井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

衣装かぶり

2018年12月11日 | 日記

このところ急にテレビに露出の増えた落語家さんが
私の手持ちの着物とだぶることが多く、察するに
誂えている店が私と同じところなのだろう。
どうも反物のチョイスも私と似通う。

私はこの数年、テレビには出ていないので衣装が
かぶってもどうということもないのだが、それでも
自分と同じ着物を人が着ていると微妙な心地。
女性はきっと、もっとナーバスなのだろう。

着物といえば、ノーベル賞の会場で
川端康成以来、半世紀ぶりに紋付き羽織を拝見して、
やはり日本人はこれが似合うなあ、と再認識したしだい。

私が着物に袖を通すようになったきっかけは何度か
書いたが、この間のローマ訪問とは別に、所用で
2,30年前に出かけたローマのホテルで見かけた
光景による。

たまたまオランダの女王陛下と同宿であったので
それなりの格式のあるホテルだったのだろう。
灯ともし頃ロビーで腰を下ろしていたら
夜会の一団が玄関から入って来て、とりどりの
イブニングドレスの女性たちをエスコートした
男たちのタキシードの堂々たる様、さすが
洋服の本場、こりゃあ日本人は洋装では追いつかないなあ、と
思い知ってからだ。

その数年後、ハリウッドのアカデミー賞にお招き
頂いたときは、だから和装にした。受賞者でもない単なるゲストが
羽織袴はおこがましいので、簡易な袴をつけるだけの
略装であった。

今どきの若者は体型も異なり、タキシードがそれなりに
合う人もいるようだが、私は和服を見るとほっとする。
外国人が否応なく国内にも増えて、マナーを始め
さまざまな日本的なるものが危うくなりそうな時、
日本の伝統を守る堡塁がまずは日本語であろうと思うが、
年年歳歳、国語が貧相になりつつあり絶えてゆく言葉の
数々が痛ましい。
だからお祭りの日など、若者が着慣れないながら
和服を着、浴衣で花火大会に出かける姿を
見かけるとほっとする。

グローバル化とやらに闇雲な反対はせぬし、もはや
潮流はとどめようもないけれど、民族の確立なくして
グローバル化はなく、ただデラシネ(根無し草)として
漂うだけのことである。

日本人は日本人でありたい。その先祖から紡がれてきた文化の矜持と共に。
固執するというのではなく、よきものは次代に
つないで行きたい。