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世界の環境ホットニュース[GEN] 599号 05年08月09日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
枯葉剤機密カルテル(第14回)
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第14回 PCP汚染工場
「除草剤PCP」が実は製造段階から「ペンタクロロフェノール」ではないこと
も発覚しています。1960 年代 前半に日本でPCPを製造していたのは三光化学
(福岡県荒木町=現・久留米市)です。同名の化学会社はかつて毒ガスを製造し
ていた神奈川県の相模原海軍工廠のスタッフと工場を利用して操業していた会社
がありますが、資本関係や人事関係のつながりはわかりません。
三光化学は福岡県久留米市郊外の国鉄(現JR)荒木駅に隣接するレンガ工場跡
地に建設されました。三井化学(後に三井東圧化学を経て現・三井化学)と地元
資本家の提携により設立、三井化学が経営及び技術指導を全面的に担当し、除草
剤PCP25%粒剤専門工場として出発しました。久留米市郊外の田園地帯と言っ
ても住宅が建て込んできたところに突然農薬工場が進出してきたのです。操業開
始から一ヶ月経つと悪臭がひどくて住民の工場移転要求の署名運動が起こるほど
でした。PCPをただ粒剤にするだけとして、毒物劇物取り締まり法に基づく登
録もしていませんでした。
1961年1月から10月にかけてパイロット運転を実施しましたが、先ず、ミツバチ、
鯉、金魚などが死に、廃水が流れ込んだ川では魚が全滅しました。
住民の苦情を無視して操業を続ける三光化学に対して、住民は次に地元選出の国
会議員を通じて厚生省に働きかけ、厚生省調査団が1962年10月にやってきました
。
このとき調査団として工場に立ち入った上田喜一(東京歯科大教授)はそのとき
の印象を報告書の中で次のように語っています。
――本工場中 最も臭気の強いのは 2階の 圧延ローラー室で、毒ガスマスクを
着用しなくては 滞在できない。入室の瞬間に 結膜に著しい刺激感があるのは
PCPが粉塵としてではなく、蒸気として(およびテトラクロロフェノール蒸
気も)室内に充満しているとの印象を受けた。これは化学定量からも裏書きさ
れた。――
調査団が行なった化学定量は、この工場で製造されていたPCPなるものが本来
のPCP(ペンタクロロフェノール)ではないことを示しています。
厚生省調査団が工場の排気設備の付着物を分析したところ、付着物は本来主成分
であるべきPCP(5塩素化フェノール)が少なく、4塩素化フェノールを主とす
る様々な塩素化フェノールの混合物であることが判明しました。奇異に感じた上
田は製品のPCPを分析したところ、製品PCPすらもテトラクロロフェノール
(4塩素化フェノール)が6割もあり、とてもPCP(ペンタクロロフェノール=
5塩素化フェノール)と呼べる 代物ではないことがわかったのです。上田はさら
に他社(保土谷化学)のPCPを取り寄せ、他社品はペンタクロロフェノールで
あることを確かめています。つまり、保土谷化学のPCPはペンタクロロフェノ
ール(5塩素化フェノール)だったけれども、三光化学への 原体提供者である三
井東圧化学のPCPはポリクロロフェノール(塩素数の異なるフェノールの混合
物)だったのです。三井東圧化学と保土谷化学に技術の差があるとは思えません
。
工場の 操業 状況 もひどいものでした。工場近くの 荒木駅の駅長の残した記録
(1962年 8月20日から10月14日までの 56日間の状況が具体的に記録されている)
が生々しく当時の状況を伝えています。たとえば、8月12日7時50分から8時30分
までの40分間駅員全員がくしゃみ、喉の痛み、流涙、頭痛を訴えています。その
他に全員がくしゃみを訴えたのが16回(延べ715分)、鼻腔を刺激する悪臭は 25回
(1,710分)、悪臭のみが17回(2,485分)、電話での抗議が16回、出かけての抗議5
回となっています。PCPは粘膜刺激性があるのでそれが飛散していたことは間
違いありません。このような具体的な記録はまさに科学的な証拠にあるにもかか
わらず後に住民が起した裁判でもこのような記録は無視されています。(「三西
化学農薬被害事件裁判資料集」葦書房)
被害は住民だけではありません。工場従業員にも被害が発生していました(同上)
。
1978年9月11日福岡地裁第19回口頭弁論に次の「原告証言」があります。
「工場はですね。もう 36年(1961 年)頃でしたか。技師の方が朝出勤して、
タクシーで運ばれる途中で死んだとか、女工さんたちは、いつも皮膚炎でたま
らないとか、袋詰めのところにおると喘息になって困るんだというようなふう
で・・・。」
「1962年2月に 4階建ての工場ができた。三瀦(みづま)保健所の 松田技師が
<工場があんなに聳えるような建て方をするなんて、あれは間違っている。住
民がこんなに苦しんで訴えるのは当然ですよ。再三に亘って自分は忠告したが
、
(三光化学は)本社命令で生産が間に合わない、それはわかっているんですけ
れども、本社命令で間に合わないと、ただ繰り返していた>。」
「本社命令で生産が間に合わない」とは何を意味しているのでしょうか? 1962
年にはPCPが水田除草剤として需要が急増していて、「生産が間に合わない」
のはわかります。しかし、漁業被害対策の柱となる肥料取締法改正案は間に合っ
ていないし、工場も不具合があるのなら 1年待つべきでしょう。農林省も漁業被
害がでても仕方ない、人が死んでも経済成長だとは水俣病事件で散々聞かされた
理屈です。しかし、水俣病事件が止められなかったホントの理由は米軍用のジェ
ット燃料添加剤を作るためではなかったか? と前回のシリーズ「水俣秘密工場」
で述べました。通産省の力技で水俣病放置が事実上決まった1959年に続く1960年
代初頭、農林省や三光化学は何を焦って「PCPもどき」の生産を急いだのでし
ょうか?
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世界の環境ホットニュース[GEN] 599号 05年08月09日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
枯葉剤機密カルテル(第14回)
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第14回 PCP汚染工場
「除草剤PCP」が実は製造段階から「ペンタクロロフェノール」ではないこと
も発覚しています。1960 年代 前半に日本でPCPを製造していたのは三光化学
(福岡県荒木町=現・久留米市)です。同名の化学会社はかつて毒ガスを製造し
ていた神奈川県の相模原海軍工廠のスタッフと工場を利用して操業していた会社
がありますが、資本関係や人事関係のつながりはわかりません。
三光化学は福岡県久留米市郊外の国鉄(現JR)荒木駅に隣接するレンガ工場跡
地に建設されました。三井化学(後に三井東圧化学を経て現・三井化学)と地元
資本家の提携により設立、三井化学が経営及び技術指導を全面的に担当し、除草
剤PCP25%粒剤専門工場として出発しました。久留米市郊外の田園地帯と言っ
ても住宅が建て込んできたところに突然農薬工場が進出してきたのです。操業開
始から一ヶ月経つと悪臭がひどくて住民の工場移転要求の署名運動が起こるほど
でした。PCPをただ粒剤にするだけとして、毒物劇物取り締まり法に基づく登
録もしていませんでした。
1961年1月から10月にかけてパイロット運転を実施しましたが、先ず、ミツバチ、
鯉、金魚などが死に、廃水が流れ込んだ川では魚が全滅しました。
住民の苦情を無視して操業を続ける三光化学に対して、住民は次に地元選出の国
会議員を通じて厚生省に働きかけ、厚生省調査団が1962年10月にやってきました
。
このとき調査団として工場に立ち入った上田喜一(東京歯科大教授)はそのとき
の印象を報告書の中で次のように語っています。
――本工場中 最も臭気の強いのは 2階の 圧延ローラー室で、毒ガスマスクを
着用しなくては 滞在できない。入室の瞬間に 結膜に著しい刺激感があるのは
PCPが粉塵としてではなく、蒸気として(およびテトラクロロフェノール蒸
気も)室内に充満しているとの印象を受けた。これは化学定量からも裏書きさ
れた。――
調査団が行なった化学定量は、この工場で製造されていたPCPなるものが本来
のPCP(ペンタクロロフェノール)ではないことを示しています。
厚生省調査団が工場の排気設備の付着物を分析したところ、付着物は本来主成分
であるべきPCP(5塩素化フェノール)が少なく、4塩素化フェノールを主とす
る様々な塩素化フェノールの混合物であることが判明しました。奇異に感じた上
田は製品のPCPを分析したところ、製品PCPすらもテトラクロロフェノール
(4塩素化フェノール)が6割もあり、とてもPCP(ペンタクロロフェノール=
5塩素化フェノール)と呼べる 代物ではないことがわかったのです。上田はさら
に他社(保土谷化学)のPCPを取り寄せ、他社品はペンタクロロフェノールで
あることを確かめています。つまり、保土谷化学のPCPはペンタクロロフェノ
ール(5塩素化フェノール)だったけれども、三光化学への 原体提供者である三
井東圧化学のPCPはポリクロロフェノール(塩素数の異なるフェノールの混合
物)だったのです。三井東圧化学と保土谷化学に技術の差があるとは思えません
。
工場の 操業 状況 もひどいものでした。工場近くの 荒木駅の駅長の残した記録
(1962年 8月20日から10月14日までの 56日間の状況が具体的に記録されている)
が生々しく当時の状況を伝えています。たとえば、8月12日7時50分から8時30分
までの40分間駅員全員がくしゃみ、喉の痛み、流涙、頭痛を訴えています。その
他に全員がくしゃみを訴えたのが16回(延べ715分)、鼻腔を刺激する悪臭は 25回
(1,710分)、悪臭のみが17回(2,485分)、電話での抗議が16回、出かけての抗議5
回となっています。PCPは粘膜刺激性があるのでそれが飛散していたことは間
違いありません。このような具体的な記録はまさに科学的な証拠にあるにもかか
わらず後に住民が起した裁判でもこのような記録は無視されています。(「三西
化学農薬被害事件裁判資料集」葦書房)
被害は住民だけではありません。工場従業員にも被害が発生していました(同上)
。
1978年9月11日福岡地裁第19回口頭弁論に次の「原告証言」があります。
「工場はですね。もう 36年(1961 年)頃でしたか。技師の方が朝出勤して、
タクシーで運ばれる途中で死んだとか、女工さんたちは、いつも皮膚炎でたま
らないとか、袋詰めのところにおると喘息になって困るんだというようなふう
で・・・。」
「1962年2月に 4階建ての工場ができた。三瀦(みづま)保健所の 松田技師が
<工場があんなに聳えるような建て方をするなんて、あれは間違っている。住
民がこんなに苦しんで訴えるのは当然ですよ。再三に亘って自分は忠告したが
、
(三光化学は)本社命令で生産が間に合わない、それはわかっているんですけ
れども、本社命令で間に合わないと、ただ繰り返していた>。」
「本社命令で生産が間に合わない」とは何を意味しているのでしょうか? 1962
年にはPCPが水田除草剤として需要が急増していて、「生産が間に合わない」
のはわかります。しかし、漁業被害対策の柱となる肥料取締法改正案は間に合っ
ていないし、工場も不具合があるのなら 1年待つべきでしょう。農林省も漁業被
害がでても仕方ない、人が死んでも経済成長だとは水俣病事件で散々聞かされた
理屈です。しかし、水俣病事件が止められなかったホントの理由は米軍用のジェ
ット燃料添加剤を作るためではなかったか? と前回のシリーズ「水俣秘密工場」
で述べました。通産省の力技で水俣病放置が事実上決まった1959年に続く1960年
代初頭、農林省や三光化学は何を焦って「PCPもどき」の生産を急いだのでし
ょうか?
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