引っ越しする母の
荷物の整理中
セピア色の写真が多数出てきた。
そこには、おさげ髪の18歳の母がいた。
三つ網を毎朝、祖母がしてくれていたという。
広大が文理大と呼ばれていた時代。
研究室で教授の手伝いをしていた頃
その教室にいた一人の男性に
恋していた母の姿がそこにあった。
その男性は、30代ですでに亡くなったと聞いた。
若き母の人生を、一枚の写真が語りかけている。
原爆投下の少し前の写真である。
それらを持ち帰って、
CDに収めるべく スキャンの日々。
はたして母はこのCDを見ることが出来るかといえば
それは 難しい。が
敢えて 私は この写真を
これ以上色褪せない形に留めようと思った。
この写真を通じて
子供たちや、孫たちに
自分たちを繋いでくれた人たちが
多くいたことを わかってもらい
命の大切さを理解してもらう
グッズの一つになればと思う。
荷物の整理中
セピア色の写真が多数出てきた。
そこには、おさげ髪の18歳の母がいた。
三つ網を毎朝、祖母がしてくれていたという。
広大が文理大と呼ばれていた時代。
研究室で教授の手伝いをしていた頃
その教室にいた一人の男性に
恋していた母の姿がそこにあった。
その男性は、30代ですでに亡くなったと聞いた。
若き母の人生を、一枚の写真が語りかけている。
原爆投下の少し前の写真である。
それらを持ち帰って、
CDに収めるべく スキャンの日々。
はたして母はこのCDを見ることが出来るかといえば
それは 難しい。が
敢えて 私は この写真を
これ以上色褪せない形に留めようと思った。
この写真を通じて
子供たちや、孫たちに
自分たちを繋いでくれた人たちが
多くいたことを わかってもらい
命の大切さを理解してもらう
グッズの一つになればと思う。