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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

二口林道 山形県道62号線 (ゲートあり通行止め)探索

2013年07月10日 11時17分17秒 | 登山
山寺 立石寺






以前 小東岳に上る途中 猿鼻山から撮影した山寺


山寺から車で5分も行くとゲートがあり、通行止め
ここから宮城県側のゲートまでひたすらアスファルトの道を歩きます。
地図みる限りでは6キロくらいの行程。




南面白山


大東岳が右に少し見えます。




南面白山、猿鼻山


左から順番に南面白山、猿鼻山、小東岳、のはず


お猿さん、発見!!


うちの爺さんとそっくりww




いまからここのグネグネした道を登っていきます。熱いぜ。


猿鼻山


小東岳、結構先端部分が尖がってるなぁ、


以前登った小東岳の山頂




左から南面白山、大東岳、猿鼻山、小東岳のオンパレード



南面白山






手前が水晶山、奥に甑岳(たぶん)


宮城県側のゲートに到着、2時間弱要した。






栗の花・・・秋になれば栗が沢山拾えそう。穴場かもしれん。栗の味はどーだろ?




登り口の標高、地図でみる限りでは660M
宮城県側の標高が1025M
草刈してた人が2名、測量してた人も2名
通行止めになってるのに、草刈しているのは税金のムダですなぁ。
彼ら、ダレの目にもつかないから、適当に休憩pkpk

この場所をいちど探索してみたかった、だけの今回の行動。
森林浴するにはいい場所。虫もほとんど気にならない。
お猿さんとも2回遭遇したが、群れをなして行動していないようだ。
オイラの家の○○畑には群れで40匹以上いる。
ほとんど人間が通らないアスファルトの路なので
お猿さんたちも、イノシシさんたちも、熊さんたちも
年に何回か運動会でもして、いそうな雰囲気。
見たこともない、う○こ があちこちにたくさん、あった。

下記の写真が6月23日に小東岳から撮影した二口林道
ここを歩いたってことです。






2021.6.14記


子規が作並に宿をとった頃は、この温泉には岩松旅館がただ一軒あったという。

明治10年、山形県と宮城県を結ぶ峠越えには
笹谷越
二口越
関山越
銀山越;母袋街道
小国越;堺田街道

東北本線は明治20年に開通しており、奥羽本線の山形駅が開通したのは明治34年であるので、山形の人々が上京するには関山峠を越えて作並温泉に一泊し、翌日に仙台駅から上野にむかっていた。だから子規が東北本線を利用し、仙台から関山峠を越えて出羽の国に入ったのは当然の道順である。

8月6日は晴れ
「山深うして一歩は一歩より閑かに、雲近うして一目は一目より涼しげなる。
蝉の声いつしか耳に遠く一鳥朝日を負ふて山よ山に啼きうつる、
樵夫の歌かすかに其奥に聞えたり」

と作並から関山峠への山道の様子を記しているが、実にいい文章である。

「雲にぬれて関山越せば袖涼し」の句を添えてある。

当時、山形県側の道路は整備されていたが、宮城県側の道路は子規が言うごとく
「仰ぎて望みたる山々次第に我足の下に爪立ちて頭上僅かに一塊の緑を残す。
山険に谷深うして道をつくるべき處もなし」
の状態で、狭い山道であった。

そして「山根に一條の隋道を穿つ。これを過ぐれば即ち羽前の国なり」
この隧道こそ明治15年の11月に作られた関山隋道である。

木材で岩石を支えた粗末なもので、隋道の中は闇のように暗く、水滴がしたたり落ちるほどの砂利道であったので、昼でもタイマツをつけて歩いた人がおった程であった。
子規は
「岩を透す水の雫は絶えず壁を滴りて襟首をちぢむること屢々なり」と描写している。

「とんねるや笠にしたたる山清水」
「隋道のはるかに人の影すずし」

隋道の出口には一軒の茶屋があり、わらじや駄菓子にタイマツなどを売っていた。
この茶屋を村の人々は洞門の家と言っていた。
子規が歩いた関山街道は、昭和43年に廃道となり、87年の旧道の歴史は終わっている。










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