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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

太陽のかけら ピオレドール・クライマー谷口けいの青春の輝き

2021年10月17日 14時26分00秒 | 読書・登山


大石明弘/著

クリスマスイブに
アドベンチャーレース
はじめてのヒマラヤ登頂
小・中学校時代
極限の壁から八〇〇〇メートル峰へ
アメリカ留学
女性初のピオレドール賞
自転車と文学と山と
さらなる難壁へ
新たなる旅
パンドラ

インドのガンゴトリ山群にある難峰シヴリン;6543m
「それにしてもとんがっているわよ。
雪も多い。見れば見るほどヤバそうな山だ」
威圧的なシヴリン北壁

≪壁があまりに近くて恐ろしい。北壁だけは光も当たらないので、ますます恐ろしい様相だ。登るラインを何度も何度もイメージしながら北壁を見る。見れば見るほど恐ろしい≫
≪私は、私たちは登る。スタートしたら、やり直しなんてないのだ。目的地を目指すのみ。目指して登れない山なんてない。≫

しかし、シヴリンの壁といえば、世界トップクラスのクライマーたちが夢見る難壁である。
≪午後の間、何度も何度もルートを見上げる。こうしてずっと一緒にいると、あの壁と自分の距離が近くなっていく気がする。こういう時間が好き。お互いがわかり合える気がする。≫
翌朝は傾斜60度の雪壁をダブルアックス。
「すごいね、まわりの山が全部尖っているよ」
「シヴリンだって尖っているよ」
「テレイ・サガールも見える」

下降も困難を極めた。
ベースキャンプに到着した直後の2人の写真を見ると、背を屈め、水分を最後の一滴まで絞り取られたボロ雑巾のように弱々しい姿だった。だが目だけは輝いていた。
翌日、平出は足の指の異変に気がついた。
黒く腫れ上がり、重度の凍傷になっていた。平出はポーターに背負われて先に下山。
この凍傷で平出は右足の指4本を部分的に失うことになる。
けいも、切断こそ免れたが足指に重い凍傷を負っていた。

車椅子で運ばれてきた平出は病院に直行した。
けいも足を引きずっていた。
それから数ヶ月、けいは療養のために実家に滞在した。
凍傷で実家にいる間、けいは友達の家に行ったり読書をしたりしていた。
その束の間の安息は、野口健からのマナスル遠征の誘いの電話で終わることになった。

けいはノートにこんなふうに書き記している。
≪マナスル?そんな恐ろしい山、行きたくない。まだ命が惜しいもの。
マナスルから想像するのは、雪崩の山というイメージだ。あの小西政継さんも飲み込んでしまった山。その後も、健さんからマナスルの話をされるたびに、さりげなく断っていた。
まだ死にたくないし≫
鉄の男といわれた小西政継が1996年にマナスルで遭難している。

国内の山で何度も行動を共にした松尾洋介が谷川岳で遭難してしまったことが、マナスルへの気持ちにブレーキをかけていた。
「朝、谷川岳まで行ってきた。一ノ倉の近くまで行ってビールと花を上げてきた」
≪大切な仲間を亡くしたことが、これまでに体験したことのない恐怖となって私にまとわりついてきた。そのストレスと連動するかのように昨年に負った足指の凍傷がまるで癒えようとしていなかった。それでも私の心の底は、行くなとは言っていなかった≫

遅々として進まないマナスルのゴミ拾いとは対照的に、若村麻由美たちの富士山では3トン以上のゴミが回収されていた。

「50年前、日本人が初めて登ったマナスルというこの美しい山の頂に、私も立ってみたい。8136mという私にとっては未知の高みにたどり着いてみたい。ペンバ・ドジルとカジという大好きな仲間と共に、あの高みに登り着いてみたい。彼らと一緒だからこそ登りたいし、彼らとなら登れる気がする」

「登頂したよぉー」、青空が素敵!」
≪約束どおり、3人で立った頂上。ほかには誰もいなかったし、風もなく、太陽の日差しだけが暑かった。いやいや、私たちの心も熱かった。日の丸の赤と、ネパール国旗の赤もヒマラヤの空に燃えた≫

けいが登頂する一方で、野口も222kgのゴミを回収した。
エベレスト清掃活動で7トン以上ものゴミを回収してきた野口にとって、それはけっして満足のいく結果ではなかった。
「日本人が私たちの山をきれいにしてくれた。次はわれわれの番だ」
との掛け声で、サマ村の一斉清掃が始まったのだ。わずか半日だったが、集められたゴミの量は5トン強になった。

「けいさん、酸素がないから寒いんだよ、酸素を吸う?」
マカルー、ローツェといった巨峰も、もはや眼下にあった。
けいはシェルパたちと世界最高峰の山頂に立った。
同時に登頂した21歳のパサン・ラムは、シェルパ女性で北側からの初の登頂者となった。
彼らにとってもチョモランマは新たなスタートの場所となった。
≪8000mオーバーでの酸素
なんで私、酸素吸っちゃったんだろ
なんで、って寒かったから。強い意志がなかったから。
大切な人に守られすぎていたから。≫




カラコルムのゴールデン・ピーク;7027m
スパンティク;ゴールデンピークとして知られる最も有名な山
ライラ・ピーク:6985m
ムスターグ・アタ;7564m
カメット
ガウリシャンカール
ナムナニ
シスパーレ

キンヤン・キッシュ;7852m

1979年生まれの平出はけいより7歳年下で、東海大学山岳部出身のクライマーだ。
山麓に点在する村々を渡り歩き、2ヶ月にも及ぶトレッキングの最後に、平出はゴールデン・ピーク(スパンティク)を見つける。山頂からゴールデン・ピラーと呼ばれる大きな岩壁が薙ぎ落ちるその山は、夕日を受けると金色に染まり、まさにその名前そのものだった。

グランド・ジョナス北壁ウォーカー稜

「私、これ(ゴールデン・ピーク(スパンティク)行きたい。行くから」
けいさんは、登山以前に、パキスタンという国自体に魅力を感じていたのだと思います。

パキスタンの首都イスラマバードに着いたのは2004年6月上旬、入国するとすぐにけいは、イスラムの女性が被るショールを買ってきた。
≪太陽がギラギラ。でも太陽の恵み(マンゴー)は素晴らしい!果物がおいしい!≫

ベースキャンプまでのアプローチには
ウルタン
ディラン
ラカポシ
などカラコルムの名峰がひしめいていた。
けいは四囲に広がる氷と岩の一大スペクタルに何度も見入っていた。

見上げたライラ・ピークは、急峻な斜面が山麓から頂上まで休みなく続いていた。
ジェットコースターの急角度の部分が、永遠と空に向かって延びているようなイメージだった。滑ったら、もちろん「絶叫」だけではすまない。
いくら眺めても、その傾斜に休める場所は見出せなかった。
出てくる言葉は「ヤバイね・・・」ばかりだった。
トンガリ山であるライラ・ピークの山頂は狭かった。

ムスターグ・アタ;7564mの手前には、中国西の果ての神秘の湖と謳われるカラクル湖(タジキスタン)がある。草木の生えない荒涼とした岩砂漠に、深い蒼色の水を湛える広大な湖だ。

小金高校は千葉県で上位に入る進学校で、その校風は自由に満ちていた。
数学や物理にはまったく興味を示さなかった。
けいは山岳部に入ったが、すぐにやめてしまった。
「先輩とうまく折り合いがつかないのと、協調性がないのとで、1回の山登りだけで退部しました」
体育の集団競技は、とりわけ嫌っていた。普通の生徒が疑うことなく乗っている高校生活のレールを嫌い、それには絶対に乗らないというような姿勢があった。

けいはすぐに家に帰っていた。
喘息のある弟の面倒を見て、愛犬の散歩をし、そして夕飯の下ごしらえをしているようだった。
部活に打ち込むことも、勉強にも熱心でなかったけい。

「3杯食べたら無料」のラーメン屋で完食。「3杯、楽勝!」
まず高校2年の夏休みに、北海道を10日間ほどかけて1周した。
食事は公園で、よくフランスパンにきゅうりとトマトを食べた。




登攀二日目、ものすごい勢いで単独で登ってくる人がいた。
「東北の和田淳二です。けいさんと大石君だよね」

けいは「和田君は独りで剱尾根登るの?マジで!すごい!
でも、その装備は少なすぎない?私たちと一緒に登ってもいいよ」
少ない装備で来た和田が言った。
「やっぱり、僕、独りじゃ、ここは無理でしたね」。
けいはすぐに、「でしょ!やっぱり私たちと組んでよかったね」
とうれしそうに応じた。

和田は山形県で林業を営んでおり、雪の中、チェンソーなどの機材を背負って歩くことも多いという。どうりで体力があるはずだ。
和田からは、アフリカで植林をしていたことがあるとか、東京の都心の高層ビル群でロープにぶら下がり窓拭きをしていたとか、独りで東北の山の岩壁を開拓しているとか、面白い経験談が次から次へと出てきた。
少年のような明るい表情と目をしていたが、その話から経験値は高そうで、年齢を聞いてみると、けいより3つ年下の36歳だった。

剱尾根は雪と岩がミックスしたルートで・・・
剱岳山頂に着くと、黒部の谷と尾根が春の日差しを受けて眼下に広がっていた。
この尾根と谷をつなげて、いつか黒部横断もやってみよう、そんな会話を山頂で交わした。
けいも和田も豪快な笑顔をみせていた。
三人で記念撮影をすると、和田は「じゃあ、またどこかで」と言って、私たちの下降路とは違う方向にものすごいスピードで下山していった。あとで知ったことだが、和田は下山したのではなく、この直後、さらにもう1本登ったのだという。
だが、おそらくこのとき、まったく違う感情をけいは和田に抱いていたのだ。

馬場島から小窓尾根に入山

チンネとは、三ノ窓近くの稜線上にある岩塔である。

「そうだ、あしたはシロエビを富山湾の市場に買いに行こう!」
やはり、けいは生粋の「旅人」なのだな、とそのときは思っていた。
けいの交渉術によりシロエビを安く買うことができた。
さて、それをどこで食べるのかと思っていると、こんどは、
「そうだ、和田君たちはいまごろ馬場島に降りているころだから、これを一緒に食べに行こう!」

シロエビを持って突然現れたけいを見て和田たちは驚いていたが、けいは、
「下山して、ちょっと時間があったから富山湾まで行ってきたんだ!」などと言っている。
けいが圧倒的な目力でこちらを見てきたので何も言えなかった。
東北のクライマーたちとそこでシロエビを醤油で食べたのだが、けいは満面の笑みを浮かべてしっかり和田の隣に座っていた。
けいは「旅人」や「クライマー」であるとともに「女性」だったのだと、はじめて気づいたのだった。

2013年秋、平出とけいはシスパーレ;7611mに向かった。
平井ではそれまで過去2回この山にトライし、2度とも7000mに届かずに敗退していた。
けいと組んだ今回は、「3度目の正直」を期していた。

山頂まで4000mも標高差があった。
直感を排除し、客観的な視点でみても頭上のセラックは危険すぎた。
ヒマラヤ登山においてはまだスタート地点ともいえる標高5500m付近での敗退となった。
結果的にこれが、平井とけいの最後の遠征となった。

帰国すると2人は小金井のアパートに戻ったが、けいはまたすぐ1人で出かけていった。
「けいさんはいつも、きっちりしすぎていました。濃厚な人生を歩んでいたからこそ、いつ死んでもいいように、やりたいことをいますぐやるという人生で、生活にもそれが現れている感じでした。けいさんは無駄な時間を作らない、濃密な生活を過ごしていました。普通の生活でも一瞬、一瞬を大切にしている感じで、そういうのを貫いた人生でした。近くにいたけれど、ある意味、憧れの存在だった。生き方に憧れていた」

石井スポーツを拠点に毎年遠征を繰り返していた平井では、2014年から山岳カメラマンとしての活動を本格的に開始する。その背中を押してくれたのは、やはり、けいだったという。
「やりたいことがあるなら、会社を辞めてやればいいじゃないの」
大手テレビ局の山の番組を撮影をすることとなり、幸先のいいスタートを切ることができた。

環境に配慮したアウトドアウエアを作ることで知られるパタゴニアのアンバサダーになる。
アンバサダーとは「大使、使節」という意。
パタゴニアは1993年に使用済みペットボトルをリサイクして作ったフリースを開発。
1996年にはすべてのコットン製品をオーガニックコットンに切り替えている。

けいと剱岳の馬場島でシロエビを一緒に食べた翌月、けいはいきなり山形に遊びにきた。
普段は林業を仕事としている和田だが、その日はいつもと違い、同僚たちとサクランボの収穫をやる予定となっていた。そのことを話すと、「なにそれ!私もやってみたい!」と活き活きした目で和田を見つめてきた。
だがけいは、慣れた手さばきで次々とサクランボを収穫していった。

その後もけいは、毎月のように遊びにきては山菜取り、たけのこ掘り、キノコ狩り、芋煮会とさまざまなことに興じた。
けいが来る前はいつも、まず自分の日程を提示してきて「そこに合わせなさい!」といった雰囲気だった。

東北の山には名渓が多い。
沢登りの経験が乏しかったけいに、和田は沢登りを教えた。
突然、沢登りの道具を揃えはじめたけいを東京のクライマーたちは不思議に思っていたが、すべては和田の影響だった。

1975年生まれの和田は、「知る人ぞ知る」クライマーだった。
剱岳には12歳のときに登頂している。
高校では迷わず山岳部に入部。
山好きが嵩じて、大学は山形大学農学部生物環境科を選んだ。
同大の「自然に親しむ会」に所属し、朝日連峰、飯豊連峰など近くの山域から北アルプスなどの高山まで各地の山々を登った。

2014年までに東北最大級の岩壁、黒伏山南壁に4本のルートを開拓していた。
その和田にけいは、一緒にデナリ・ルース氷河の未踏壁を登ることを提案してきた。
「氷河の上で毎日自炊するのは絶対楽しいよ!」
と、けいはベースキャンプ生活のことを強調した。
壁の登攀については、軽いノリで「行けるところまで行けばいいよ!」という感じだった。

アラスカに着いてからも、けいは登攀の準備より、ベースキャンプで作る料理の具材選びに余念がなかった。
本は、お互い何冊も持ってきていた。
偶然にも夏目漱石の『草枕』を2人とも持ってきたときは笑ってしまった。
そして工夫を凝らして料理を作った。
多くは日本食で、チラシ寿司だったこともあった。

2人は合計で4本のルートを開拓したが、2本目以降のルートもクラシック音楽にあやかり、
「コンチェルト」「協奏曲」「ノクターン」「夜想曲」「ソナチネ」「奏鳴曲」
と名づけていった。
音楽と読書、そして登攀の氷河生活は38日間に及んだ。
2人の記録は2014年の「ピオレドール・アジア」に輝いた。
けいはこれで「本家」と「アジア」のダブル受賞となった。

アラスカから帰ったら、東京を離れ、自然の中で田舎暮らしをしようと、けいは決めていた。
けいの友人で、パタゴニアのアンバサダーの今井健司、横山勝丘、加藤直之はすでに八ヶ岳南麓の北杜市で田舎暮らしを始めていた。
彼らと同じ森にけいは家を探し、小さな木造家屋を見つけた。

ムスタンのマンセイル;6242mという未踏峰に目標を定めた。
「私自身、ムスタンを訪れたことがなく、1991年に開放されるまでムスタン王国として外国人入域が禁止されていたという魅惑の地であった。
そして、2014年夏、42歳のけいと20代前半の女子学生たちはネパールのムスタンへ旅立った。

ムスタンは交通機関が発達しておらず、目的の山にたどり着くまで10日以上も村から村へのトレッキングが必要だった。
けいは「このお茶は、普通、ムスタンでは売っていないものだよ。貴重なものを出してくれたんだよ」
「今回は自分にとってもチャレンジだった。知らない世界に一歩踏み出してみたいという学生たちの気持ちを、どのようにサポートするか。それが私の挑戦だった」

過酷なアルパインクライミングやアドベンチャーレースを行う一方で、ハイキングが好きなのもけいの不思議なところだった。
ゆるい坂道の森を歩いていると、桂の大木があった。

堅く強そうな樹幹から無数の枝が夏の青空に向かって伸び、ハート型の葉がそよ風に揺れていた。それを見ながらけいが、唐突に言った。
私の名前の桂という漢字は、この木からきたんだよ
だが突然あっけらかんと、「けい」は「桂」なんだよと説明してきたのだ。

けいの没後、日本山岳会の会報「山」849号は、けいの本名についてこう触れていた。
≪中国において桂は、「月の中にある理想」を表す樹木とされ、それは常に前向きであった谷口の人生そのものだ≫

ほとんどの山仲間もけいが「桂」であることを知らなかった。
一方、高校以前の仲間にとっては彼女はもともと「桂」だった。

けいの家に遊びに行ったのは2015年2月。
冬枯れの森の背後には、八ヶ岳の主峰である赤岳がそびえていた。
こぢんまりした木造2階建てで、小さなリビングは薪ストーブで暖められていた。
ガスコンロはあったが、けいはほとんど薪ストーブだけで料理をしていると言っていた。
お茶を片手に2階に上がると、窓からは雪を抱いた南アルプスの北岳が遠望できた。

八ヶ岳山麓の小ピークである天女山にトレーニングで走って登る・・・

「植村直己冒険賞をもらってほしい」
けいは「女性で頑張っているから」という理由ではもらえないと説明を始めた。
「自分の中で、これをやり切りましたというものがあるわけではない。私は旅の途中なんです。そんなときに、こんなに尊敬する植村直己さんの賞をもらうことはできない。いまは、まだもらえる段階じゃないんです」

毎年2月、植村直己冒険賞の受賞者の名前はテレビや新聞で広く報じられる。
だが2015年は、ネットニュースにこんな1文が小さく出ただけだった。
「植村直己冒険賞:受賞者ない;候補の女性冒険家が辞退」
けいだったとは、世間に知られることはなかった。

けいは和田淳二のところへ何度も通った。
けいは、これまでとは一線を画した遠征計画を考えていた。
彼らが目指したのは、ネパール・ヒマラヤのパンドラという山だった。

アウトライヤー東峰;7035m

「萩原浩司さん、この山、なに?ちょっと気になるんだけど」
その山は、マカルー、ローチェ、エベレストと8000m峰が連なる遠景の手前に鋭く頭をもたげていた。
「ああ、それはパンドラ。たしかまだ未踏のはずだよ」

「2015年の抱負」
≪常に先のことを考えて、今を生きる
毎日うたう、よむ、きく、わらう
好きな自分でいたい
行きたい方向を見ていれば
自ずとそちらへ向かっていけるのだ≫


けいは、パンドラ遠征の詳細をネットに載せなかった。
おそらく、翌年にもう一度挑戦し、登頂したあとで報告をしようと考えていたのだろう。
だが、それが叶わぬまま、帰国の翌月にけいは黒岳で運命の日を迎えてしまう。

「パンドラ」はネパール語で「15」を意味する
ギリシャ神話に出てくる「パンドラの箱」とは関係がない。

2014年のアラスカ遠征後、けいはより頻繁に東北に来るようになっていた。
東北の山でも、笑いが絶えなかった。
だがパンドラでは、少し2人に温度差があった。
10日間ものキャラバンを経て見上げたパンドラは、ばっさりと切れ落ちた氷と岩の巨壁を露出させ、アラスカの山とは違う威光を放っていた。
「うそだろ。これ登るのか?」
しかし、けいは
「もらった!これは行けるね!」
と言って壁に指を向け、「あのラインだね」。
そこは、和田にはとうてい行けるようには見えなかった。
和田はけいとの経験の違いを感じずにはいられなかった。

上半身を全力で使うと、酸素が足りないからか頭の芯まで痺れてきた。
夕方、疲労困憊のなか氷の斜面を削って張ったテントは3分の1が空中に浮いていた。

そう思うと次は、頭の中を「絶対無理」という文字が点滅しはじめてしまった。
「これは無理ですよ」
「うーん・・・、どうかな。リッジは無理だけどね・・・。北壁側に回り込んでみるか」
「いや、さっきオレ、北壁見たし。そっちは無理でしょう」

「うそだろ。行っているよ!」
和田は驚愕しながらビレイをした。
だが、フォローしてきたけいは、登り続ける姿勢をまったく崩していなかった。
上部を指して「あの辺が平らそうだから、今夜はそこでビバークできるよ!」と言う。
「絶対、うそだ」と和田は思った。
平らな部分などまるで見えず、垂直の氷の世界が広がるばかりだったからだ。
寒さで手足の感覚がどんどんなくなっていった。
帰るならいましかないと和田は思った。
そしてけいに、諦めたいと告げた。
「えーー、降りてもいいの?本当に後悔しない?」
「いや、後悔はするかも。でも死んだら後悔さえできないんですよ」
そう返した瞬間、けいは怒った口調で言った。
ハア?わたしはこんなところでは死なないよ!

「本当にすみません。おれ、じつはかなり後悔しています」
「えっ、マジ?いやー、それは聞きたくなかったな!」
と何度も繰り返した。だが、会話の最後にこう言ってくれた。
「ねえ、もう一回来ようよ」
その言葉に和田は涙を流していた。けいも涙声で続けた。
「これはあたしと和田君の山だからさ」
そして、けいは和田の腕にしがみついてきた。

同時期に同じネパールのチャムランに単独でトライしていた今井健司;33歳が滑落死したと知らされた。けいが北杜の森に引越しをしたのは、今井が近所に住んでいるという理由もあった。2人は切磋琢磨しながらアルパインクライミングを続けていた仲だった。
「和田君、いつかチャムランも登りにいこうね」
そう言って、こんどはしっかりと抱きついてきた。

映画「エヴェレスト 神々の山峰」で今井から登山指導を受けた俳優の岡田准一は、今井の妻と息子を励ますために仲間を集めてハイキングを企画した。
するとけいの家には、けいが嫌いだと言っていたさだまさしの曲が流れていた。
以前、けいは「うそっぽくて嫌い」と言っていたはずだ。
見ると本棚には彼の著書もある。
「この歳になると心に染みる」と返してきた。
後日知ったことだが、さだまさしは和田の好きな歌手だった。
その一ヵ月後の12月21日に、まさかけいが滑落するなど考えてもいなかった。

返信を読んだのは南アルプス甲斐駒ケ岳の駐車場に下りたときだった。
前夜、テントの中で書いたものだった。
≪北海度に来ています。いま、テントを立てたところ。
明日は、はじめてのスキーを背負った登攀
黒岳山頂からスキーで下る予定で、
とっても不安です


和田はスキーもできるクライマーだ。
月山から朝日連峰をスキーで100km縦走したこともあった。
その記録を知ったけいは、「それはすごい楽しそうだね!」と言ってきた。
和田が次は吾妻連峰を狙っているというと、「私も一緒に行けるかな?」と返してきた。

「まだわからないんだけど・・・」
と前置きをしたあとで、花谷泰広からけいが滑落したことを伝えてきた。
「状況を考えると、厳しい・・・」

「いつものけいちゃんなら、絶対に行かない場所だった・・・」
けいが落ちたと思われる黒岳沢に向かって懸垂下降した。
そこでもビーコンの反応はなかった。
翌朝、再び黒岳沢を下降した。
けいは、頂稜から700mも下の谷の底に横たわっていた。
「けいちゃんがあの崖の縁に行ってしまったことが、いまでも悔しい・・・」

「私は後悔なんかしてないんだからねって言っている」
「やりたいことはやってきた。だから後悔なんかしていない。
もちろん、やりたいことはまだあったけどさ。けいはそう言っている」

山頂の北側は、けいが落ちた断崖絶壁だ。

平出和也のシスパーレ登頂
けいと行って敗退したその山に、平出は中島健朗と再挑戦していた。
雪崩をかいくぐり、テクニカルな岩壁を越え、山頂直下まできたとき、平出は極限状態に陥っていた。「これまでやってきた登山の中で一番つらい。足が・・・、止まって動かない」
平出はそのとき、もう一人の存在を感じていたという。

「けいさんと新しい山頂が登れて、嬉しいです」
吹きすさぶシスパーレ山頂で、平出はそう言いながら、けいの写真を埋め、静かに両手を合わせていたーー。

和田は朝日連峰の見附川支流の高松沢の谷底で動けずにいた。
大声で叫び、意味にならない言葉を発し続けていた。
気を失いそうなほどの痛みだった。
そのときふと、けいの姿が脳裏に浮かびあがった。
けいさん、何が言いたいんだ?と和田は思った。
次に唐突に思ったのが、けいも、摑んだ潅木が折れたから落ちたのかもしれないということだった。もしかしたら、それが言いたかったのか?

なにかのやり取りでけいさんに
「普通ってなに?みんな普通は、普通はって簡単に言うけれど、普通でいいの?
普通って言葉で安易に逃げているだけでしょ!そこには自分はないでしょ。
野口健さんは本当は何がしたいの?普通はって、健さんらしくないよ」と。

「私はね、健さんの『落ちこぼれてエベレスト』を読んでものすごく感動したの。健さんの反骨精神に心が動かされたの。用意されたレールに乗って走る人生ではなくて、自分でレールを敷いて走る。レールがなくなればまた自分でレールを敷くの。健さんのそういう生き方に憧れたの」

けいさんはエヴェレストアタック2次隊で、まず第一次隊の僕と平賀淳カメラマンが登頂した。気づけばけいさんに無線連絡していた。
「歩けない人がある。しかし、この状況では下ろすことができない。いま、一緒にいるけど、どうすべきか」と。少し間があり、けいさんから「健さん、気持ちはわかります。ただ健さんの酸素ボンベにも残量の限りがあります。健さん、ただちに下山を開始してください」。
その直後にその人は僕の胸の中で息を引き取った。
呆然とし放心状態だった僕に、「健さん、聞こえているの?聞こえていたら返答してください!聞こえていたら、いますぐ下山を開始してください!健さん、生きて帰ってきてください!」

ジリジリと虫眼鏡で1点を焼くように、実直に生きた。
眩しいほどに輝き、皆に光をあてた。けいさんは僕らの太陽だった。

ガッシャブルムⅡ峰;8,034m
ブロード・ピーク;8051m
カメット;7756m南東壁

「私も行くから、もちろん」
「カメットの壁の写真を見た瞬間から、これはシヴリンよりも難しい登攀になるだろうなと直感的に思いました」

2008年9月1日、けいと平出はカメットのベースキャンプに入った。
実際の壁を見るまでは本当に登れるか半信半疑だった。
「行けそうだね・・・」
ノーマルルート上の7200mまで登った。
振り返ると、隣峰のカランカ、チャンガバンといったナンダ・デヴィ山群が目に飛び込んできた。そのときカランカ;6931mでは、同世代のクライマー、佐藤裕介、一村文隆、天野和明の3人が未踏の北壁に挑戦していた。
彼らは第17回ピオレドール(金のピッケル)賞を受賞した。

クーラ・カンリ;7538mにも同時期に日本隊が挑戦していた。
そこでも降雪があった。そして、加藤慶信、有村哲史、中村進が登攀中に雪崩に巻き込まれて行方不明となる惨事が起きた。

≪きょうは壁がよく見えている。取り付きらてっぺんまで。やっぱど真ん中を登りたい。ダイレクトラインを引きたいなー。イケるよ!壁を眺めているうちに平出君も行けそうだと言ってくれた≫

≪やっぱり長い。酸欠で何度も死んじゃうかもって思った。
もう一人誰かいる気が何度もした。
誰?まだ呼ばないでね。こんなに苦しいのははじめて。一人じゃ歩けない≫

けいが見ていたのは「サードマン」と呼ばれる現象だったかもしれない。
「サードマン」とは昔から極地探検、海難事故による漂流、大災害などの現場で人が生命に関わる極限状態に直面したときに見られるとされている現象だ。
そのサードマンから激励や生存のための具体的な指示を受けたケースもあるという。
≪第三の人間の存在は非常に鮮明で現実感があった≫ 『ビヨンド・リスク』

1993年4月、明治大学文学部史学科に入学したけい。
日中は自転車による配達業の会社でアルバイトをし、夜は大学の講義に出ていた。
旅費だけでなく学費も自分で稼いでいたので、けいはいつも貧乏だった。
財布に小銭しか入っていないことを「けい状態」と言っていた。
住んでいるアパートも取り壊し寸前のような木造アパートで、とても女子大生がいる場所とは思えなかった。部屋の中は、必要最低限の生活用具と生活用具と本しかなかった。
盗まれるものなどなかったからか、けいはいつもドアに鍵すらしていなかった。
それをさらけ出していつも堂々としていた。

けいが明治大学サイクリスツツーリングクラブの合宿に参加すると、男まさりの体力で、ぶっちぎりで自転車を走らせていた。
「もう誰も、女として見てませんでしたよね」

けいは3年生の6月、東京から糸魚川まで300kmを走るファストランレースに参加。
多くの男子を引き離し、3位でゴール。

「モ、モロッコ!アフリカやろ?」
4年生の夏休みに日本を旅するかのようにモロッコの砂漠を走ってきた。
卒業前には同期とニュージーランドで合宿。
「大学5ヵ年計画」「留年のすすめ」
数々の合宿に参加できたのも、数回にわたる不本意な事故による保険金その他のおかげであったといっても過言ではなかろう。

けいのオートバイは黒のSUZUKIバンディット250で、メンテナンスは全然されていなかった。『かもめのジョナサン』
「この本を読むまで、あたしはこれまでいつも普通って何だろうって悩んできた。でも、食べることに夢中になるんじゃなくて、何よりも速く飛ぼうするかもめがいてもいいんだ」

大学3年の春休みに鈴木勝巳とけいは、沖縄をオートバイで旅した。
モロッコから帰国後けいは、アフリカで出会った自由のない女性たちを素材に、人間の自由についての卒業論文を書いた。

けいが本格的にアルパインを始め、デナリに登頂したのは28歳のとき。

それまで以上の激しい登攀をこなしていった。
12月の八ヶ岳から始まり、年末年始には大喰岳西尾根から槍ヶ岳西稜の登攀。
厳冬期には錫杖岳前衛フェイス、明神岳などの岩壁に通い込み、雪が安定した時期になると戸隠や谷川岳などの氷雪の難ルートに向かった。
さらに晩冬には、北岳バットレスの日帰り登攀を行っている。

2008年のカメット南東壁初登攀でピオレドール賞を受賞した2人の次の目標は、ロールワリン・ヒマラヤの峻https://blog.goo.ne.jp/admin/entries峰、ガウリシャンカール;7134mだった。
平井ではこの山を、空撮の写真集から見つけた。
「あのときは、本当に笑って敗退したんですよ」

「ただ生きるだけでもエネルギーは使うけど、私はぜいたくなのでどうせ生きるなら一瞬一瞬を
欲張りに生きたいなと思っています。未知の世界って、すごく人を惹きつける力があると思うんだけれど、そういうところに一歩踏み出せるかどうかっていうのは自分にかかっているし、踏み出したか踏み出していないかで、世界の広がりも変わってくるじゃないかな、と」

東日本大震災当時、けいはタスマニアにいたが、帰国するとすぐに宮古市にテントを持ち込み支援活動を行った。

北米最高峰デナリ;6193m

それより2年前、カヒルトナピークスからデナリ・カシンリッジの縦走を目指した彼らは、デナリ山頂を目前に行方不明となってしまう。山田達郎27歳、井上祐人24歳だった。

ナムナニ南面から頂上を踏むと、聖山カイラス(冈仁波齐峰)の雄姿が飛び込んできた。
チベット仏教の大聖山だ。
その隣にはマーナサローワル湖(玛旁雍错)。
赤茶色のチベットの大地で、その山の白さと湖面の青さが鮮やかだったーー。
標高4556メートルの湖は、世界で最も高い淡水湖であり、中国で2番目に大きな淡水湖であり、湖の透明度が最も高い淡水湖


カイラス山・・・標高6656mの未踏峰。信仰の山であるため、登頂許可は下りない



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