あしたは今日よりもっとすばらしい!

明日のあなたが今日よりもっと輝けるヒントをお伝えします。

ヨーガ・スートラ

2021-10-19 20:10:00 | 日記
 この写真はこの前の土曜日、長野のバラ園に撮影に行った帰り道、発見し、ずっと観察し、家に帰ってから、撮ったものです。

クラウドシップ、ご存知ですか?

宇宙船(いわゆるUFO)が雲の中に隠れていると言われています。

今回初めて、長時間、一つのクラウドシップを観察し続けましたが、同じ位置、ほとんど同じ形で、空にあり続けました。

この後、夜になっても、月明かりに見えていました。

スピリチュアルな情報を出してくれている人によると、銀河連合の高次元宇宙存在たちが、地球に着陸する許可が創造主より降りた、という説もあります。

何より、クラウドシップは見る人にメッセージがあって見せているので、見た人はそれを、受け留めればいいわけです。

今日はまた、時間がとれて、岩盤浴に来ています。

ヨーガ教室に来ている方から、前に『インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ』スワミ・サッチダナンダ著 めるくまーる刊 という本を貸していただきました。

その方はアシュタンガヨガの講師をしている方ですが、クリヤーヨーガのポーズは18のポーズの中にエッセンスが凝縮されていて、それが素晴らしいので、来ているということでした。

その他にも、不思議な能力をお持ちで、ご一緒させていただくと、勉強になることもたくさんあります。

今日は、その本を読んでいて、胸を打たれる言葉に出会いましたので、お伝えします。


心が私的な利害から自由であるとき、われわれは仕事を十全にすることができ、楽しく感ずる。

そのとき、われわれの人生は意味に満ちたものになる。

もしわれわれの心から利己性がなくなり、すべての人々の人生に、犠牲的献身が備わったならば、他ならぬこの世が天国となり、平安と至福の住み処(か)となる。

この生にあっては、すべてのものが与えている。犠牲的献身は生の掟なのだ。

それは聖者だけでなく、自然のすべて、木々も鳥も動物たちも、すべてが他のもののために生きている。

なぜろうそくは燃え溶けていくのか?光を与えるためである。

なぜ香は燃えて灰になるのか?香りを与えるためである。

なぜ樹木は伸びるのか?果実と花を与えるためである。

およそこの世界に、生物・無生物を問わず、自分だけのために生きているものなどあるだろうか?ない。

ならば、自然のすべてが犠牲だというのに、ひとり人間だけが利己的な生を送って良いものだろうか?

われわれは、与え、与え、かつ与えるためにここに在る。

そうは言っても、もちろん迷いは残るだろう。

「犠牲的献身の人生を送るべきだというならば、私はどうやって食べていけばいいのだ?どうやって衣服を得、住むところを得たらいいのだ?」

それらのものは、他者に奉仕するための自分自身の備えとして持てばよいのである。

あなたにはまた明日の朝も元気で他者への奉仕に出かけられるように、ゆっくり休むためのベッドが要る。

他者に奉仕するための十分なエネルギーを得るためには、食べねばならない。

そのように何をする時でも、「私は他者に奉仕するために自分自身を整えているのだ」という思いでもってやる。

瞑想をするときでも、それは自分だけの平安のためではない。

安らかな心で外に出て、十分奉仕できるように、するのだ。他でもない。そのことを念じながら、瞑想をする。

そのときにはヨーガの瞑想さえもが無私の行為となる。

この無執着だけが、あなたの全人生を喜びに満ちたものへと変えるに足るのである。





波動の法則

2021-10-15 12:16:00 | 日記
『波動の法則』(足立育朗著 ナチュラルスピリット刊)をやっと最後まで読みました。

ちょうど後半部分からの読み始めでしたが、素晴らしい内容でしたので、大切だと思うところを書いていきます。

以前、原子核の集合体はEXA PIECO(エクサピーコ)と言われるもので、私たちの知っている言葉で置き換えると、「魂」と言える、と書いたと思います。

そしてこの原子核の集合体はスタディによって成長します。

人間の場合で言えば、エクサピーコがスタディのために人間のボディを選択し、借りています。

原子核の集合体が成長する、ということは、原子核の数が増えて、回転速度も速くなり、大きさも大きくなります。

そのためには、自然の法則にかなった調和のとれた意識でスタディを積み、実行し、周波数をあげていくというステップを踏むことが求められます。

自然の法則にかなった調和というのは、生まれた時は皆、そういう状態なのですが、この世界で生きるにつれ、顕在意識が優位になり、自我意識(エゴ)中心の見方になっていきます。

自分だけが良ければいい、人間だけが良い思いをすればいい、そういう思い、そういう思いからでた行動は宇宙や自然と全く調和できていない状態です。

宇宙や自然と調和して生きていたら、非常にタイミング良く、その人の人生に必要なことや恵みがもたらされるのですが、自分がずれてしまっているので、受け取れる場所にいません。

だから、今、人生が何となく、噛み合っていないと感じるのなら、この世界の常識や、観念で生きることから少し退いて、宇宙的意識、自然との共存を自分の中に取り入れていくことが意味をもってきます。

スタディがすすむと周波数が上がり軽くなりますから、肉体という重い波動の中でスタディをしなくてもよい状態を迎えます。

原子核の中の中性子と陽子は受信と発信の役割をしています。

よって、その数が増えるということは、情報量が増えるということです。

思いも寄らなかったアイディアや考え方、解決策など素晴らしい答えがたくさん入ってくるようになります。

そうすると現実的に行動がとりやすくなり、それを実行することで、確信し、自信が持て、調和のとれた意識状態になるので、周波数が上がり、また原子核の数が増える、ということを繰り返しながら、バージョンアップしていきます。

行動する、というのは決心することです。

ひらめきが浮かんだ時、でも心配、とか、もしうまくいかなかったら、と躊躇することなく、とにかくやってみる。

直観をストレートに受け入れて実行することによって、自然の法則にかなった調和状態になっていきます。

5次元にアセンションすると言われて久しいですが、いずれはそれは起こります。

そのために、地球はこの瞬間も周波数を上げ続けています。

そこは33,000光年先ということです。

地球も地球上に存在する全ても、時空間移動する時は、一旦完全なクォークに戻ります。

そして移動先で再生されます。

再生されるか否かは、地球のエクサピーコの振動波と同調できる状態になっているかどうかで決まります。

その判断は自然法則によるものです。

地球と同調できない場合には、クォークのまま、自然のエネルギーとなります。

次に病気についてまとめます。

人間のエゴは歪(ゆが)んだ振動波を出し続けています。その結果、空気も水も食物も歪んできています。

そして、それを、吸収している人間も、更に歪んできています。

ウィルスや病原菌というものは、正常な中性子、陽子、電子でできているものが、歪んで結びついているものです。

その原因も人間の顕在意識、エゴによるものです。

病原菌と闘う、殺す、という意識は自然の法則に反するものです。

本人の顕在意識が調和のとれた方向に意識変換し、調和のとれた実行をすることで、周波数がどんどん上がれば、中性子も陽子も電子も正常化の方向に向かい、病気は失くなります。

健康になろう、長生きしよう、という意識ではなく、自然の法則にかなった調和のとれた意識に変換し、ボディを調整していけば、結果として、病気がなくなり、健康になり、長生きします。

そして、自分が良くなると、周りに常に素晴らしい振動波を発振、受振するということを起こすので、周りの全てが良くなっていきます。

病気になった方は、それらを憎んで闘って殺してやるという意識を持つのではなく、それらは自分の顕在意識が作り出したもので、そのウィルスが今、自分にメッセージを送っているのだと理解することです。

そして「メッセージをありがとう」という意識が生まれたら、顕在意識は調和のとれた方向に意識変換しているので、病気の治りも早くなります。







全ての人は神の子である

2021-10-06 13:27:00 | 日記
今、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読んでいます。

クリヤーヨーガと出会うよりかなり前に買った本で、読み始めては続かないことの繰り返しでした。

表紙のヨガナンダ先生のお顔から放たれる光、特にその目から「早く読みなさい」と言われているのがわかっていたのですが、分厚い本で、後回しになっていました。

この本は、前にも書きましたが、スティーブ・ジョブズが自分のiPadにたった一冊だけ入れて何度も読んでいた本です。

彼はクリヤーヨーガを修めたくて、インドにわたり師匠を探したのですが、良い方に巡り会えず、仏教に傾倒していったと聞きました。

この本は、随所に真理が書かれています。

今日読んだところは、ヨガナンダ先生の師匠のスリ・ユクテスワ先生の聖書の解読です。


アダムとイヴの創世記の物語は象徴的に書かれている。生命の木とは人間の体のことで、脊椎は木を逆さにしたようなもの。

神経系統の木には視聴嗅味触の五感という美味しい実が成っている。人間はこれらの果実を自由に楽しむ権利を持っているが、ただ性の経験、すなわち肉体の園の中央にあるりんごの実を食べることだけは禁じられていた。

蛇とは性神経を刺激するコイル状の脊椎エネルギーを意味する。アダムは理性を、イヴは感情を表す。

人間の中のイヴ的意識である感情が、性的衝動に征服されると、アダム的意識である理性も屈服してしまう。

神が人間という種族をつくられるにあたっては、男女のからだを、ご自分の意志の力によって物質化された。そしてこの新しい種族にも、ご自分と同様、汚れなき方法によって子供をつくる能力を与えられたのだ。

人間のからだは単に動物の進化したものではなく、神の特別な創造意志によってつくられたものだ。

すべての感覚を楽しむことを許されていたが、性的感覚だけは禁じられた。

それは人間を下等な動物的生殖法に陥らせないためだった。

しかし、人間が潜在意識的に持っているこの獣的記憶をよみがえらせないようにという神の警告は破られてしまった。

再び動物的生殖法を採用するようになったアダムとイヴは、最初の完全な人間に与えられていた聖なる喜びの状態から堕落してしまった。

彼らは、神が警告されたように、永遠不滅の意識を失って、ついに自らを物質的自然法則の支配下に置き、肉体的生死を経験するようになってしまったのだ。

蛇がイヴに約束した、善悪を知る、とは宇宙の二元性の原理を経験することを意味する。

イヴ的意識なる感情とアダム的意識なる理性を誤用する人間は、迷妄の中に転落して、如意自在の天の楽園に入る権利を自ら放棄することになる。

この二つの性質、すなわち、アダムとイヴというわれわれの両親を、調和ある統一状態であるエデンの園に連れ戻すことは、すべての人間に課せられた責任なのだ。

神学者たちはキリストの言葉を間違って解釈している。例えば「わたしは道であり、真理であり、生命である。誰もわたしによらないで父のもとに至ることはできない」という言葉はイエスだけが神の唯一の子であるという意味ではない。

すなわち、人間はだれでも、まず"神の子"であることを現さなければ(すべての被造物に内在する普遍的キリスト意識に目覚めなければ)、被造物を超越せる父、すなわちとらえどころのない無限の絶対者に至ることはできないことを説いているのである。

このキリスト意識と完全に一致していたイエスは、すでに自我意識を解消していたので、キリスト意識を"わたし"と言ったのである。

人間はみな神の似姿につくられているのであり、いつかは「だからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全になりなさい」というキリストの命令に従わなければならないのである。

「わたしたちが神の子と呼ばれるために、どれほど大きな愛を父から賜ったことか考えてみなさい」

聖書の中には、カルマの法則とその必然の結果として生ずる生まれ変わりについて理解されていたことが至るところにはっきりと示されている。

初期のキリスト教会はグノーシス教徒や多くの神父たちが提唱した再生説を受け入れていた。

ところがこの説は、紀元553年コンスタンティノープルで開かれた第二回キリスト教会議で異端と決められた。

これは、あまりに広範な時間と空間を包含する再生説が、人々に早く救いにあずかるよう勧めるうえに都合が悪かったからである。

だがこうして抑圧された真理は、いろいろな誤りを生み出す結果となった。

人々はその生涯を、神を求めるために費やすかわりに、この世の生活をたった一度限りのものと思い込んで快楽を追うことのみ考えるようになってしまった。

しかし実際は、人間は"神の子"の意識状態に到達するまでは、何度でも地上に、生まれ変わって来るのである。

神と自分は不可分

2021-10-05 16:40:00 | 日記
 最近いろいろと忙しくて、学びも深まっているのですが、書く時間も取れません。

今日学んだことを少しずつ書いていこうと思います。

最近一番思うことは、神(宇宙)と自分は不可分であるということです。

自分の全ての行為、心の動き、言葉は神への供物である、ということです。

それを常に意識して生活するようになりました。

自分が誰か知りたくて、ひとりぼっちで寂しかった神様が、ビッグバンを起こし、今私たちはここにこうして存在していると思っています。

私たち一人ひとりの体験を通して、神はご自分をお知りになっています。

私が楽しい時、神も楽しく、私が嬉しい時、神も嬉しく、私が喜んでいたら、神も喜んでいるのです。

だからいつも笑顔で感謝して幸せに生きていたら、神様からたくさんの笑顔が降ってきて、もっともっと幸せになります。

反対に、悲しんでいたり、自分はダメだと思っていたり、怒っていたら、神様も同じ思いを共有しています。

そして、自分の涙が、神様の涙となって、もっと涙を流すことが引き起こされてくるのです。

自分が出したものが帰ってくる、というのはこういう理由によるものと思われます。

私を生んだ神様が、幸せを感じてくれるような生き方をしたいと思います。

自分は素敵なんだ、自分は素晴らしいんだ、と神様に知ってほしいから、私は今日も素敵で素晴らしい自分を生きています。

神と一体だと気づくと、心に愛が溢れてきます。それが至福なんだと思いました。