僕の世代だと「はだしのゲン」の方が印象深いですが、昔はマガジンでもサンデーでもジャンプでも、夏になると戦争や原爆の特集記事を載せてましたね。いつのまにか無くなったのでは?@matsuikei
アンケート至上主義の影響も大きいのではないでしょうかね。「はだしのゲン」は当時、アンケートでは常に下位だったけれど、連載を継続したと聞いていますが……。"@kanchan42195: いつのまにか無くなったのでは?@matsuikei"
「はだしのゲン」は集英社からの単行本化を拒否され、左翼系の出版社から単行本を刊行しましたが、それはともかく、今思えば、僕が先の戦争についての知識を得たのは、学校の授業ではなく、週刊の漫画雑誌からでした。@matsuikei
昭和40~50年代には、漫画家も編集者も、戦争の体験を子供達に伝えなくてはいけないという使命感を持っていたと思います。赤塚不二夫さんやちばてつやさんらは大陸からの引き揚げ者でしたし、「ドラえもん」にものび太のパパが学童疎開体験を語る話がありました。@matsuikei
汐文社から出た時、大江さんが激賞したこともあって、ベストセラーになったんでしたね。うちの子が戦争に関心を持ったのも小学校の図書館に置いてあった「はだしのゲン」を読んでからでした。"@kanchan42195: 学校の授業ではなく、週刊の漫画雑誌からでした。@matsuikei"
大江健三郎さんの「ピンチランナー調書」のテーマである「核という巨大な暴力に対する最後の抵抗手段としての道化」は、「はだしのゲン」にも通じていると思います。大江さんは、「天才バカボン」を絶賛するくらいの漫画好きだそうです。@matsuikei
大作家で漫画が好きな人は多かったようですね。三島さんも、夜中に講談社にマガジンを買いにいったそうですし。「あしたのジョー」が読みたくて。"@kanchan42195: 大江さんは、「天才バカボン」を絶賛するくらいの漫画好きだそうです。@matsuikei"
あの時代のマガジンが、漫画のレベルを向上させましたね。学生時代、全共闘世代の教授に、「僕らは右手にマガジン、左手に(朝日)ジャーナルだったけど、君らは右手にマガジン、左手にジャンプだろう?」と嘲笑されました。@matsuikei
ですねえ。当時のマガジンがなければ、今の青年コミック誌はなかったでしょう。日本の漫画文化を作ったのは手塚治虫ではなく、マガジンですよ。怒られますけど(^^;"@kanchan42195: あの時代のマガジンが、漫画のレベルを向上させましたね。@matsuikei"
@gajatti42195 @kanchan42195 @gambaniihamaefc 今年の京都代表ですよね。初出場の頃は近隣の選手を集めていたのに、今はそんなんなんですね。
個人の才能を活かす意味で悪くないと思いますが、生活圏でしたが応援する気になるかというと、うーん(笑)
太田幸司さんは最近の青森山田高校や聖光学院の甲子園での活躍について、「うれしいけど、青森出身者がいないのがさびしい。」とコメントしてました。@tmad @gajatti42195 @gambaniihamaefc