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管理人 まりあっち

水俣秘密工場  第7回 ひまし油の行方

2006-03-25 09:31:18 | Weblog
    世界の環境ホットニュース[GEN] 571号 05年03月24日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第7回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第7回 ひまし油の行方

 チッソ水俣工場のオクタノールは米軍のジェット燃料用潤滑油原料に使われて
 いた。

これが私のたどりついた仮説です。チッソ水俣工場で作られたオクタノールのう
ち、チッソ自身が可塑剤DOP原料として自家消費していたオクタノールは約3
割で、残りは外販されていました。外販先に三建化工、三菱モンサントがあった
ことがわかっています(三菱モンサント化成三十年史)が、それで全てかどうか
は不明です。

さて、ひまし油の主成分はリシノール酸で、これをアルカリ熱分解することで二
塩基性酸であるセバシン酸と高級アルコールであるオクタノール各1分子が得ら
れます。二階堂がいうジェット戦闘機用潤滑油とはセバシン酸にオクタノール2
分子を化合(エステル化)させた物質だと思われます。

リシノール酸    CH3(CH2)5CHCH2CH=CH(CH2)7COOH
                  |
                  OH
                  
セバシン酸     HOCO-C8H16-COOH

オクタノール               HO-C8H17

潤滑油(DOS)  C8H17-OCO-C8H16-COO-C8H17

今回は潤滑油のもうひとつの原料であり、かつ米国が買い占めて入手困難だった
というひまし油が当時の日本にあったのかを検証します。

1949年運輸省不正払い下げ事件に関する国会審議でひまし油が登場します。1947
年4月、ひまし油二千七百リツトルが一万四千四百三十七円五十銭で払い下げら
れています。(1949.6.27衆院考査特別委員会)

1949年11月には 油糧配給公団をめぐる不正事件で、公団が 配給価格を調整した
り、保管料、保険料名目で中間マージンをピンハネしていたことが発覚。その資
金の使途として 学童にひまし油の集荷 奬励費という名目が上げられています。
(1949.11.11衆院考査特別委員会)

ウラ金を作っておいて、その使途が子供へのお小遣いだとはかなり苦しい言い訳
ですが、このときには、ひまし油の集荷が行なわれていたことがわかる貴重な証
言です。戦後しばらくは国有財産、配給物資をめぐる不正事件が頻発しています


1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると油脂統制令が解除になり、動植物油脂から爆
薬用グリセリンの生産が再開され、油脂の輸入が急増しますが、ひまし油は例外
だったようです。

1952年3月20日の衆院経済安定委員会では、ひまし油が逼迫してきた状況の中、
さらに輸出されようとしている状況が示されています。

 「たとえばただ天災地変とか、こうした異常の状態でなくても、何かの事情で
 相当慢性的に足りないような物資がある。先般も政府内で問題になったのです
 が、たとえばひまし油は現在需給の量から見ても必ずしも十分でない、あるい
 はアマニ油なんかもそうですが、こういう類のものは、むしろ逆に輸出すると
 いうような考え方が、搾油業者を中心として相当強く政府の内部に反映してお
 つた。御承知の通りにひまし油にしてもあるいはあまに油にしても、ほとんど
 これは外国から輸入しなければならないものだ、しかも需給推算から見て、こ
 のものはここ何箇月しかないという状態のものであります。それをあべこべに

 ことにひまし油のごときは、これを逆輸出するというようなことが、相当問題
 となつて、輿論をさわがしておるのであります。」(質問者・中崎敏)

 「たとえばひまし油のごときは足りないと言うが、もうないのです。一部の業
 者が、今にひまし油がなくなるからというので、しこたま買いだめして、売り
 惜しみしておる、今度はそれでさえも外国へ輸出して、国内に少くなつたら、
 ぱつともうけて行こう。こういうようなことではとてもこれを使つて行くとこ
 ろの生産業は脅威を受けるような結果になる。」(同上 1952.3.25 衆院経済
 安定委員会)

ところがチッソがオクタノールの工業化に成功した後の1953年になると状況に変
化が見られます。(1953.9.4参院農林委員会)ひまし油の輸入があったようです

食糧庁業務第二部油脂課長・長尾正が工業用油脂として、なたね(四千トン)、
タロー(九万六千トン)、椰子油(一万九千トン)、亜麻仁油、ひまし油といっ
た「外国産のものを入れて」と言明しています。ひまし油の輸出入統計をみれば
さらに詳しくわかることでしょう。

さらに、水俣病の原因を巡って通産省と他省庁が鋭く対立していた 1958年 9月、
小倉合成工業(福岡県北九州市)でリシノール酸の分解設備が完成していますの
で、当時米国が独占していたはずのひまし油が輸入され、国内でセバシン酸の供
給体制があったことは間違いありません。小倉合成工業は戦時中には爆薬原料の
ソルビットを生産していた海軍の管理工場でした。(小倉合成工業HPより)

この年8月には通産省が内部文書で「水俣病の原因が完全に究明されるまで対策
はとらず生産を続けさせる」ことを確認しています。(宮澤信雄「水俣病事件四
十年」葦書房1991)

通産省は朝鮮戦争勃発を機に爆薬の供給能力整備を検討、日本油脂武豊工場(愛
知県)、三菱化成穴生工場(福岡県)、三井化学 早鐘工場(福岡県)で月産500
トンのTNT火薬の生産を計画していましたが、朝鮮戦争停戦に伴い需要が激減

自衛隊発足でも需要が伸びず、爆薬事業の挫折が明らかになったのもこの時期で
した。(三井東圧化学社史)