先日、龍華院さんで、慈悲の瞑想について教えていただきました。
慈悲の瞑想には2種類あって、
①自他平等 私も他者も幸せでありますよ
うにと祈ること
②自他交換 他者の苦しみを私が全部引き
受けて、私の幸せの全部を他
者に捧げるよう祈ること
①は誰でも納得できると思いますが、②は一瞬、戸惑いますよね。
苦しそうにしている人を見て、その人の苦しみを全部私が引き受けます、と思って、本当に自分が苦しくなってしまったらどうしよう、とまず、考えると思います。
こう考えているのがエゴなんですよね。エゴは自分が苦しむことは絶対嫌なので、この発想をしただけで、エゴにくさびを打ち込むことができます。
実際は自業自得という言葉の通り、人のカルマを代わってあげることはできません。
そう祈っても他者の苦しみが自分に来ることはないのです。
もし、そう祈って、苦しみに出会ったとしとら、それは自分の中にあった苦しみ、カルマが触発されて出てきたにすぎません。
それでは何のために、他者の苦しみを引き受けます、と祈るのか。
それは、さっきのエゴを破壊するためです。
私たちは数えきれないほど生まれ変わっています。
その中で、エゴはたいへん狡猾になり、ちょっとのことでは滅することはできません。
エゴがすごく嫌がることをすることによって、そこにくさびを打ち込み、エゴを破壊していく。
結果、最終的には自分が一番幸せになります。
打算的に、自分が一番幸せになりたいから、他者の苦しみを引き受け、他者の幸福を自分の幸福よりも願う、でもいいんです。
苦しみの本体は10%くらいです。残りの90%はそれによって生み出された心の働きによるものです。
誰かに注意されたことが、その人がもともと嫌いな人だったら、その注意が、憎しみに変わります。
好きな人に言われたことなら、簡単に受け入れて直せるかもしれません。
私たちはこのように物事をあるがままに見ることができません。
それを無明というのです。事実と概念を混同すること。エゴのフィルターがあるために、智慧がないのです。
だから徹底的に物事をあるがままに見られるように、ヴィパッサナー瞑想があります。
今食べている、今飲んでいる、今歩いている、などを意識的に行う瞑想です。
また、無明とは「自分だけが」という思いであり、潜在的に全ての人が持っています。
「慈悲」という言葉は、慈・悲・喜・捨からなります。
慈・・いつくしみ
悲・・相手の苦しみを取り除いてあげたい
喜・・相手の幸せを共に喜ぶ
捨・・ありとあらゆるものを平等に見る心
これを四無量心といって、これを無限に高めよ、と教えています。
苦しいと感じる時、心はその対象をとらえているので、強烈にそれから引き離すために、瞑想したり、強い文言を唱えたりします。
無明の段階を追っていくと、まず心の判断が起こっています。
私だけ幸せならいい、とか、あの人はひどい人だから、罵詈雑言を与えてもいい、とか。
そして、無明であるエゴにだまされて、なすがままに行動してしまうのです。
この無明であるエゴを滅し、明にしていくためにも慈悲の瞑想は意味があります。
地橋秀雄先生の『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』から引用します。
昼下がりのタイのクーティ(独居住宅)で、汗をかきながら座る瞑想をしていました。上半身は裸でした。その時どこからともなく、プーンと一匹の蚊が飛んできました。
サティの瞑想(物事をあるがままに見る瞑想)に疲れ切っていたので、気分転換に、この蚊に対する慈悲の瞑想を試みました。万感の想いを込めて強烈に慈悲のバイブレーションを放射してのです。
すると不思議なことが起きました。ギリギリまで近づいてくるのですが、顔にも肩にも背中にも、どうしても止まることができないのです。眼に見えないオーラにはじき返されるように侵入できず、約30分間、虚しく旋回し続けていました。
別の日、同じことを繰り返しましたが、今回は、微妙に集中が破れ、なぜか不快な人物と情景の妄想が浮かび、ひそかに嫌悪の感情が動くのを感じました。すると、その瞬間を待っていたかのように、蚊が猛然と襲ってきて、額をチクリと刺し血を吸い始めたのでした。
人間の体からは、オーラのようなエネルギーが放射されていて、嫌悪の色にも慈悲の色にも瞬時に同調し、互いに響き合っているのではないか・・・。
ヴィパッサナー瞑想の目的は心をきれいにしていくことです。
それと並行して慈悲の瞑想をすることで、この世で最も崇高な「慈悲」の心を反応パターンに組み込んで振る舞いを変えていきます。
1.私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願うことがかなえられますように
私に悟りの光があらわれますように
2.私の親しい人が
3.生きとし生けるものが
4.私がきらいな人々も
5.わたしをきらっている人々も
6.すべての衆生が幸せでありますように
すべての衆生が幸せでありますように
すべての衆生が幸せでありますように
2〜5までは主語をそのように変えて同じ文言を唱えます。心の中で唱えた方が良いようです。
言葉の意味に集中できた方が効果的ですが、言葉が頭に浮かべば、必ず何らかの反応が起き、心が影響を受けて変わります。
ですからイライラしていても、実感がこもらなくても、慈悲の瞑想をやろうと思い、言葉を唱えるだけで、必ず心は、その方向に変わっていきます。
繰り返されるほどに、脳細胞のネットワークが強化されますので、慈悲の心がいつの間にか形成されていくのです。
これにちなんで、昨日アムリタチャンネルさんから出されていた動画が素晴らしかったので、ご覧になってみてください。