
本能寺の変勃発!これはピンチか、はたまたチャンスか!?大きな岐路を前にとまどう信長の息子、家臣、敵将、女たちを、温かく(?)描いた傑作短篇集。
信長が死んだ。その時、家臣や敵将たちは……?突然の大事件に右往左往する人々の悲哀と滑稽さを共感たっぷりに描く連作歴史小説。
若い頃から中国の覇者、毛利家の使僧をつとめ、畿内と中国の各国を盛んに行き来しては、大名や土豪たちに毛利家の指示を伝え、安国寺恵瓊は毛利家の外交を支えてきた。
しかし近年、織田家の攻勢に毛利家は押される一方となっていた。今年になって羽柴秀吉に備中まで攻め込まれ、高松城を水攻めにされてしまうと、毛利家には打つ手がなく、遠巻きに見守るしかなくなっていた。
「本日6つ時、本能寺にて惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)に討ち果たされ候」
という一筆をみて恵瓊は「うえっ」と声をあげたまま固まってしまった。
「の、信長が討ち死にしたと!まことか」
「だ、だまされた。秀吉めにだまされた!」
歯ぎしりしたが、もう遅い。互いに和睦の誓紙をかわしたあとだ。
「秀吉が無事であればこそ、恩を売りつつ交渉ができましょう。それゆえ、ここは秀吉を逃がしておくが、お家のためによかれと存ずる」
恵瓊が主張すると、しばらく考えた後に元春も同意して、これが結論となった。
毛利家は起請文を守り、追い討ちはしない。このまま兵を引くのである。
その旨、猿掛山にいる総大将、毛利輝元に伝えることになった。
「中国者は律儀であると、褒められような」
10月には京の大徳寺で、信長の葬儀を大々的に行った。
葬列が3,000人にも及び、しかも柴田勝家らには参加させず、秀吉が棺の後から信長の愛刀を捧げ持つという、秀吉ばかりが目立つ式典だった。
果たして柴田勝家らは反発した。これを秀吉は逆手にとり、「織田信考が勝家と組んで謀叛を企てた」と騒ぎ立てた。難癖をつけて合戦に持ち込み、自分の天下取りを妨げる者たちを一気に叩き潰そうとしたのである。秀吉はもう、おのれの野心を隠そうともしなかった。
天正11年;1583年2月、勝家が越前から積もる雪をかきわけて出陣し、北近江の賤ヵ岳で大がかりな合戦となった。5月までには柴田が北庄城に滅び、織田信考も自害して、秀吉の天下が見えてきた。
だが野間の大御堂寺に着いてから、信考はおそろしい話を聞いた。
昔、平治の乱にやぶれて京から逃れてきた源義朝が、家来である長田忠致(ただむね)にこの野間で討たれたという。ここは義朝の墓がある寺なのだと。
家来が主を討つ。秀吉の真意を悟り、信考はぞっとしたが、見張られている身では逃げることも逆らうこともできない。案の定、寺に着いた直後、信雄が切腹を命じてきた。家臣の秀吉には無理でも、兄である信雄ならば信考に死を命じることができる。秀吉は信雄を隠れ蓑に使い、信考を消しにかかったのだ。いまや信考には、腹を切るほか道はない。
「むかしより主をうつみののまなれば
むくいをまてや羽柴筑前」
辞世の句を書いておいた。
義朝をだまし討ちにした長田忠致は、義朝の首を平家に差し出し、美濃と尾張を褒章にのぞんだが、かなわなかった。その後、平家討伐に立ち上がった義朝の子、源頼朝に味方して、はたらきがあれば「ミノオワリを与える」との言質をもらったが、平家を討ったあと、その言葉とおりに「身の終わり」を与えられた。すなわち斬首されたのである。
秀吉がそれを知っていれば、この辞世の句も味わいが深くなるというものだ。
母衣(ほろ)武者
雪隠(せっちん)詰めにされて、とどめを刺されるばかりになっている。
広いg>郭(くるわ)
これが現実(うつつ)の姿だ。
舟の上で高松城城主が切腹したのを見届けると、秀吉はすぐ撤兵にかかった。そして自ら築いた堤を切り崩し、たまった水を溢れされて周囲を泥沼と化し、毛利の追撃を阻止した。
秀吉の姓の羽柴は、丹羽長秀と柴田勝家から、その武威にあやかろうと一字ずつとってつけたものである。織田家中では勝家のほうがずっと格上であり、秀吉にとって目標になっていた男だ。そんな男を殺しては、目覚めが悪かろう、
違いといえば勝家は三男の信考を、秀吉は次男の信雄(のぶかつ)を担いでいるだけだ。
清洲城会合・・・信長と信忠亡きあとの織田家をいかにするか、である。
世間の評判では、信考のほうが器量があり、くらべて信雄は暗愚であるとされていた。
信雄は過去に伊賀攻めに失敗して信長に叱責されたことがあり、また今回も安土城に近い伊勢にいながら光秀討伐に間に合わず、それどころか光秀滅亡のあとに安土城を占拠しながら、あやまって火を出し、あの特徴のある天主を焼失してしまうなど失態が目立っていたからだ。
そして信考は勝家と親しかった。勝家は信考の後見人という立場にあったのだ。
会合では、勝家は当然のように信考を推した。
信考が跡取りとなると、勝家の勢力が増すだろう。対抗上、秀吉は信雄を推すかと思われたが、そうではなかった。信忠の一子、わずか2歳の三法師を推したのである。織田家の正嫡が信忠であり、その信忠の嫡男三法師こそが織田家の跡取りにふさわしいという論理だった。
信忠の城、岐阜城で育てられていた三法師は、このとき清洲城に避難していたのだ。
秀吉は三法師をみなの前に連れてこさえ、膝に抱いて披露した。2歳といえど正嫡が現にいるという事実の前に、信考を推した勝家は沈黙せざるを得なかった。
結局、信考と信雄の争いを避けるという意味でも有用と認められ、三法師が跡取りと決まった。
三法師という2歳の、つまり事実上無力の跡継ぎが決められたことで、ここから真の天下人の跡取り争いがはじまったのである。
勝家は髪の毛一本残さず、信長の妹、お市の方と一族を道連れにこの世から消え失せたのだ。
一方、甲斐の河尻与兵衛は、本多庄左衛門の遺臣たちがあおり立てた地侍衆によって館を攻め破られ、討ちとられてしまった。そしてその遺体は、逆さまに吊されて墓穴に埋められた。よほど甲斐の人々の恨みをかっていたらしい。彼の死はいまでも「逆さ塚」と呼ばれ、人々に忌まれている。
~~本能寺の変に黒幕はいたか~~
本の題名に「本能寺の変」とあれば、それはもう例外なく、なぜ変が起こったかを解き明かす謎解き本である。なにしろ「永遠のミステリー」であり、「日本史最大の謎」なのだから。題名に本能寺をうたって、その謎に言及しない本など「空気読めない」であり、「掟破り」なのである。
黒幕の候補者・・・
気になる人物、それは朝廷関与説でも重要な役割を果たす公家の大立者、近衛前久(さきひさ)である。なぜ気になるかといえば、この人、本能寺の変のあと、山崎の合戦で光秀が敗北した直後、行方をくらましているからである。
合戦後の4日後、6月17日の公家の日記にこうある。
山崎合戦の直後、理由は不明なれど京から行方をくらまして嵯峨にひそんだ前久を討つために兵が向かったが、前久はその前に逃げたという内容である。そして前久がなにか悪いことをしたと非難している。
誰が前久を討とうとしたのかというと、その3日後、6月20日に別の公家の日記によって、信長の三男の信考と判明する。
では、この近衛前久とはどんな人物なのだろうか。
まず特筆すべきは、その育ちの良さである。公家の中でも筆頭格の近衛家に嫡男として生まれ、20歳前にして「位人臣(くらいじんしん)を極め」たのである。なぜ若いうちにそんな出世ができるのかというと、公家社会が家格と前例を重視する閉じた世界だからである。
公家は、大きく堂上家(どうじょうけ)と地下家(じげけ)に分かれている。
内裏(だいり)の、清涼殿南廂(せいりょうでんみなみびさし)にある殿上に昇殿が許される家が堂上家、許されない家が地下家である。当然、堂上家のほうが家格が上で、摂政(せっしょう)関白や大臣、参議などに任官し、朝廷の中枢に参画する。一方、地下家は書記や出納など朝廷の事務仕事につく家柄である。
堂上家の中も、家格によって6つの階層に分かれている。
その最高位が摂家(せっけ)と称される近衛、九条、鷹司(たかつかさ)、二条、一条の五家で、この五家でなければ摂家関白になれないとされている。
うち近衛家が本家であり、筆頭格である。前久はその近衛家の第16代当主となった。公家の中の公家だから、若いうちの昇進も当然なのである。しかし前久は、近衛家当主という立場に満足していなかったようだ。公家社会を出て、武士になろうとした形跡が見られるのである。
その最初のこころみは永禄2年;1559年、前久(さきひさ)が24歳のとき、上洛してきた越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に対して「与力同然の覚悟」を示しーーーつまり、家来になるつもりであるといってーーー、翌年、越後へ罷りくだるという形であらわれた。京を出て越後にはいると、当時、関東へ出陣していた景虎にしたがって越後から関東へとうつり、下総の古河城にはいっている。どうやら景虎の関東支配に協力しようとしたらしい。
だが景虎の関東支配は成功しなかった。
北条家を小田原城に追い詰め、10万の兵で取り巻いたものの、開城させることはできず、兵を越後に引いている。このとき関東管領に就任し、形の上では関東を支配するようになったものの、直後に自身が川中島で武田と対戦するなど越後本国から動くことができなくなり、以後、何度か関東に出陣するがうまくゆかず、結局は越後に引き籠もってしまう。
前久も、景虎とともに古河城を去り、越後にもどった。そして景虎が引き留めるのもきかず、逃げるように京へもどった。結局、2年半の旅だった。
景虎とともに関東を制圧し、支配者として君臨しようとした、といったことは考えられる。
なにしろ京にいては公家や朝廷の存在は薄くなるばかりで、所領は武士に押領されて食うにも事欠き、朝廷では費用がなくて天皇の即位式もできぬありさまだった。公家の筆頭といっても、現世での実力は一郡を支配する武士にも劣るほどだったのである。
その後は懲りたのか、京で近衛家の長としておさまり、関白の職務をつとめていた。
波乱が起きるのは、永禄11年;1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛してからである。
この年の11月、前久は京から逃げ出す。「武名に違(たが)う」、つまり新しく将軍となった義昭と対立して、身の危険を感じたためらしい。
同時に関白の職も解かれた。義昭によって京からも政界からも追放されたのである。
なぜ追放されたのか、本人が書き記した書状によると、おれは無実なのに、将軍にあることないこと吹き込んだやつがいる、というのだ。
前久に対しては二条家がライバルとして存在していたらしい。二条晴良?
大坂に逼塞(ひっそく)し、のちに河内、丹波とうつりじつに7年間の逃亡生活を余儀なくされたのである。京へもどったのは、前久を追放した足利義昭が信長に見放され、京を追われたあと、天正3年;1575年である。信長が呼びもどしたものらしい。
そのあと前久は信長に協力し、石山本願寺との和平の調停や、九州島津氏と大友氏の講和に奔走する。事実上の家来として活動しているといえるかもしれない。天正9年;1581年の京都馬揃えに騎馬で参加したり、天正10年に信長が武田家討伐に信濃、甲斐へ出陣すると、前久も従軍しているのは、そのあらわれだろう。信長との関係は良好で、鷹狩りに同行したり、安土城へたびたび訪れたりしている。
前久は公家に似合わず鷹狩りと乗馬が好きで、その点でも波長が合ったのだろう
信長は二条に屋敷をもうけた(天正7年に第106代天皇、正親町天皇の嫡男:誠仁(さねひと)親王にゆずっている)が、その隣に前久が住む屋敷を建てた。所領についても、いずれは1,2カ国をあてがうという話があったようだ。
前久の疑惑について検討する前に、本能寺の変の真相について、私の持論を披露したい。
私が注目しているのは、光秀の年齢である。
『当代記』という書物に、「明智、時に67歳」との注記があるのが、昨今、注目されている。
つぎに光秀の「小さな謎」について考えてみたい。
光秀は認知症にかかっていたのではないか?
彼が認知症であったとすると、これまで挙げた小さな謎がきれいに解けるのである。
そして、なぜ信長を討ったのかという大きな謎もあっさり解ける。
光秀は認知症による被害妄想によって信長に対する憎しみをつのらせたばかりか、感情が抑えきれなくなっており、さらに討てばどのような結果になるかが、判断力や思考力の低下によって見通せなくなっていたのだろう。だから堂々と主人殺しという反社会的かつ破滅的な行為を実行に移せたのだ。
前久は本当に無関係なのだろうか。
天下をとった秀吉がその権威付けのため、関白職を狙ってきたのだ。
摂政関白の職は5摂家の者しか就けない決まりである。
いくら天下人といっても、氏のない秀吉が関白になるのは無理だ。
どうしたかというと、秀吉は前久の猶子になったのである。猶子とは親子関係を仮に結ぶことで、現代でいえば養子に入ったようなものである。前久の子、藤原秀吉として関白になると申し出たのだ。天下を牛耳った秀吉の要求を、前久が断れるはずもない。近衛家は関白職を奪われてしまった。1年たっても秀吉は返さず、それどころか豊臣姓を創設し、朝廷を乗っ取る勢いを見せる。
お家のためならば、犬馬(けんば)の労をいといませぬで
老人たちの愁嘆場(しゅうたんば)をよそに・・・
自筆で本願寺攻めの責任者、佐久間信盛へ19条からなる折檻状をしたため、右筆(ゆうひつ)の楠らにこれをもたせ、佐久間父子を面詰(めんきつ)させたのだ。
折檻状には、石山本願寺攻めに5年もの歳月をかけたことを「武篇道不甲斐なし」と決めつけ、はたらきの悪さを難じ、家禄を召し上げて追放すると宣言してあった。
われらはどこで陥穽(かんせい)に落ちたのかと
信長にしても、本能寺で倒れるまでにあわやという危機はいっぱいあった。
まず元亀元年;1570年、千草越えの山道で善住坊という鉄砲の名人に2つ玉を撃ちかけられたことがあった。20m強と外すはずのない間合いだったが、弾は身体をかすめ、袖を射抜いただけに終わった。もう5寸、弾道がずれていたら、信長は即死だったろう。
胸に大きな穴を穿(うが)たれたようで、呼吸が苦しい。
この城は、天下第一の城ではなかったのか。
「この城は、守るにはむずかしゅうござる。大手道は本丸までまっすぐに伸びておるし、あの大きな天主は、火矢を射かけられれば守りようもなし。天下人だけに、攻められることなど考えてもおらぬ造りにござる」
「それをいま、勘考(かんこう)しておるところで」
もし邪(よこしま)な思いがないとしても・・・
「まさか伊丹の城のようには、なりますまいな」
伊丹城は、摂津一国のあるじであった荒木村重の居城(きょじょう)だったが、村重が信長を裏切ったばかりに織田方の大軍に囲まれ、攻防戦の末に攻めおとされた。城に籠もっていた村重の妻妾と子供は捕らえられ、洛中を引きまわされたうえ、六条河原で斬られた。
昨日まで天下の過半をその膝下(しっか)に押さえていたのに・・・
「それは重畳(ちょうぞう)、してそれは誰ぞ」
「さればお方さまにおたずねいたす。上様は、なぜ光秀に討たれたかとお思いか」
「ひとつは油断したため。もうひとつは、家来の扱いが酷かったためと重し召せ。上様は決していいあるじではござらなんだ。それゆw、みな城を守ろうとせぬ。あの世にいってしまえば消えてなくなるほどの、薄い御恩でござった。忠義という前に、上様の御恩が薄かったのでござるよ」
虚空(こくう)に向かって叫んだ。
前夫を失ったときは惑乱し。自分の不運を呪ったが