アタックに挑んだ8人の仲間が、目の前から忽然と消えた。クレバスに堕ち、死を覚悟したものの、著者はかろうじて生還する。13年後、友人が4遺体を氷河で発見するが、友もまた消息を絶ち、氷河に消えてしまう。死を悟り生を知ったミニャ・コンガの20年―。「魔性の棲む山」に逝った仲間たちへの鎮魂の物語
序章 未踏のミニャ・コンガ北東稜
第1章 十二人の第一次登頂隊
第2章 悲劇の始まり
第3章 行方不明となった四人
第4章 はかない命
第5章 雪に消えた遺体
第6章 山の神「薬王」
第7章 生きる理由
第8章 遺体収容
終章 死者の魂
コングール;7719m クンルン山脈最高峰
ミニャ・コンガ;7556m 大雪山脈最高峰
ムスターグ・アタ;7544m クンルン山脈第三位峰
磨西;モーシー
イ族
プマリ・チッシュ
マナスル登頂者;森美枝子
彼女は頂上アタックに参加することを拒否してC4に留まっていた。
「死んだ山の友達の顔が浮かんできて、登れば何か不吉なことがある、
どうしても登りたくないと思ったからだ」
1973年、京大学士山岳会、ヤルンカンに登頂
四川省成都からチベットに通じる川蔵公路
ソンヤッツエン峰
ピッケルが岩にあたる「カラン、カラン、カラン」という音の間隔から、藤原裕二がかなりのスピードで北壁へ滑落していったことがぼくにはわかった。
家族の写真をジャンバーのポケットに入れたままミニャ・コンカ北壁を落ちていったのだとぼくは考えていた。死の現実は、ぼくにはまだ遠い存在だった。
普通なら下りるのは、一度に1人である。
1人が下の確保者まで下れば、カラビナをザイルからはずし、自分の安全を確保、全員が揃うのを待つ。ところが、5人は同時にカラビナをザイルにかけ、連続して下りてきた。
時間は17時になろうとし、早く下山をしたいという焦り。
固定ロープにユマール;登降生をかけて、1ピッチに何人も入って登下降する習慣、高度障害による思考力の著しい低下もあったはずだ。
登降器;ユマールはザイルを挟み込む部分に突起があり、上方に進むときはスムーズに動き、下方に動こうとすると突起の摩擦力で停止する。
下降する隊員たちは、カレビナをかけていたのか、ユマールをかけていたのか、今となってはわからない。もし、ユマールをかけていたならば、足を滑らして転んでも、体重がユマールに加わった段階で停止できたに違いない。
視界に、動くものを感じ、顔を上げた。
数人が雪壁を滑落していく。
一瞬のうちに下降を待っていた隊員たちの足元のザイルが落ちていく隊員たちの重量でピンと引きつり、立っていた者たちを次々になぎ倒した。
恐怖に驚愕した彼らの顔。恐怖の目。
見たこともない形相だった。しかし、誰も声をあげない。
すでに6人の隊員がザイルにつながったままミニャ・コンカ北壁へと滑落している。
ザイルの弛みがなくなった瞬間、中嶋正博が跳ね飛ばされた。
その直前、彼とぼくは視線を合わせた。
驚愕と恐怖、死の世界に引きずられていこうとする彼の眼差し。
7人が落ちていく。
誰も絶叫しない、無言のまま滑落していく。
ある者は仰向きになり、ある者は横を向き、ある者はうつぶせの状態で1本のザイルにつながったまま滑落していく。7人は、どんどんスピードを速めて視界から遠ざかる。標高差2千数百mのミニャ・コンカ北壁が、その先にあった。
1981年5月10日、17時20分。
奈良憲司;「あー、アブさん1人残して、あと残り全員、落っこっていく。
われわれの目の前、北壁の方に全員、落っこっていってしまった」
「われわれの目の前を確実に転がっていきました。間違いなく落ちてしまいました」
高所でビバークして体力が衰え、高度障害が進行すれば、正常な行動力、思考力が失われるに違いない。高所でビバークしたあげく、死亡する遭難事例をたくさん知っていた。
黒い点々が雪の扇状地に散らばっている。
滑落した8人の遺体と遺留品に違いない。
8人の手袋、帽子、ジャンパーなど軽いものがデブリの上に散乱していた。
ジャンパーがどうして体から脱げたのか。信じられなかった。
2千数百m落下した衝撃の凄さなのだろう。
死者の怨念が漂う「魔性の山」、それがミニャ・コンガだ。
ヤンズーゴー氷河からの北東ルートは、決してやさしくない。
北海道山岳連盟隊の遭難者8名の遺体は、収容できないまま北壁基部の雪の中に放置されていた。
1994年 - 日本ヒマラヤ協会隊の4名が行方不明
「大変よ、福沢さんたち4人が遭難しました」
1952年から95年の44年間に6,000m以上の高所登山で遭難死した日本人の数は231人。
そのうち雪崩の犠牲者は115人、49,8%
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます