私たちの環境

今地球の環境がどうなっているかを
学んでいきます。

管理人 まりあっち

枯葉剤機密カルテル(第11回)

2006-09-29 13:32:45 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 594号 05年07月21日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第11回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第11回 東洋一の供給基地

三井東圧化学が記者会見で明らかにした製品の輸出先には登場しませんでしたが

三井東圧化学へ原料を供給する「輸出元」もあったのではないかと疑っています

ベトナムに近いアジア圏に巨大な供給基地があると考える方がより自然でしょう

その候補は台湾苛性会社安順工場です。

台湾苛性会社 安順工場は1982年6月に閉鎖されましたが、その後、工場跡地では
高濃度の水銀とダイオキシンにより敷地土壌や地下水が汚染されていることが分
かりました。

工場近くの養魚場経営者によれば、PCP汚染により近隣の養魚場は甚大な被害
をこうむったとのことです。養魚場の底泥にはPCPの白い針状の結晶が生成し

そのために魚の上唇は内側に縮み、下唇は外側に突き出すといった奇形やヒレと
尾に徐々に穴があいた魚が多く見つかり、魚の大量死が続発しました。

養魚場の経営者たちは、PCP汚染を防ぐために養魚池とルエルメン(鹿耳門)
川に続く側溝を塩ビシートで覆い、これにより魚の成育は正常になったとのこと
です。汚染が川とその河口近くの海に広がっているのは間違いありません。

この工場跡地汚染問題は当初、水銀問題と見られて、水俣病が疑われました。苛
性工場では苛性ソーダの製造工程で大量の水銀が使われていました。新潟水俣病
の原因も苛性工場でした。しかし、国立水俣病総合研究センターも参加しての調
査の結果、水俣病が否定されると会社は「公害はなかった。」と主張して住民と
対立、社会的政治的問題に発展しています。行政も有効な対策はとっていません

その後、この工場跡地汚染問題はダイオキシンと水銀の複合汚染の疑いがもたれ
るようになりました。(水俣学通信創刊号2005.7.1)

安順工場の起源は1942年(昭和17年)、鐘紡の子会社である鐘淵曹達(かねがふ
ちソーダ)株式会社(1938年設立)が現地住民から土地を強制収用し台南市安順
(アンシュン)に工場を建設したことに始まります。この工場は、水酸化ナトリ
ウム、塩酸、及び液体塩素を製造する一方、軍の指示で航空燃料添加剤のブロム
や毒ガスを製造していました。鐘紡の前身は明治22年設立の「鐘淵紡績所」で設
立当時、世間では「三井の道楽工場」と呼ばれた(鐘紡百年史)ことからもわか
るように、鐘紡も三井系列です。

第二次世界大戦末期、米軍に爆撃されて工場は一部破壊されましたが、1946年に
台湾政府はこの工場を改修、「台湾苛性製造会社台南工場」と改称して年末に操
業を再開しました。1951年には「台湾苛性会社安順工場」と改称、従来からの水
酸化ナトリウム、塩酸、液体塩素を生産する傍ら、1964年に ペンタクロロ-ナト
リウムフェノキサイド(PCP-Na)の製造に成功、1969年には同工場はPCP-Na
の大増産に踏み切り、当時アジア太平洋地域では最大規模と称された、生産規模
1500トン/年のプラントを稼動させたのです。これ以降、台湾苛性の主要生産は
苛性ソーダと塩素からペンタクロロフェノール(PCP)にシフトしていきまし
たが、その主な輸出先は日本でした。(Huan-Chang Huang(医科技術大学準教授)
日台環境フォーラム2002 講演資料)

この工場の製品は PCP(ペンタクロロフェノール=5塩素化フェノール)であ
って、枯葉剤原料である245TCP(3 塩素化フェノール)ではありませんで
した。しかし、PCPが枯葉作戦に利用されていたのではないかと疑わせる事件
が沖縄で起きています。(世界の環境ホットニュース[GEN] 559号 05年02月03日
「沖縄の化学兵器(第12回)」で既報) 
                
事件は 1971年5月25日の朝日新聞に「沖縄南部で飲料水に枯葉剤」との刺激的な
タイトルで掲載されました。

「沖縄本島南部地区一帯で 上水や井戸水を飲んだ人たちが次々と頭痛や吐き気
 を訴え、浄水場の魚がひっくり返る騒ぎが持ち上がった。琉球政府で調べたと
 ころ、米軍の払い下げでベトナムの枯葉作戦で使われたという劇薬PCPが大
 量に混入していることがわかり、水道組合は東風平村など四カ村への給水を全
 面的にストップ、植物への水遣りも中止した。」

「原因を調べていた琉球政府 厚生局はPCPを手がけている毒劇物輸入販売業
 者・沖プライ商事が去る5月14日から一週間に亘って、浄水場から約1キロ離れ
 た具志頭村山中の旧採石場跡にPCP約2万5千ガロン(百トン)を捨てたこと
 を突き止めた。沖プライ商事は1968年11月払い下げを受け、南風原村内の社有
 地に野積みしていた。ところが容器が腐食して液が流出し始めたため、この4
 月末琉球政府は同社に対してPCPを廃棄するよう警告した。法によると劇物
 の廃棄は『少量づつ焼却する』ことになっているが、沖ブライ商事は量が多い
 ため一気に採石場跡に持ち込んで流し込んだようだ。それが地下水に混じって
 浄水場をはじめ四方の地下水源に流入したとの見方が強い。」

この記事で眼をひくのは「枯葉作戦に使用されているPCP」との記述です。朝
日新聞が245Tではなく、PCPと枯葉作戦との関連を指摘した根拠は不明で
すが、もしPCPが枯葉作戦に使われていたとすると、枯葉作戦は「枯葉剤+ナ
パーム弾(焼夷弾)」の組み合わせでしたから大量のダイオキシン発生源として
も「極めて有効」だったことでしょう。このとき米軍が払い下げたPCPは台湾
苛性会社の製品か日本製かは不明ですが、台湾苛性安順工場のPCP大増産は米
軍払い下げの翌年です。なぜ米軍は大量のPCPをこの時期に払い下げたのでし
ょうか? 枯葉作戦の中止はずっと後のことです。もし、枯葉作戦に使われてい
たならば、1968年の旧正月に行なわれたベトナム側の総反撃「テト攻勢」の影響
が考えられます。一時期サイゴンの米大使館さえ占拠される事態に南ベトナムは
大混乱に陥りました。米軍の反撃で解放勢力は一掃されましたが、この年、米軍
は枯葉剤 散布用に 改造した C123航空機を物資の輸送に転用せざるを得ず、
1968年の枯葉剤散布量は大きく落ち込んでいます。しかし、世界中に発注された
枯葉剤は大型工場もあり、そう簡単に生産調整できるものではありません。その
結果、ベトナム戦争の前線基地沖縄に処分しきれなくなった大量の「在庫」を抱
えていたのではないかと推定されます。12月26日の参院・沖縄及び北方問題に関
する特別委員会で、沖縄でのPCP不法投棄事件がとりあげられ、国会で改めて
PCPと枯葉作戦の関連を疑わせる「事件」がありました。

小平芳平(社会党)は米軍が民間企業に払い下げるにあたって、琉球政府(沖縄
は当時まだ米国施政権下にあった)が蚊帳の外に置かれていたことを確認した上
で、次のように質問しています。

「私がこの問題で一番問題だと思いますのは、安保体制下で 米軍は日本の国内
 へ何でも持ち込めるのかどうかということなんです。日本のどこへでもこうい
 うものを持ち込むことができるならば、いまずっと述べられたような重大事故
 が次から次へ発生する可能性が沖繩にも本土にも残されているということにな
 る。米軍は一体何のためにこのような大量の除草剤に使われているPCPを沖
 繩へ持ち込んだのか。」

これに対し、防衛庁長官・江崎真澄は「今後注意するが、PCPは除草剤であっ
て毒ガスなどではない。米軍は基地の草取りに使っていた。」と反論しますが、
小平から基地が縮小されたわけでもないのになぜ除草剤が余るのかと再度質問さ
れ、今度は「木材防腐剤にも使ったと聞いている。」と答え、誰から聞いたのか
と質問されると環境庁長官・大石武一が大体の見当だと答え、小平は「米軍から
何も説明受けてないじゃないか」と納得しません。

 小平「今後復帰する沖繩においても、あるいは日本本土においても、そういう
 ことが米軍の御都合ですと、国民の迷惑がひど過ぎませんか。なぜこんな大量
 の、しかも住民に被害を与えるこういう劇物毒物を持ち込んだのか、将来とも
 持ち込むのか。それも除草や防腐剤に使う、その除草や防腐剤に使う範囲なら
 ともかく、百トンも現に余っている。それほど、じゃ基地が縮小されましたか

 それを何も知らない民間に渡して、民間企業も迷惑な話だ。それを受け取った
 はいいけれども、かんが腐って流れ出す、被害が発生する、そんなことが今後
 日本の基地のどこででも行なわれる可能性があるんですか、ないんですか。核
 兵器はもちろん困るし、毒ガスも困りますが、現にPCPの場合は、沖繩で、
 もうこれから、はかり知れない被害、あとどれだけ被害が発生するか見当もつ
 かないようなことを巻き起こしているわけです。将来これ(在日米軍の持込)
 に対する沖繩県民はもとより、日本の国全体としてのあり方についてお尋ねし
 たい。」

そのときです。枯葉作戦用としてベトナムで使っておるのだよ、ベトナムで」と
の野次がとびました。これに対し、佐藤栄作首相は

「まあ先ほど不規則発言ではありますが、「枯葉用だ」とか、「枯葉作戦用だ」
 とか、こういうような声もいたしておりましたが、しかし、いずれにしても、
 米軍自身が使いこなせないものを民間に払い下げた、民間でも使用できなくて
 そういうものが焼かれ、あるいは地下に埋設されて廃棄処分を受けた、私はこ
 れはいくらアメリカが金があるといっても、そんなむだな使い方はしないだろ
 うと思います。お互いに信用してこそ初めて同盟条約というものは有効だ、不
 信を買うような行為があったらこれはもう存続の意義がなくなりますから、そ
 ういう点においては忌憚のない意見を当方からも言うが、これに対する応答も
 十分納得のいくようにしてもらわなければならないと、私はかように思います

 われわれも当然要求すべきことは要求する、また納得をすればその範囲におい
 て私どももしんぼうすべきものはしんぼういたしますけれども、しかし、いま
 のような点はどの点から考えましても理解に苦しむものでございます。」

と答え米軍が払い下げたPCPが何に使う予定のものだったかは判明しませんで
したが、枯葉作戦に使われたとの疑惑も否定していません。

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枯葉剤機密カルテル(第10回

2006-09-29 13:31:29 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 593号 05年07月11日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第10回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第10回 ハンガリーの農産物汚染

東欧で米軍向けに245Tを生産していたとの情報が得られたのはチェコのソポ
ラナ社だけでしたが、同社は245Tの他にも、同類の様々な有機塩素系農薬を
生産していました。1960年代に、その農薬被害ではないかと思われる汚染事件が
チェコの隣国ハンガリーで起きています。

ソポラナ社の245Tが「枯葉剤」用途ならば、生産量も莫大であったでしょう
から、それに比例して発生する大量の副生物をどう処分するかという問題にソポ
ラナ社は直面せざるをえません。同社の様々な有機塩素系農薬の生産はその対策
ではなかったかと思われます。なぜなら、有機塩素系農薬の多くは245Tの副
産物を原料にすることができるからです。

英国のコアライト社が「東欧の大型除草剤工場プロジェクト」に参画していたの
ですから、副産物 処分にも「技術 指導」があったことでしょう。ソポラナ社は
245Tの副産物を各種有機塩素系農薬に加工して、ハンガリーなどの同盟後進
国に輸出していたものと考えられます。ハンガリーは西欧に農産物を輸出して外
貨を稼いでいたため、農薬需要も旺盛でしたし、チェコスロバキアの隣国ですか
らソポラナ社にとって農薬を輸出しやすい条件は整っていました。ハンガリーで
は245T生産に関する情報はありません。

ハンガリーの事件は「枯葉剤受注企業」が大量の副生物処分をどのように行なっ
ていたかを知る手がかりとなるでしょう。不純物は原料となる245TCPの生
産工程で多く発生するため、原料を輸入して245Tを生産する場合では「大量
の不純物処分」の問題は発生しません。そのためかニュージーランドやオースト
ラリアの化学会社では枯葉作戦中止に伴って発生した大量の在庫を埋めたり、海
に投棄したりと不適切な方法で処分していましたが、「様々な有機塩素系農薬生
産」という「事業展開」は採用されていません。

ハンガリーの事件が明らかになったきっかけは、WHO(世界保健機構)が実施
した世界各国の人体脂肪中のDDT濃度調査でした。(宇井純『合本公害原論』
1988亜紀書房)1960年代に数度の調査が行なわれていますが、ハンガリーはイン
ドに次いでイスラエルとほぼ同等、世界第二位の汚染レベルであることがわかっ
たのです。チェコも米国に次ぐ汚染状況で汚染レベルとしては西欧の数倍高い数
値がでています。汚染の原因には当然、ハンガリー人の食糧が汚染されていると
考えられ、食品中のDDTも調査も行なわれました。すると、食物連鎖の高いほ
ど、つまり、植物より動物、ニワトリよりも卵に高濃度のDDTが検出されたの
です。そのため、ハンガリーの農産物輸出はぱったりとまってしまいました。

ハンガリー国内ではDDTの毒性について大論争になりました。使ったら危ない
という意見と、農家からは使わないと収量が減って困るという意見とが対立しま
した。この頃、ハンガリー南西部にある国内最大の淡水湖・バラトン湖で獲れる
カワカマス、鯉が大量死するという事件も起きました。魚からは高濃度のDDT

BHCが検出されたのです。これらの魚もまた重要な輸出食品でしたからハンガ
リーにとっては大打撃でした。そうして、ハンガリーでは1968年にDDTなど有
機塩素系農薬の使用が全面禁止となりました。

宇井は『公害原論』の中でハンガリーの決断の早さについて驚きをもって次のよ
うに記しています。

 「1968年からDDTを止めたというのは世界で一番早いんです。69年から止め
 た国はずいぶんあります。アメリカのいくつかの州とか、スウェーデンとか、
 オランダとかありますが、68年というのはヨーロッパでもあるいは世界で一番
 早い禁止ではなかったかと思います。」

ハンガリーのこの早い英断も、流通していたDDTがソポラナ社製であったなら
ば、別の事情がみえてきます。ソポラナ社の245T生産中止もまた1968年だか
らです。

チェコの環境保護団体 ARNIKA はソポラナ社の245T生産中止の原因を
従業員の被害多数によるものとしています。しかし、ニュージーランド、オース
トラリア、米国の枯葉剤生産工場、そして日本の「除草剤生産工場」のいずれも
従業員の被災を理由に生産中止した工場はありません。ソポラナ社には別の重大
な理由があったと考えるべきでしょう。ハンガリーのDDT禁止は農産物汚染を
懸念しての決断ではなく、この年の夏にあったワルシャワ条約機構軍のチェコ制
圧(チェコ事件)が影響しているのではないかと考えられます。

ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍が チェコに入ってきたのは、1968年5
月でした。翌月の合同 軍事演習に備えての進駐でしたが、軍事演習が 終わって
もチェコから撤退せず、8月20日にチェコ制圧、進駐軍は その後も 居座り続け、
1989年の共産体制崩壊まで駐留し続けたのです。

チェコ侵攻の原因は「プラハの春」と呼ばれた共産主義の改革運動です。党第一
書記に就任したドプチェクは「共産党独裁の是正、言論の自由、西側との経済関
係強化」などを盛り込んだ行動綱領を 採択、これを契機に 改革が活発化すると
共産党体制に対する疑問やソ連との同盟関係に対する批判も出始めました。その
余波は国外にも波及、東欧諸国はチェコの改革に対する懸念を深めることとなり

ついには武力制圧となったのです。

ハンガリーにも同様の歴史があります。1956年に、ソ連の権威と支配に対する民
衆による自然発生的な反乱が起きました。反乱は直ちにソ連軍により鎮圧されま
したが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国
外へ逃亡したという事件があったのです。

侵攻してきたソ連軍兵士の多くはロシア語が話せない中央アジアの男たちで、彼
らはベルリンにナチスの反乱を鎮圧しに来たのだと信じていたというから驚きで
す。(フリー百科事典『ウィキペディア』)

ソ連の軍事介入を 正当化する論理は、後に「制限 主権論」あるいは「ブレジネ
フ・ドクトリン」と西側で呼ばれました。すなわち「1国の社会主義の危機は社
会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義諸国はそれに無関心で
はいられず、全体の利益を守ることに、1国の主権は乗越えられる」というもの
です。主権尊重と内政不干渉の原則よりも社会主義の防衛が上位に置かれていた
のです。

戦後の東欧諸国はどこの国もソ連を手本として工業化計画を進めていて、そもそ
も、ソポラナ社の枯葉剤生産がソ連の同意なしに実行できたとは考えにくいので
すが、一般に漠然と想像されている状況とは異なり、東欧ではそれぞれの国が互
いに長期の通商協定で結びつくことはあっても、原則として各国とも独立の経済
体として運営されていた(藤村信『プラハの春・モスクワの冬』岩波書店1975)
とのことです。従って、ソポラナ社の枯葉剤生産はソ連が黙認する形で始められ
ていたのかもしれません。

国策である計画経済の破綻を取り繕うためなら、米軍向けの枯葉剤を生産するこ
とさえ認めるが、脱ソ連につながるような経済力・工業力強化は認めない。それ
がソ連指導部の意思だったのではないかと思われます。その結果、1968年の武力
制圧により、チェコは西側との経済関係強化という政策の見直しを迫られ、経済
立て直し、工業生産力強化の期待を担っていたであろう「枯葉剤生産」は急遽中
止せざるをえなかったと考えられます。工場に原料、中間製品が残されたままと
いう状況が、慌しく生産中止となったことを窺わせます。

チェコスロバキアでは長期政権だったアントニーン・ノヴォトニー(党第一書記
兼大統領)が国民の信を失って退陣する直前に、ノヴォトニー政権の維持を図っ
たクーデター計画が発覚、首謀者でノヴォトニーの側近ヤン・シェイナ将軍が米
国に亡命するという事件が起きています。(フリー百科事典『ウィキペディア』)
従って、チェコスロバキアのノヴォトニー政権と米国には密接なつながりがあっ
たことは間違いないでしょう。一方、チェコスロバキアは北ベトナムへの武器供
与国でもありましたからベトナム戦争の当事国双方とビジネスをしていたことに
なります。

日本にとって朝鮮戦争以後の不況脱出にベトナム戦争が多いに貢献したように、
チェコも経済の行き詰まり打破にベトナム戦争を利用したことでしょう。
  
ソポラナ社の枯葉剤245T生産開始は1965年でしたが、英国国税庁がいう「除
草剤 大型工場 建設プロジェクトへの コアライト社の参加」が1964年ですから、
「除草剤大型工場」=「枯葉剤生産のソポラナ社」でも時間的矛盾はありません

その場合、疑問は2つ残ります。英国国税庁は なぜ工場の所在地を チェコでは
なく東ドイツとしているのか?(チェコはドイツの東ではある) コアライト社の
プロジェクト参画から生産開始までの期間(設計・建設・試運転などの期間)が
短かすぎないか? という点です。

実際、東ドイツに別の秘密工場があったのかもしれません。チェコの環境保護団
体の一連のプレスリリースからは、東側陣営のチェコスロバキアで枯葉剤が生産
されるようになったいきさつについて言及したものは見つかっていません。

ソ連からの独立・民族自立のために、東欧諸国は経済再生を計り、先進国チェコ
では枯葉剤も作った。そしてその枯葉剤は米国の介入を拒否するベトナムの民衆
の頭上にばらまかれたのです。

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 枯葉剤機密カルテル(第9回)

2006-09-29 13:30:30 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 592号 05年07月04日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第9回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第9回 コンクリートの廃墟

英国国税庁がいう「東ドイツの『除草剤』大型工場プロジェクト」に該当する工
場に関する情報はまだ見出せていません。しかし『除草剤245Tとその原料』
を製造していた大型工場は確かに東欧にありました。東欧諸国の中では東ドイツ
と並ぶ工業国・旧チェコスロバキアにあり、しかも、その工場の製品はベトナム
の米軍基地に輸出されていたのです。

ベトナム戦史では、米国がベトナム戦争に本格参戦した理由としていわゆる「ド
ミノ理論」が登場します。「ドミノ理論」のドミノとは将棋の駒のことで、ベト
ナム戦争当時、米国政府は、もし南ベトナムが共産化すれば、全東南アジア諸国
が将棋倒しのように共産化する恐れがあると主張、「共産主義の拡大阻止のため

と称して自らのベトナム参戦政策を正当化しました。

歴史としては この見通しは当たりませんでしたが、米国の参戦が あったからこ
そ、戦後 共産主義が広まらなかった のだとの主張もあって「ドミノ理論」の真
偽のほどは決着がついていません。ところが、東欧に枯葉剤工場があったとした
ら、このドミノ理論はどう解釈したらよいのでしょう? ドミノ理論は 戦争を正
当化する口実に過ぎず、戦争で儲けたいとの欲望には西も東もないということで
しょうか。

ソポラナ社は、チェコ共和国(当時はチェコスロバキア)の首都プラハの北約25
キロメートル、エルベ川河畔にあります。同社は1965-68年 の間に塩素系除草剤
245Tを生産し、「オレンジ剤」の構成要素のひとつとして旧共産主義の体制
下にもかかわらず、ベトナムの米軍に輸出していました。同社では245Tの生
産工程で、大量のダイオキシンが副生し、工場を汚染したのです。

情報筋の話によるとソポラナ社の245Tは米軍が使用したオレンジ剤の中でも
特にダイオキシン濃度が高かったということです。3年間だけの操業であったに
も拘わらず 工場の建物は 今日でも地球で最も汚染された場所のうちの1つであ
るとされています。これらの建物は30年以上前に閉鎖され、それ以来放置された
ままなのです。そこには汚染された施設、生産中止になって使用されなかった原
料と中間製品がそのまま残されています。ひどいダイオキシン汚染のために、建
物の再生は不可能です。それどころか保守管理もできないので工場の劣化も早か
ったのです。(グリーンピース・チェコ発表)

ソポラナ社が1968年に245Tの生産をやめた事情についてはチェコの環境保護
団体 ARNIKA が2002年5月23日のプレスリリースで次のように述べています。

「ソポラナ社では、約80人の従業員に 重篤な症状が発生、1968年に農薬生産を
 やめざるを得なくなりました。被災者のほとんどは職業病に認定されましたが

 補償金額がわずかだったために、皮肉にも生活のためソポラナ社に残らざるを
 えない従業員もいました。症状がひどかったので他所では仕事を見つけること
 ができなかったからです。元労働者の多くは、既に亡くなっています。ARNIKA
 では 2001年に発行された政府の最終報告書の写しを入手、1965-1968年にソポ
 ラナ社で働いていた元従業員4人の血液中ダイオキシン濃度は 平均 375,1 pg
 TEQ/gで、一般人(32,5 pgTEQ/g)と比較して 10倍以上も高い値を示している
 ことがわかりました。」

ソポラナ社の245Tは、Foreign Trade Corporation という商社を通して、直
接南ベトナムの米軍基地に運ばれました。(グリーンピース・チェコ、プレスリ
リース)西側の民間化学会社の245Tの生産・流通システムが「機密」を旨と
して敢えて、生産地→シンガポール→オーストラリアまたはニュージーランド→
メキシコ等→南ベトナムといった複雑な経路を経由していることと比較すると、
共産圏の245Tは通常の商取引のように生産地から直接南ベトナムに持ち込ま
れているという違いがあります。

その理由は2つ考えられます。まさか米軍が使用する枯葉剤が共産圏で生産され
ているとは誰も想像だにしないだろうと考えられること、もうひとつは共産国家
での強力な情報管理のため機密は担保されると見込まれることがあったのではな
いかと思われます。

もっとも情報管理については米国も大差ありません。1962年のキューバ危機直後

米国防総省のアーサー・シルベスター報道官は、国家安全保障に関わる事態なら
政府は 国民にウソをつく 権利があると「失言」しているのですから。(松岡完
「ベトナム戦争」中公新書2001)

1981年に、チェコのベジュプコワ博士が米国専門誌「Archives of Environmental
Health
」にソポラナ社従業員の被災の経過を投稿し、大反響がありました。博士
は当時の政府の情報統制を遵守してダイオキシン被害発生場所には触れませんで
したが、政府は社会主義国チェコスロバキアの名誉を傷つけたとして博士を断罪
しました。(Miroslav Suta「ソポラナのオレンジ剤」グリーンピース・チェコ・
プレスリリース)

ソ連崩壊後の1992年6月に米国 ICF 社が実施したソポラナ社の汚染状況調査結果
に基づいて、チェコ政府が基金を設立、工場の一部について汚染除去することに
なりました。1998年には工場の建物の一部を取り壊し、1000立方メートルのコン
クリートで固められ、封印されました。ソポラナ社の声明によると、これだけで
汚染除去にかかった費用は 6600 万チェコクラウン(約2.5億円)とのことです。
2001年1月にアクアテスト社がダイオキシンで汚染された建物2棟のリスク分析を
終えましたが、ソポラナ社は調査結果の公開を拒否しています。

最近、グリーンピースはソポラナ社の重要秘密文書を入手、公開しました。それ
らによると、工場周辺から高濃度のダイオキシンが検出され、工場自体の劣化も
相当進んでいました。建物のひとつは鉄骨造の屋根が腐食して崩落しており、他
の建物では鉄筋コンクリートの壁がひび割れから腐食が進み、ぼろぼろになって
いる、リスクは日々高まっているというのです。

ソポラナ社の工場はエルベ川の近くに建てられています。エルベ川は50年に1度
くらいの割合で氾濫をおこしていますので、もし氾濫したらダイオキシンだけに
限らず、同社が生産してきた他の塩素系農薬DDT、DDE、245T、BHC
やエンドリン、リンデンなど 様々な汚染物質を 周辺にばらまいてしまう恐れが
ありました。

そして、2002年8月、恐れていたことが 現実のものとなりました。チェコ、ドイ
ツを中心としてヨーロッパは記録的洪水にみまわれたのです。ヨーロッパ中央部
を南から北へ流れるエルベ川が増水し、チェコでは首都プラハで所によって3~
4m浸水、5万人が避難し、チェコ全土では約22万人が避難、死者15名、約30億
ユーロ(約3800億円)の被害が発生しました。ドイツでは、被災者約34万人、被
害総額 92億ユーロ(約1兆1000億円)の被害でした。この洪水の規模については
現在 各国の専門家により解析がなされ、およそ200年から1000年に一度の洪水で
あったと見られています。(日本国土交通省河川局HPより)

このときの洪水でソポラナ社の工場が浸水してしまいました。さらに、浸水時に
工場で小さな爆発があり、工場から煙がでているのが 目撃されています。(2002
年 8月16日グリーンピース・チェコ発表)その後、洪水によってソポラナ社の下
流にあるチェルニノフスコ自然保護区で 環境基準の500倍のダイオキシンが検出
され、工場もたびたび塩素漏洩事故を起こしているにも関わらず同社はどんな賠
償にも応じないとの姿勢をとっていました。

洪水によってソポラナ社から流出した毒物はダイオキシンばかりではありません
でした。IPEN(残留性毒物国際除去ネットワーク)が2002年10月24日発表し
たところによると、ソポラナ社の下流の泥から高濃度のTCDD(最も毒性の高
いダイオキシン=245Tの副産物)、DDT(有機塩素系農薬)、PCB(有
機塩素系熱媒体)が検出されたのです。

2003年3月、チェコ環境省は ソポラナ社工場におけるダイオキシンとPCB(ポ
リ塩化ビフェニル)の汚染状況の調査結果を公表しましたが、際立った汚染は観
察されなかったとのことです。グリーンピースと ARNIKA は他の地域における分
析結果との比較から環境省の調査結果に異議を唱えています。(2003.3.28 グリ
ーンピース・ARNIKA 共同プレスリリース)そして、地元住民らは 2003 年5月に
ソポラナ社を提訴しました。工場周辺の汚染には自由主義であろうと共産主義で
あろうと違いはありませんでした。

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枯葉剤機密カルテル(第8回)

2006-09-29 13:29:32 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 591号 05年06月24日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第8回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第8回 西欧一の農薬工場

枯葉剤の成分である24Dも 245Tも 第二次 世界大戦中の 1941年、英国の
ICI(帝国化学工業)によって、その優秀な除草効果が見出されたのです。戦
時中ですから、「農産物増産に寄与する除草剤」としてではなく、「敵の食糧を
破壊する枯葉剤」として研究が進められました。世界初の「枯葉作戦」は1945年
秋に米軍が 西日本で実施する計画になっていましたが、米国は原爆投下を優先、
8月に日本が無条件降伏したことにより、日本では行なわれず、その後 東南アジ
アで実施、ベトナムで 大規模化しました。(中南元「ダイオキシンファミリー」
北斗出版1999)

ICI社は 英国内市場では 圧倒的なシェアを得て独占を享受し、その名の通り
大英帝国で支配的な地位にありました。戦後、分散政策がとられ、245Tなど
の塩素系農薬はコアライト社が英国での主導権を握ることになりました。(フレ
ッド・アフタリオン「国際化学産業史」日経サイエンス社1993)

コアライト社は製造や販売を別会社として、研究と管理を中心に行なっていまし
た。1960年までに、コアライトグループは塩素化フェノール(245Tの原料を
含む)の英国内及び西欧でのトップ企業となり、農薬需要が増大しつつあった東
欧にも 進出し始めていました。1964-65年には、同社製 塩素系農薬の 輸出額の
5%以上は 東ドイツを除く東欧に向けられていました。東ドイツには『既に製品
となっているが量としては不十分な除草剤』の大規模生産工場建設プロジェクト
があり、1964年にコアライト社はこのプロジェクトを支援する組合への参加を要
請されましたが、同社は当初あまり乗り気ではありませんでした。同社は塩素系
農薬の生産プロセスについて特許権を取得しておらず、競合メーカーに「(特許
権のない)ノウハウ」を提供するなど、かつてなかったからです。しかし、応諾
することで他社を東欧市場から締め出せると考え、同社は10万ポンドで契約を交
わし、組合に加わることになりました。(英国国税庁ウエブサイト)

枯葉剤の成分24Dも 245Tも 原料は塩素化フェノールですから、英国から
オーストラリアに持ち込まれた枯葉剤原料は西欧一の塩素化フェノールメーカー
であるコアライト社製だったと考えられます。また、日本の三井東圧化学が英国
に輸出した先もコアライト社と推定されます。

それにしても、「既に製品となっているが量としては不十分な除草剤」とは何を
意味するのでしょうか? そして、東ドイツの大型プロジェクトはどうなったの
でしょうか? もし、ここでいう「除草剤」が245Tまたはその原料というこ
とになると、共産圏の東欧も米軍の「枯葉作戦」に加担していたということにな
ります。

コアライト社は 英国南部 ダービーシャー州ボルソーバに 工場がありましたが、
1969年4月23日、この工場で 爆発事故が起こりました。その年の12月までに被災
者80人(うち死者1人)をだし、工場は半年間 操業停止となりました。楢崎が国
会で三井東圧化学の枯葉剤製造疑惑を質したのはこの休止中にあたります。その
間に汚染の除去作業が進められましたが、その工場の従業員2人が事故から3年後
に塩素挫創を発症、家族も発症しました。(G.May "Choracne from accidential
production of TCDD. "Brit J Ind.Med 30 pp 276-283 (1973) )

コアライト社は米軍の枯葉作戦 中止後も245Tの操業を継続していましたが、
1976 年 7 月、イタリアのミラノ郊外で 245TCP 工場の 爆発事故があり、
245TCPの過熱により大量のダイオキシンが工場周辺に降り注いだのです。
(セベソ事件)この事件をきっかけにコアライト社の従業員の間で動揺が広がり
ました。そのため、同社重役が従業員に対する健康影響を再評価するようメイ博
士に委託、彼は3人の外部専門家を選任し、共同で調査を開始しました。

ところが、その後調査メンバーの一人マーティン博士はコアライト社より調査結
果は公表しないよう強く要請されました。その背景にはメイ博士の最初の調査結
果に偽装があることをマーティン博士が発見したという事実がありました。偽装
とはメイ博士が「被災グループ」に分類した従業員の中に、事故当日勤務してい
なかったと工場労働者が指摘した管理部門のスタッフが含まれていたのです。こ
れでは「被災グループ」と「被災していない対照グループ」の差が不明確になり

被災の影響が過小評価されることになりかねません。マーティン博士の調査結果
では「被災グループ」と「対照グループ」の血液データに差が認められていたの
に、コアライト社は両者に有意差はなかったとする調査の概要版を公表しました


そこで、マーティン博士は 新たに被災者8人から採血して第二の研究を開始、そ
の結果は 1979年2月のランセット誌で公表されました。その直後マーティン博士
の自宅に泥棒が侵入、関係書類だけ持ち去られるという事件がおきました。残念
なことに博士はコピーをもっていませんでした。このような奇怪な事件を経て、
コアライト社労働組合は245Tの操業中止を議決、同社は245Tの操業を断
念せざるをえなくなったのです。

そして、英国政府 健康安全局(HSE)は先にコアライト社が公表した概要版を最
終調査結果として受領しました。(A Hay "Company suppresses dixon report",
Nature, 284, pg2, (1980)、Coalite health survey talks", Nature, 285 p 4
(1980) 、Dioxin hazards: secrecy at coalite. Nature 290, p 729 (1881)、
A Hay The Chemical Scythe pp. 109-121 (New York: Plenum Press, 1982).)
 
その後1986年にコアライト社のボルソーバ工場で火災事故が発生、同社はこのと
き、周辺にダイオキシン汚染が広がったことを認めました。世界で唯一、ニュー
ジーランドで操業していた245T工場が閉鎖されたのは翌1987年のことでした


その後、1991年に再びコアライト社がダイオキシン問題で取り上げられることに
なりました。英国農水省がコアライト社工場周辺の牧場で飼育されている乳牛か
ら高濃度のダイオキシンが検出され、このうち3箇所の牧場から 採れた牛乳を販
売禁止にしたと発表しました。(英国環境情報サービス ENDS Report1991年11月
号)工場周辺の汚染は英国でも同じでした。


枯葉剤機密カルテル(第7回) 

2006-09-29 13:28:35 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 590号 05年06月19日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第7回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第7回 焼け焦げたドラム缶

三井東圧化学が、ニュージーランドと並ぶ主要輸出先としたオーストラリアでは
どうだったのでしょうか?

2004年4月18日、ABCオーストラリア国営放送は 西オーストラリア州キンバリ
ーの林業労働者の間でダイオキシン特有の症状が広がっているという事件を放送
しました。ベトナムでの枯葉作戦が 中止になってから 行き場を失った枯葉剤が
「除草剤」としてオーストラリアの山林に散布された結果でした。散布しきれず
に残った除草剤はドラム缶に入ったまま山林に埋められていました。その番組の
中で、オーストラリア国立大学化学科元教授ベン・セリンジャーはインタビュー
に答えて、次のようにコメントしています。

 「『除草剤』は1960年代後半から70年代前半にかけて、ベトナムに大きな市場
 をもっていた日本、英国、米国の会社からオーストラリアに持ち込まれたこと
 はほぼ間違いありません。米国の枯葉作戦中止は、それらの会社にとって突然
 その市場がなくなったことを意味します。彼らはベトナムに代わる新たな売り
 先を求めていました。『除草剤』の多くはシンガポールを経由してオーストラ
 リアに持ち込まれています。シンガポールには除草剤の大手企業がなかったの
 で、国の統計局には好都合でした。(筆者注:輸出元企業名を掲載せずに済む
 ためか?)69-71年の間 以外にはシンガポールから『除草剤』は全く輸入され
 ていません。我々は 輸入統計から シンガポール経由で輸入された膨大な量の
 『除草剤』の痕跡を入手しました。」

三井東圧化学が245Tとその原料245TCPの輸出先として挙げた国のうち
フランスを除く「ニュージ-ランド、オーストラリア、英国、シンガポール、米
国」がこれで出揃いました。ニュージ-ランドとオーストラリアで最終加工が施
されて、ベトナムの米軍基地に持ち込まれ、そこで混合され化学兵器オレンジ剤
となったのです。

ベトナム戦争当時、245Tとその原料245TCPを輸入していたのは西オー
ストラリア州パースに本拠を置くクイナナ化学工業と、シドニーのユニオン・カ
ーバイド社でした。

ユニオン・カーバイド社は米国の巨大多国籍化学企業の一つで、第二次世界大戦
後シドニー郊外ローデス(ホームブッシュ湾)で有機塩素系農薬を生産していた
チンボール社という地元企業を買収して、245Tの生産を開始しました。イワ
ンワトキンス・ダウ社同様、枯葉作戦中止後の1971年には大量の245T及びそ
の副産物を在庫として抱えることになりました。1976年まで生産を続けています
が、大量の在庫の処分に困った挙句、ホームブッシュ湾に投棄して深刻な海洋汚
染を引き起こしています。

クイナナ化学工業はパースの他、シンガポールとクイーンズランド州の州都ブリ
スベーンに関連会社があり、農業保護委員会への主要な除草剤供給メーカーでし
た。枯葉作戦中止後は山林の下草用除草剤として国内で販売していましたが、林
業労働者に体調不良を訴える人が続出したため、労働者が除草剤の使用を拒否、
大量の除草剤の処分方法も分からなかったため、南パース・ドゥエリングアップ
地区の林業労働者はドラム缶に入ったまま山林に埋めることにしたのです。

2004年10月3日、ABCオーストラリア国営放送は 1970年代から80年代にかけて
配布された「除草剤」によって生じた農民の健康被害と西オーストラリア州政府
の対応を放送しました。被害はクイーンズランド州の林業労働者や西オーストラ
リア州の農民に広がっていました。

キンバリー農業局職員・カールは「突然」ドラム缶に入った「除草剤」を割り当
てられ、ダービー地区の林業労働者に配布するよう命じられました。当初持ち込
まれたドラム缶には銀の線が描かれ、農業保護委員会に販売していたクイナナ化
学工業のラベルも貼付されていて、内容物は暗褐色の蜂蜜か軽油のような液体だ
ったことを記憶しています。しかし、70年代になってダービー地区に持ち込まれ
たドラム缶にはラベルがなく、黒いどろどろした液体が入っていました。

1981年大量の245Tが埋められているとの情報に基づき、前記のベン・セリン
ジャーと同僚のピータ・ホール両教授のグループが調査したところ、多数のドラ
ム缶を発見、それらのドラム缶は炎で焼かれた跡があるという特徴がありました


1971年にタリフ委員会がオーストラリア国会に提出した報告書によると、クイナ
ナ化学工業はベトナム戦争の期間中、245Tを輸入しており、火災損傷を受け
たドラム缶も同社がシンガポールから輸入、安価でここに持ち込んだことがわか
っています。火災損傷はシンガポールで受けたもので、加熱によりダイオキシン
濃度が かなり高まったと考えられます。(オーストラリア国営放送 2004年10月
4日放送)1981年6月10日付オーストラリア国会議事録の中にクイナナ化学工業が
輸入していたドラム缶の内容物の分析結果が残されています。それによると、内
容物は245Tのブチルエステルで ダイオキシン濃度は 245T基準で 26ppm
(全体で19ppm)TCP(トリクロロフェノール=245Tの原料)も 24Dも
含まれていませんでした。

クイナナ化学工業の関連会社・ファーム化学(ブリスベーン)の主任だったポー
ル・デビッドソンは、彼自身発疹や甲状腺の異常を抱えており、娘を亡くしてい
ました。彼はそれらの原因が工場で扱っていた除草剤にあると信じていました。
彼は次のように証言しています。

 「工場では除草剤をクリーク(小川)に投棄していました。そのクリークはブ
 リスベーン川に通じています。245Tは蜂蜜色した流動性のある液体で、軽
 油で希釈して雑草に散布していました。ところが焼け焦げのあるドラム缶の内
 容物は真っ黒で、表面に白い結晶が成長していて、まっとうなものではないと
 思いました。」

しかし、彼は上司から熱湯の入った容器に入れて内容物を溶かすように指示され
ました。(ABCオーストラリア国営放送 2004年10月3日)これだけでは判断で
きませんが、「黒い内容物に白い結晶」とは保管状態のよくないフェノール系の
化学物質によくみられる現象です。熱湯の中で溶解させるという取り出し方も同
じです。ポールが記憶しているドラム缶の内容物はフェノール系である245T
CP(245Tの原料)だったかもしれません。

1970年代になって、林業労働者の元に配布された除草剤は「焼け焦げのあるドラ
ム缶に入っていて、ラベルはなく、内容物は 黒または 暗褐色の粘性のある液体
だった」といいます。国立大教授ベン・セリンジャーも彼が発見したドラム缶の
中身は「黒くて粘性があり、純粋の245Tではなかった」と証言しています。
(ABCオーストラリア国営放送 2004年10月3日)工場主任・ポールが見た内容
物とは別物のようです。

このようにオーストラリアはニュージーランドとともに枯葉剤の加工工場の役割
を負い、品質の異なる様々な「枯葉剤」が持ち込まれていたようです。これらは
1971年の枯葉作戦中止に伴ってオーストラリア国内で消費されるようになったこ
とから問題が表面化したものですが、それ以前は品質に関係なくベトナムの密林
や民衆の頭上に連日降り注いでいたのです。


 枯葉剤機密カルテル(第6回)   

2006-09-29 13:27:36 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 589号 05年06月16日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第6回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第6回 工場周辺汚染

枯葉剤供給システムも秘密のベールに包まれていますが、枯葉作戦自体も秘密で
した。枯葉剤散布部隊の志願兵は次の条件で募集されました。「民間人の服を着
て米空軍の標識のついていない飛行機に乗り、捕虜になっても米政府は関知しな
い。」採用されると自宅に手紙を書くことさえ許さないという徹底ぶりでした。
その上でマクナマラ米国防長官は「航空機には南ベトナムのマークをつけ、南ベ
トナム軍将校が表向きの機長として乗り込み・・・作戦への米国の参加は一切公
表しないように」と語り、またノルティング駐サイゴン米大使は「使用する化学
物質をICC国際監視委員会の査察から隠すために・・・民間貨物であると明記
すべき」と進言しています。(中村梧郎「戦場の枯葉剤」岩波書店1995)

なぜここまで秘密に拘ったのでしょうか? 枯葉作戦 開始直後の1961年11月3日
付・米統合参謀本部覚書には「わが国(米国)が化学戦争あるいは生物戦争を行
なっているという非難の対象にされないよう注意しなければならない。」(同上)
とあります。そのためには供給システムも秘密でなければなりませんし、結果と
して枯葉剤供給国・企業も批判を免れることができたのです。

イワンワトキンス・ダウ社元幹部の告白は続きます。

 「オレンジ剤の生産開始当初、我々の製品は品質規格を守れませんでした。し
 かし、それ以上に問題だったのは米国ダウケミカル社より入手した製法などに
 関する技術情報に製品の安全性に関する情報が含まれていなかったことでした

 私たちは製品が人体に有害だとは知らされていなかったのです。」

その結果、同社の元従業員にガンが多発していました。ウエリントンのマッシー
大学公衆衛生研究センター所長・ピアーズ教授が、元従業員は国平均の2~3倍の
罹患率であるとの 調査結果を 発表しています。癌死に関しては 国平均に対し、
245T工場以外の従業員+24%、245T工場の営繕+46%、245T工場の従
業員+69% でした。ピアーズ教授は

 「同社がベトナム戦争の間、枯葉剤の供給基地であったことを思い出さなくて
 はなりません。ベトナムで起きていることはここでも起こりえます。労働省は
 今回の調査と同様の内容の調査を、工場周辺住民を対象に実施すべきです。し
 かし、誰もそのような動きをしていません。」
 
と語りました。これに対し、ダウ・アグロサイエンス社は「今回の研究は発癌リ
スクが高まっていることを示したものではない」との声明をだしています。ダウ
の責任者コリンズ博士(疫学)は「枯葉剤 散布者の発癌率は 平均以下で、工場
労働者の 発癌率のアップも 統計学上有意な差ではない。」と反論しています。
(2004.10.19ニュージーランドTV放送)

元幹部はさらに次のように語りました。

 「(枯葉作戦が中止になって)使われずに余ったオレンジ剤は完全にお荷物で

 ニュージーランド国内の農場に245T除草剤として再利用され、さらに余っ
 た数千トンの化学製品は工場に隣接する実験農場と呼んでいた場所に大きな穴
 を掘って埋めました。今でもニュープリマス郊外の地下に眠っていると思う。

 (NZ国際ニュースマガジン2001年1月号)

枯葉剤の「実験」のために1967年に購入した「実験農場」は枯葉作戦が中止にな
ると今度は枯葉剤のゴミ捨て場になってしまったのです。イワンワトキンス・ダ
ウ社は 米軍の要求に応えて オレンジ剤成分の生産を急増させました。ところが
1970年に枯葉作戦が中止されたので、同社は大量の在庫を抱えて、その処分に苦
慮することになったのです。

枯葉作戦中止以降に、ニュージーランド国内で再利用された証拠がありました。
1987年の農業省報告に「24Dと245T混合農薬」の取り扱い説明があります

24Dと245T混合農薬とはオレンジ剤に他なりません。

この元幹部の証言について2000年12月にニュージーランド退役軍人協会が調査を
要求、野党も厳しく政府を追及しました。政府がイワンワトキンス・ダウ社のオ
レンジ剤関与の証拠はないとした1990年の調査結果が根底から覆されたのです。
これまで同社は枯葉剤とは無関係としてきた政府は窮地に立たされました。保健
省は 工場周辺住民の血中ダイオキシン濃度の測定を発表(2001年2月13日)、工
場周辺の土壌調査も7月に行なわれ、9月に調査結果が発表されることになってい
ました。(NZ国際ニュースマガジン2001年7月号)ところが9月に米国で同時多
発テロ事件が発生、国民の関心はイラク戦争へと移っていき、枯葉作戦の追求は
忘れられていったのでした。

2005年にイワンワトキンス・ダウ社が24D、245Tで健康被害にあった労働
者とその家族に補償するための全国基金設立を拒否したことから同社に抗議のデ
モ行進が行なわれていますが、大きく取り上げられることはありませんでした。
(2005年3月6日グリーンピース・ニュージーランド発表)

1970年代にイワンワトキンス・ダウ社は自社農場に余ったオレンジ剤の成分を埋
設したことは元幹部の証言を得る前にわかっていました。1972年には埋設当時の
様子が地元タラナキヘラルド新聞に写真付きで掲載されています。さらに工場付
近の海岸で 化学物質が入ったドラム缶が 住民に発見されていますが、地元紙は
「イワンワトキンス・ダウ社の管理下にあり危険性はない」との同社常務のイン
タビューを報道していました。無害化しないままに廃棄することの問題は認識さ
れなかったのでしょうか?

実は当時の社内会議でオレンジ剤成分の遺棄について科学者からいくつかの懸念
が 述べられていました。(国際ニュースマガジン2001年1月号)しかし、それを
隠したまま、イワンワトキンス・ダウ社は途中、社名をダウ・アグロサイエンス
社と変更しながら245Tの生産を1987年まで続け、他社が枯葉作戦中止(1971
年)、イタリアのセベソ事件(1976年)、インドのボパール事件(1984年)を機
に245T生産を中止する中にあって、世界で唯一の工場となったのでした。


   枯葉剤機密カルテル(第5回)  

2006-09-29 13:26:27 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 588号 05年06月13日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第5回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第5回 告白

枯葉剤国産疑惑から30年あまりが過ぎた2000年暮れ、当時三井東圧化学副社長が
主要輸出先のひとつと認めたニュージーランドで爆弾発言が飛び出していました


ニュージーランド北島南西部ニュープリマス市にあるイワンワトキンス・ダウ社
(現ダウ・アグロサイエンス社)の元幹部が、マスコミのインタビューに答えて

ベトナム戦争で使われたオレンジ剤を同社が供給していたことを認める発言をし
たのです。彼はオレンジ剤の輸出計画を支援する管理委員会のメンバーでしたか
ら、同社のオレンジ剤関与のすべてを知りうる立場にいました。以下は彼の告白
です。(NZ国際ニュースマガジン2001年1/2月号)

 「1960年代 後半から70年代 初期にかけての 期間、ニュージーランド 政府は
 イワンワトキンス・ダウ社にオレンジ剤の成分である24Dと245Tを製造
 する独占的な免許を与えました。他社は許可されませんでした。我々はニュー
 ジーランドで生産された24Dと245Tの全てを作りました。24Dと24
 5Tは別々の場合には除草剤です。混合すると『オレンジ剤』になるのです。
 我々が出荷した化学製品は技術的にいえば誰かが最終的な目的地でそれらを混
 ぜるまで、オレンジ剤ではないのです。」

ニュージーランドは 英国、オーストラリア、カナダとともに 米国との間に化学
兵器開発協定を結んでいました。(宮田親平「毒ガスと科学者」光人社1991)
1960年代後半とは、同社の1967年版年次報告書に同社が隣接する広大な土地を農
薬の「実験農場」として購入したとの記載があることから、米国防総省が大量の
枯葉剤を発注した1967年と同時期とみて間違いなさそうです。米国防総省はニュ
ージーランド政府に速やかに50万ガロン(1900キロリットル)のオレンジ剤を供
給できる体制がとれるか打診しました。その結果、1948年から245Tを生産し
ていたイワンワトキンス・ダウ社が候補にあがり、他社の参入阻止を政府が保障
したのです。

ここで年産50万ガロンの意味を考えてみましょう。オレンジ剤は希釈せずにその
まま散布されていたので(レ・カオ・ダイ「ベトナム戦争におけるエージェント
オレンジ」文理閣2004)、オレンジ剤のベトナムでの散布量は米空軍の統計によ
ると通算で 約4.4万キロリットル、枯葉作戦が本格化した67-69年では3.3万キロ
リットルでした。散布量=発注量だと仮定すると米国内生産能力の4倍が発注さ
れているので外国発注分は3.3×3/4=2.5万キロリットル、これに対して67-69年
の間だけ イワンワトキンス・ダウ社は フル操業したと仮定すると 150万ガロン
(5700キロリットル)となり、実に外国発注分の約 1/4、換言すれば米国の全生
産能力に 匹敵するほどの 量がイワンワトキンス・ダウ1社に委託された計算に
なります。実際 イワンワトキンス・ダウ社が 1946年から1987年までに生産した
24Dと245Tの合計は2万キロリットル以上と発表(グリーンピース・ニュ
ージーランド 2004年 12月2日)されていますので、枯葉 作戦への「貢献度」は
もっと高いのかもしれません。

イワンワトキンス・ダウ社は1969年まで原料である245TCPを自社で製造せ
ず全量輸入に頼っていたと元幹部が告白していますが、分業の理由は245Tの
生産ノルマ達成がやっとだったからかもしれません。あるいは分業によってリス
ク分散を図ったか、はたまた「特需」の分配という側面もあったことでしょう。

これに対し、ダウ・アグロサイエンス社(旧イワンワトキンス・ダウ社)は枯葉
作戦への関与はないと自社のHPで反論しています。

 「1990年にニュージーランド外務省と国防委員会は、オレンジ剤がニュージー
 ランドで製造されたという情報に基づいて調査したが、そのような申し立てを
 支持する証拠は見つからなかった。さらに、同社はニュージーランドで製造し
 た245Tを米軍に販売しなかったことを確認した。」

しかし、当時の調査委員会に与えられた権限はほとんどなく、証拠集めのために
イワンワトキンス・ダウ社の経営陣を喚問することもできなかったのです。これ
では証拠が見つかるはずがありませんし、元幹部の告白によると元々政府主導で
受託した事業ですから政府の調査で関与を認めるはずもありません。

さらに元幹部は次のように語っています。

 「我々がオレンジ剤に関与していることに気づかれないために製品をわざわざ
 南アメリカやメキシコに出荷しました。そしてそこから改めて最終目的地であ
 る南ベトナムに送ったのです。」

米軍に販売したことを隠蔽するために第三国に迂回輸出していたのですから「米
軍に販売しなかったことを確認」しても何の反論にもなっていません。

元幹部の告白にはオレンジ剤がなぜ24Dと245Tの1:1混合物であるのかに
ついても語っています。民間化学会社が生産するのは、混合するまではあくまで
「除草剤」であって、「オレンジ剤」ではありません。もし 製造が 発覚しても
「オレンジ剤は作っていない。」と釈明できる予防措置だったのです。1:1の混
合なら誰でもできます。

三井東圧化学・平山副社長は「(輸出先で加工されてベトナムの枯葉作戦に使わ
れているという)事実があるなら、ぜひ教えてもらいたいものだ」と記者会見で
開き直ったと伝えられましたが、米国や南ベトナムに送っていないと明言できた
のはこういうカラクリがあったからでしょう。イワンワトキンス・ダウ社は1969
年まで原料の245TCPを輸入して245Tを作っていましたので、ニュージ
ーランドに輸出された三井東圧化学の245TCPはすべてイワンワトキンス・
ダウ社の245T原料として使われたことになります。そしてその後さらに第三
国を経由して南ベトナムへ送られたのです。

同社元幹部のこのような証言が得られた背景には、ベトナム帰還兵の枯葉剤被害
とともに、同社が犯したさらに大きな問題がありました。元幹部の妻も当時のこ
とを思い出して次のように証言しています。

 「オレンジ剤について大騒ぎになっていた頃ある夜帰宅した夫は私に『誰にも
 このことを口外してはならないし、誰も詮索してはならない』と言いました。
 しかし、あるとき、彼が感じていたよりもその化学物質は遥かに致死性が高い
 とわかると、彼は意見を変えてこう言ったのです。『真実を明らかにしなけれ
 ばならない。何かしなければ』と」(NZ国際ニュースマガジン2001年1月号)


枯葉剤機密カルテル(第4回) 

2006-09-29 13:25:07 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 587号 05年06月08日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第4回)       
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第4回 枯葉作戦

枯葉作戦について、中村梧郎は「母は 枯葉剤を浴びた」(新潮文庫 1983)の中で
次のように記しています。

 ――米空軍によるベトナムでの枯葉作戦は1961年に始まった。ベトナムのジャ
 ングルや田畑に航空機から化学薬品を浴びせかけ、解放勢力の食糧源と拠点を
 壊滅させるのがその狙いとされていた。
 
 作戦は10年あまりの間休みなく続き、1971年に終わった。

 ベトナムの広大な原生林は 枯れ、動植物も 死に絶えた。土壌中の微生物さえ
 姿を消して土が死んだ。そして地上は沙漠化した。

 ベトナムの枯葉剤散布地に私が初めて足を踏み入れたのは1976年のことである

 マングローブ樹のジャングルは朽ち果てたまま、死の世界をさらしていた。

 だが、枯葉剤の被害は、こうした生態系の破壊にとどまらなかった。ベトナム
 の地上には無数の人間が住んでいたし、人々はこの化学物質を頭から浴びせら
 れていたのである。

 人間への影響は、作戦が終わりに近づく頃から顕在化し始める。様々な皮膚炎

 癌、そして出産異常。枯葉剤の中には猛毒ダイオキシンが潜んでいたのであっ
 た。――

当初、米軍は米国に対する国際的批判を回避するために散布に使用した米軍機を
南ベトナム軍機に 見せかけるよう偽装し、散布した枯葉剤は 無害であるとゴ・
ジン・ジェム大統領に宣言させました。

枯葉剤を使うすべての作戦は、米南ベトナム援助軍司令部(MACV)と在南ベトナ
ム米大使館とで決められていました。南ベトナム政府は枯葉作戦の目的と自らの
役割を次のように示していました。

 「穀物を破壊し、周辺道路と軍駐屯地周辺の見通しを確保し、これらの作業を
 監視するために枯葉剤を使用する計画について、調査し、資料を収集し、処理
 することに責任を負う。」

1961年から64年にかけては 枯葉剤の散布は 米軍の輸送路と基地周辺に小規模に
行なわれ、散布手段も主にヘリコプターでした。しかし、ベトナム戦争に米国が
本格介入した65年以降、散布量、散布面積ともに激増しました。散布対象がベト
コンの活動拠点や その周辺の山間部へと 拡大されたのです。(レ・ガオ・ダイ
「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ」文理閣2004)

米軍がベトナム戦争で使用した化学兵器の中で、枯葉剤と呼ばれるものだけでも
数種類あり、容器の色で区別されていました。ダイオキシンが含まれていること
で有名になった245T、24Dの混合物はオレンジ色の容器に入れられていた
のでオレンジ剤と呼ばれました。

オレンジ剤の他にもホワイト剤(24Dとピクロラム)、ブルー剤(カコジル酸

などが 大量に散布されました。森林の破壊には 3度の散布が必要で、1回目には
葉を枯らすためにオレンジ剤か ホワイト剤、2回目に幹や枝を枯らすために同じ
薬剤、3回目には 木の根を枯らすためにブルー剤が使われました。枯葉剤に引き
続くナパーム弾(焼夷弾)投下とガソリンによる燃焼によって森林は不毛の地と
なりました。

米国防総省によると、ベトナム戦争中に使用された枯葉剤の量は6665万リットル
(1758万ガロン=9万トン)ですが、全米 科学アカデミーによると、米国防総省
の発表よりも実際は100万ガロン多かったとの試算もあります。

人類史上最大の環境戦争となった枯葉作戦には多くの反対にあいました。米国科
学振興協会が1966年以来、懸念を表明し続けていましたが、1968年に全米癌協会
の協力による研究でオレンジ剤の成分245Tに催奇性があることが判明、同時
期には南ベトナムでのオレンジ剤散布地域に多くの先天奇形が見出されていると
の報道がなされていました。

1969年には米国立癌研究所が245Tの催奇形性の原因は不純物ダイオキシンの
ためであると発表、1969年10月、米政府は人口密集地での枯葉剤使用を制限する
声明を出し、70年4月に 米国内での農業に245T使用中止を決定しました。年
末になってニクソンが翌春までに枯葉作戦中止を発表、米軍による枯葉剤散布は
71年4月に中止されました。しかしながら、使い切れなかった枯葉剤は 南ベトナ
ム政府軍に引き継がれ、散布はその後も継続されました。

1962年から70年の間に、少なく見積もっても 200万ヘクタール以上の地域に枯葉
剤が散布され、その広さは 南ベトナム全土の1/8に相当し、さらに 単位面積
あたりの散布量は平均して米国農務省が農業用として推奨している量の15倍にも
及んでいました。(英紙タイムズ1970.12.28)

その上、ダイオキシンの問題があります。オレンジ剤中のダイオキシンは 1キロ
リットルあたり平均で4gと見積もられていますが、不純物濃度は製品毎にばら
つきがあり、総量で 170-500kgと推定されています。さらに枯葉剤を散布された
森林は 散布後ナパーム弾で 焼かれたためダイオキシン濃度がさらに上昇したと
推定されます。

戦争が終わって、大量の 化学兵器が使用されたベトナムで 新しい世代に奇形が
多発しはじめたことが明らかになってきました。そしてその被曝症状はベトナム
の人々はもとより、米国の帰還兵の間にさえ現れはじめていました。散布作業に
従事していた 空軍兵士たち、あるいは 散布後の森に掃討作戦で入った海兵隊員
たちなどが直接、間接に被曝していたのです。

さらに ベトナム参戦国軍として 米軍と行動を共にしたオーストラリア、ニュー
ジーランド、韓国、フィリピン、タイなどにも問題は広がっていました。それは
核兵器による放射能障害にも似て、化学兵器のもう一面の本性をのぞかせるもの
でした。しかもそれは過去のできごとでなく、現在 進行しつつあるのです。(中
村梧郎「母は枯葉剤を浴びた」(新潮文庫1983)

枯葉作戦は 公式には「ランチハンド(牧場夫)作戦」と 命名されていました。
まるで牧場に農薬を撒く作業であるかのような命名ですが、作戦を進める米空軍
の内部では「ヘイディーズ(地獄)」と 呼ばれていました。まさに 枯葉作戦は
地上に地獄を作り出す作戦でした。


枯葉剤機密カルテル (第3回)      原田 和明              

2006-09-29 13:23:33 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 586号 05年06月06日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第3回)       
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第3回 ベトナム戦争

今回は当時の時代背景としてベトナム戦争の歴史をおさらいします。

1955年、南ベトナムで米国の支援を受けたゴ・ディン・ジェム首相が大統領に就
任、ベトナム共和国が建国されましたが、腐敗と圧制のため政情は安定せず1960
年には北ベトナムに指導された南ベトナム解放民族戦線(通称・ベトコン)が結
成されました。ジェム大統領は61年に米国と軍事援助協定を締結、南ベトナムに
米国から大量の武器弾薬、戦闘機、輸送用航空機などとともに多くの生物化学兵
器も持ち込まれました。枯葉作戦は早くもこの段階から始められました。

1964年8月、トンキン湾で 米海軍の駆逐艦への 魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)
が勃発、その報復を口実に米軍は北ベトナムの魚雷艇基地に対して、朝鮮戦争以
来となる大規模な軍事行動を開始、米上下両院は事実上の宣戦布告となる「トン
キン湾決議」を可決、「アジアへの不介入」原則は簡単に破棄され、ジョンソン
大統領への戦時大権を承認して本格的介入への道が開かれたのです。しかし、ト
ンキン湾事件は後に暴露された米国防総省の機密文書・ベトナム秘密報告(ペン
タゴン・ペーパー)によると、ベトナム戦争への本格的介入を目論む米軍が仕組
んだ自作自演であったことが明らかにされました。

対するベトコンは南ベトナム各地でゲリラ活動を活発化、ついに 65年2月ブレイ
クの米軍基地を爆破、米兵に多数の犠牲者がでました。ジョンソン米大統領は即
日、報復として首都ハノイなど 北ベトナムの中枢への空爆(北爆)を承認、3月
には海兵隊もダナンに上陸、ついに米国は中国・ソ連の支援を受けた北ベトナム
と泥沼の戦争にのめり込むことになっていったのです。以後米軍は戦闘機爆撃の
他、最新鋭のボーイングB-52大型爆撃機を投入、ベトナム全土に投下された爆弾
の量は第二次大戦の数倍にも及びました。

空爆を繰り返す米軍に対し、北ベトナムはカンボジア国境の山岳地帯にホーチミ
ンルートと呼ばれる補給路を建設して縦横無尽のゲリラ戦を展開、南ベトナムの
首都サイゴンで爆弾テロ事件が多発しました。

米軍が大量の枯葉剤を発注した1967年は、50万人もの米兵が投入されたものの、
4月に ニューヨークで大規模な反戦デモ行進が行なわれ、さらに米国政府は莫大
な戦費調達、米兵の士気の低下、マスコミの反戦報道などで苦境に立たされてい
た時期でもありました。「北爆」こそが戦況打開の切り札と主張し、更なる「戦
争の拡大」を提案する米統合参謀本部に対し、ジョンソン米大統領は底なしの戦
線拡大は無間地獄に気づいたのもこの時期でした。このように米国がベトナム政
策に行き詰まり、ジョンソン政権の団結を漸次引き裂いていった時期に登場した
のが「枯葉作戦」でした。

1968年旧正月を期してベトコンは南ベトナムの米大使館を攻撃、主要都市すべて
と数十の地方都市を占領(テト攻勢)、3日後には 米軍が鎮圧したのですが、米
国大使館が一時的にもベトコンに占拠される事態は全米に強い衝撃を与え、米軍
がベトナムで勝てないことを印象づける政治的効果は絶大でした。
 
1969年1月にジョンソンに代わって大統領になったニクソンは 米国内の反戦世論
を沈静化させるために、ゲリラ戦で人的被害の大きい地上軍を削減する政策を選
択、夏に公約通り 2.5万人の米兵を撤退させました。そこで復活したのが枯葉作
戦です。再び本格化して散布量は67年の水準に戻っています。

楢崎の枯葉剤国産疑惑追及はこのタイミングに行なわれたものでした。70年8月、
生物化学兵器の全面禁止を規定したジュネーブ条約批准を議会に迫られたニクソ
ンはベトナムで使用し続けていた枯葉剤・催涙ガス・ナパーム弾は条約に含まれ
ないことを条件に了承、枯葉作戦は継続されました。しかし、それも長くは続か
ず、71年春に枯葉作戦は全面停止されました。

テト攻勢で不利になった状況を挽回して和平交渉を少しでも有利にしようと、ニ
クソンは 隣国カンボジアにクーデターによる親米政権を誕生させ、70年4月、新
政権に暗黙の了解を得て ホーチミンルート破壊のためカンボジアに、71年2月に
はラオスに侵攻しました。しかし、破壊したルートは早々に復旧されてしまい、
作戦は失敗、そして副作用としてカンボジア内戦が勃発しました。

南ベトナムの共産化は 隣国に次々と波及して 東南アジアの共産化が進むとする
「ドミノ理論」により米国は介入を本格化させていったのですが、実際に波及し
たのは内戦による混乱でした。
 
1971年6月、ニューヨーク・タイムズ紙が ベトナム戦争における米政府の陰謀や
内幕を暴露した米国防総省機密文書である「ベトナム秘密報告書」のスクープ連
載を開始、反戦運動が益々高まると、これ以上の戦争継続は困難とみたニクソン
は72年2月に中国を電撃訪問して、和平の道を開き再選を果たしました。73年1月
にパリ和平協定締結、これに基づき 3月に米軍が全面撤退を完了しましたが、北
ベトナムは米国の再介入を恐れ南ベトナムへの大規模な軍事行動は控えていまし
た。その間、ニクソンはウオーターゲート事件で躓き、74年8月に 辞任に追い込
まれました。

米国政府の ベトナムへの関心がなくなったとみると、75年3月、北ベトナム軍は
軍事活動を開始、南ベトナムのグェン・バン・チュー大統領は米国に支援を要請
したものの 米議会は米軍派遣はおろか、軍事援助も拒否、4月30日ついに南ベト
ナムの首都サイゴンが陥落しました。この際北ベトナム軍は米国の要請を受け入
れ攻撃を中断、その間残留米国人、政府要人とその家族は沖合いで待機する米空
母に脱出、欧米諸国は政府専用機による救出活動を行ないました。残留日本人は
米軍に救出を拒否され、また日本政府の救出活動もなかったため、大混乱のサイ
ゴンに取り残されることとなりました。

首都陥落により南ベトナム政府は無条件降伏を宣言、ついにベトナム戦争は終結
したのです。


第18回(最終回) 「九条」と「従米」の谷間

2006-05-08 18:38:05 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 583号 05年04月24日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
             水俣秘密工場(最終回)       
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第18回(最終回) 「九条」と「従米」の谷間

米軍は 金日成の動きを逐一知っていたのではないかという疑いが 開戦当初から
ありました。まだ戦争中の1952年に米国人ジャーナリスト、I.F.ストーンは著
書「秘史朝鮮戦争」の中で次のように指摘しています。

「米極東軍総司令部の諜報担当の責任者ウイロビー少将らが スパイから集めた
 情報をもとに、マッカーサーは北朝鮮が戦争準備を進めていることを知りなが
 ら、ワシントンには『1950年春または夏に朝鮮に内乱が起こらないと信じられ
 る』と正反対の報告を送っていた。」(萩原遼「朝鮮戦争」文藝春秋1993)

なぜ、マッカーサーは本国に虚偽の報告をしたのでしょうか? 米国は中国での
蒋介石の大敗、台湾落ちに打ちひしがれていました。米大統領トルーマンは台湾
が中国共産党に攻撃されても米国は介入しないと声明したほどです。(1950年1月
5日)この状況を巻き返したい軍部タカ派は 国務省を封じ込めるために、金日成
の妄動を知りながら敢えて先制攻撃のチャンスを与える道を選んだのです。その
ためには、タカ派のマッカーサーはワシントンを騙す必要があったのです。国会
議事録の風早演説から「戦争準備」の文言を伏字にした意味もここに通じるので
しょう。

金日成に助けられて米国は不法な軍事介入者を正義の使徒に装うことに成功した
のです。マッカーサーの米極東軍司令部はすべて中国革命の進展とそれに鼓舞さ
れた金日成の動きにあわせて動いていました。そして一連の動きを彼らの思惑に
利用したのです。

金日成の妄動と虎視眈々の米軍の介入こそが朝鮮半島を地獄に変えた元凶でした

米軍の無差別爆撃は都市と農村を焼き尽くし破壊し尽くし、数百万の朝鮮人民が
殺傷されたのです。さらに中国の参戦により朝鮮戦争は米中戦争になり、人命・
財産の被害はいっそう拡大しました。南北の憎しみと対立は戦争を凄惨なものに
し、南北分断は完全に固定化されました。

朝鮮戦争の影響は日本にも及んでいます。米軍の基地となり、警察予備隊が創設
され、日米安保締結、様々な面で米軍の「戦争準備の下請け機関」となるなど、
「従米国家」の基礎が固められ、憲法九条の理念は早くも踏みにじられたのです

「水俣病事件」は産業界もその例外ではないことを示す一例ではないかというの
が今回の仮説から導かれる結論です。

軍産複合体といわれる米国の巨大な軍需産業が生き延びるにはどこかの地域で紛
争が起きることが必要でした。第二次大戦から5年もたち、不況をかこっていた
軍需産業にとって「朝鮮は祝福だった。この地か、あるいは世界のどこかで朝鮮
がなければならなかったのだ。」(米朝鮮前線司令官ヴァン・フリート将軍)日
本の産業界もその一翼を担い、朝鮮特需に続きベトナム戦争に伴う特需を経て戦
後の復興を果たしたのです。

米国の繁栄は世界のどこかで戦争が起こる(起こす)ことによって担保されてい
るとするならば、米軍の後方基地となった日本の豊かさもまた戦争によって維持
される類のものなのかもしれません。これまで日本人は自衛隊を容認する一方で
憲法九条護持の道を選びました。戦後保守政権はその交錯する世論を背景に憲法
九条によって海外派兵できなかった分を公害という形で犠牲の分担を受け入れた
と考えると、水俣病をはじめ60年代を中心に全国で引き起こされた公害もまた結
果として日本人の選択したものだったとも言えるのでしょう。

このシリーズでは結局、チッソのオクタノールが航空燃料用潤滑油原料に使われ
たという証拠も提示できなかったし、潤滑油の製造工場を特定することもできま
せんでした。状況証拠の一部を提供できたにすぎません。チッソ水俣工場に秘密
のミッションがあったかなかったか? 真相は依然として藪の中です。

それでも、チッソ水俣工場に秘密のミッションがあったとすれば、水俣病事件を
拡大させた一方の当事者である通産省(軽工業局長・秋山武夫)の「チッソ水俣
工場の操業を継続させた」動機がひとつ解明されたのではないかと考えます。

事件拡大のもうひとつの当事者は「水俣湾の漁獲に対して食品衛生法適用を阻止
し、沿岸漁民に汚染した魚を摂取せざるをえない状況を作り出した」熊本県(副
知事・水上長吉)であり、その動機の解明にも改めてチャレンジしてみたいと思
います。