考えられます。

チッソのオクタノールを採用しなかった両社の塩化ビニル製品の評価はどうだっ
たのでしょうか? 日本プラスチック工業史(小山寿著 工業調査会1967)に次
の一節があります。

渋谷駅前の夕暮れ時のことである。ハチ公前に現れた闇屋風の若いものがビニル
レインコートを3つ4つぶらさげてこんなことを叫んでいた。「サアサア、よく
見てごらん。そんじょそこらで売っているレインコートとはレインコートが違う

こちらがモンサントで、こちらがゼオンだ。ちゃぁんとマークがホレこの通り入
っている。夏になると水飴みたいにのびちゃったり、冬は焼海苔みたいにパリパ
リ破れちゃったりする代物じゃない。」

やはり、チッソのオクタノールは「可塑剤原料としては」問題があったと考えざ
るをえません。しかし、米国グッドリッチ・ケミカル社は当初チッソのオクタノ
ールに大きな期待を寄せていたのです。日本ゼオンは古河電工と米国グッドリッ
チ・ケミカル社との合弁会社ですが、日本側の提携要請に対するグッドリッチの
回答書(1949年11月29日付)の中に次の一文があります。

「日本において、ノルマルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタ
ル酸を原料にできるはずであるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提
供する。」

ここで、「2-エチルヘキサノール」というのが、アセトアルデヒド経由のチッソ
製オクタノールのことで、「ノルマルオクタノール」は生産量が少なかったこと
から今シリーズでは「2-エチルヘキサノール」のことを「オクタノール」と表記
します。 [編集者注:「2-エチルヘキサノール」と「ノルマルオクタノール」は
原子の種類と数が同じで、構造だけが違う異性体。ここでは名前がややこしくな
るのを避けるため前者を「オクタノール」と呼ぶ。]

チッソのオクタノール生産開始は 1952年9月です。それを米国の一企業がなぜ3
年も前に「原料にできるはず」と予言ができたのでしょうか? オクタノール生
産は日米両政府の合意の下で遂行された「国策」だった、それを支援するために
グッドリッチ社の日本進出が画策されたのではないかという推論が成り立ちます

しかも、可塑剤としては不適格で米国系外資メーカーが採用しなかったにも関わ
らず、通産省がチッソの操業を続けさせた経緯を併せ考えると、チッソのオクタ
ノールには「可塑剤以外の国策に関わる用途」があったと考えられます。


水俣工場でのオクタノール生産開始は 1952(昭和27)年9月、塩化ビニルの添加
剤(可塑剤)であるDOPは1953年に生産を開始しています。可塑剤の主要メー
カーである三菱モンサントはその社史の中でこの頃の事情を次のように記してい
ます。(三菱モンサント化成三十年史)

「1949(昭和24)年頃までの可塑剤は戦前に生産されていたものと同一の製品で

戦後急速に拡大した塩化ビニル加工に使用するためには質・量ともに極めて不十
分だった。当初使用されたDMP、DEPは揮発性が高くすぐ硬化して使い物に
ならないという欠点があったし、DBPは比較的品質はよかったが、電線用には
適さず、可塑剤メーカーの間で共同研究の動きが始まった。
 協和発酵は発酵法からオクタノールを生産、1950年にDOP月産30トンの製造
開始、三建化工もチッソからオクタノールの提供を受けDOPの生産を開始した

しかし、この時点では原料の品質にも問題があったことと供給量も不足していた
ため、可塑剤を輸入に依存する状態は解消されなかった。」

この当時、協和発酵の生産量は微々たるもので、国内産はほぼチッソが独占して
いました。水俣病事件の通説では「当時は輸入を極力抑えて国内生産でまかなう
ことが至上命題だった」中、供給不足の状態だったためにチッソの操業停止は考
えられなかったと言われていますが、塩化ビニル業界でトップクラスの三菱モン
サントが可塑剤の輸入を続けていたという事実は先の通産官僚の証言と食い違う
事態です。しかも、量の問題だけでなく、チッソのオクタノールには品質にも問
題があって使えなかったというのでは、水俣病を無視してチッソに操業を続けさ
せた通産省の政策は一体何なのだということになります。ひょっとして、三菱モ
ンサントの技術が低くて、チッソに限らずオクタノールから可塑剤を作る能力が
なかったという可能性もあります。これについても、「三十年史」はきっぱり否
定しています。

「三菱モンサントでは 1952年11月 可塑剤工場が完成(チッソ水俣工場よりも早
い!)、直ちにモンサント派遣技術者の指導に基づく試運転を実施、DOPとB
BP(ブチルベンジルフタレート)2品目の試験生産に 良好な成果を収めた。」
輸入品のオクタノールを使えばなんら問題がなかったのです。

「DOP原料のうちオクタノールは品質の良い国産品の安定受給が望めなかった
ため、全量を輸入することになった。しかし、輸入も困難を極めたため生産当初
から品質、歩留まりとも良好であったにもかかわらず、原料面の制約を受けざる
をえなかった。」

チッソのオクタノールには品質に問題があって、三菱モンサントではオクタノー
ルを全量輸入していたというのです。一体これはどうしたことでしょうか? 何
のためにチッソはオクタノールを作り続けたというのでしょう? しかも、この
ような事態は三菱モンサントに限りませんでした。業界最大手の日本ゼオンの社
史「ゼオン五十年のあゆみ」には次の記述があります。

「可塑剤については 1951年6月から研究班を組織し、古河電工理化学研究所の一
隅を借りて研究を開始し翌年11月にはすべての基礎研究を完了したが、既に数社
が生産を始め、輸入品も出回って原料をもたない当社(日本ゼオン)の立場は苦
しくなった。・・(中略)・・(可塑剤設備建設)の計画は中止した。」

日本ゼオンが基礎研究を終えた時点では、チッソがオクタノールの生産を開始し
ていて、三菱モンサントでは 可塑剤工場が 完成という状況でした。「数社が生
産」とはチッソとチッソから原料供給を受けた三建化工のことと思われ、「輸入
品」とは三菱モンサントが輸入オクタノールで可塑剤DOPを生産開始したこと
を指していると思われます。チッソと三建化工のDOPは使い物にならないと三
菱モンサントは評価していたのですから、日本ゼオンが可塑剤工場建設を見送っ
た最大の理由は、「期待していたチッソのオクタノールの品質が悪くて採用でき
なかった」ことにあったと考えられます。

チッソのオクタノールを採用しなかった両社の塩化ビニル製品の評価はどうだっ
たのでしょうか? 日本プラスチック工業史(小山寿著 工業調査会1967)に次
の一節があります。

渋谷駅前の夕暮れ時のことである。ハチ公前に現れた闇屋風の若いものがビニル
レインコートを3つ4つぶらさげてこんなことを叫んでいた。「サアサア、よく
見てごらん。そんじょそこらで売っているレインコートとはレインコートが違う

こちらがモンサントで、こちらがゼオンだ。ちゃぁんとマークがホレこの通り入
っている。夏になると水飴みたいにのびちゃったり、冬は焼海苔みたいにパリパ
リ破れちゃったりする代物じゃない。」

やはり、チッソのオクタノールは「可塑剤原料としては」問題があったと考えざ
るをえません。しかし、米国グッドリッチ・ケミカル社は当初チッソのオクタノ
ールに大きな期待を寄せていたのです。日本ゼオンは古河電工と米国グッドリッ
チ・ケミカル社との合弁会社ですが、日本側の提携要請に対するグッドリッチの
回答書(1949年11月29日付)の中に次の一文があります。

「日本において、ノルマルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタ
ル酸を原料にできるはずであるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提
供する。」

ここで、「2-エチルヘキサノール」というのが、アセトアルデヒド経由のチッソ
製オクタノールのことで、「ノルマルオクタノール」は生産量が少なかったこと
から今シリーズでは「2-エチルヘキサノール」のことを「オクタノール」と表記
します。 [編集者注:「2-エチルヘキサノール」と「ノルマルオクタノール」は
原子の種類と数が同じで、構造だけが違う異性体。ここでは名前がややこしくな
るのを避けるため前者を「オクタノール」と呼ぶ。]

チッソのオクタノール生産開始は 1952年9月です。それを米国の一企業がなぜ3
年も前に「原料にできるはず」と予言ができたのでしょうか? オクタノール生
産は日米両政府の合意の下で遂行された「国策」だった、それを支援するために
グッドリッチ社の日本進出が画策されたのではないかという推論が成り立ちます

しかも、可塑剤としては不適格で米国系外資メーカーが採用しなかったにも関わ
らず、通産省がチッソの操業を続けさせた経緯を併せ考えると、チッソのオクタ
ノールには「可塑剤以外の国策に関わる用途」があったと考えられます。