
丹後を治める長岡兵部は、歌道が好きで若い頃から精進し、いまや名人の域に達している。
そのために諸国に弟子がいる。
「京も静かなことで。徳川どのと岐阜中将どのは、清水(きよみず)でお能を見物とか」
安土に大身の者はいない。近習や旗本たちも、合戦支度のため暇をだされて自領に戻っている。
そして信長は晦日に京へのぼる。
ということは、そのとき信長のまわりにはほとんど兵がいない、ということにならないか。
しかも信長の京の常宿は本能寺だ。
堀も土塀もあるが、城ほど堅くないし、多くの兵を収容する場所もない。
いいや、この2,3年、安土と京との行き来には、信長は小姓たちしか引きつれていない。
今度だけ例外とは思えない。信長は昔から平気で危地に身をさらす癖があった。
今より20年前以上も前の永禄2年、義輝公が各地の大名を京に招き、幕府復興につとめていたことがあった。このとき信長も招かれたが、なんと80人の供回りをひきつれただけで京にあらわれたのである。同じように招かれた上杉謙信などは3,000の兵を引きつれていたから、信長の行為は大胆としか言いようがない。桶狭間もそうだ。わずか2,000の手兵を率いて今川の大軍に突っ込んでいった。そして石山本願寺攻めのさなかに、同じようなことがあった。
ともあれ、信長は勇敢というより、身の危険に鈍感なところがある。足を撃たれたあとは自重して、なかなか安土城から外へも出ないが、元来は危うさを好む男だ。
だからおそらく、5月晦日に京へのぼってから中国路へ出立するために兵が集まるまで数日の間、信長の周辺はがら空きになるはずだ。
しかし、おれはどこで信長の信頼を失ったのだろうか。
甲斐へ出陣したとき、上諏訪の寺で酒宴の最中に起きたことだ。
おれは戦勝を言祝(ことほ)ぐつもりで、われらも年来、骨折り仕ってござると言ったのだが、これを信長に聞き咎められた。
「わぬしはどこで骨折ったのか。骨を折ったのはこのわしじゃ、蘆外者め!」
と怒鳴りつけられ、あげくに襟首を持って引きまわされ、頭を欄干に打ちすえられたのだ。
あのときはめでたさにうかれてつい油断し、日頃から思っていたことが口をついて出てしまった。
修験道の山である愛宕山は、高くかつ峻険だ。
参道の途中までは輿を使えたが、道が石段になると輿も使えない。
ここで戦勝祈願の祈祷をうけたあとは、いつも吉凶を占う神籤をひく。
「上様のほうは、明日安土を発たれるとのうわさで」
「宿所は、本能寺で間違いないか」
1,2年前から、信長は本能寺を京の宿所にしている。
そのため濠を深くし、土塁とその上に建つ土塀を高くした。
僧侶たちは退去させられ、余人が入ることもゆるされない。
「さて、4日には中国表に出陣とのこと」
「おれは信長に欺かれておった。用無しになれば捨てるだと。
狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)か。それは御免や。もう信長を討つしかない。討たねば、この身がもたん」
「なにが謀叛なものか。おれを責め苛む輩を打ち払うだけよ。武士として当然のことをするまでや」
信長を討てばすべてうまく行く。夢にも信長は出てこなくなり、安らかに眠れる。おれはそのことばかり考えていた。主殺しという言葉が、まったく胸に響かなかった。おれは安らかに眠りたいだけなのだ。
信長がその気になれば、一族は根絶やしにされる。
荒木村重の妻子など、みな河原に引きだされて、信長の軍兵にむごたらしく殺されたではないか。
~~本能寺の変 当日 天正10年6月2日~~
「おい、首を持つな。すべて打ち捨てにせえ」
首は恩賞をもらうために必要だ。捨てるわけにはいかない。
虫の息になったところにのしかかり、脇差で首を掻き切った。その瞬間、身体が大きく跳ね、切り口から血がどっと溢れた。伊助が鬢をもって首をかかげた。これで首は2つめ。いい恩賞にありつけるだろう。考えただけでわくわくする。妻や老母も喜んでくれるだろう。
騒ぎが起きたとき信長は、奥の御座所で顔を洗っていた。
「軍勢だと。光秀めか」
「御意!」
「光秀の兵が押しかけてきて、鉄砲を撃っておると申すか」
「はっ、外は水色桔梗の旗印で埋めつくされておりまする」
「たわけたことを。なぜ光秀が・・・」
命ずるなり、信長は力丸から弓矢を受け取り、群がり寄ってくる敵兵を狙った。
寄せてくる敵兵と槍を2,3合突き合わせたが、甲冑を着ている兵には通じない。
たちまち突き立てられ、左肘をざくりと切り破られた。
肘の傷からしたたる血をそのままに、信長は奥の御座所へ駆け戻った。
御座所には、安土から連れてきた侍女どもがうろうろしていた。
「女どもは苦しゅうない、疾(と)くまかり出よ」
と一喝すると、信長は最も奥の納戸へ駆け込んだ。
「油断したか。わしはこの手で死を招いたか」
信長はなお歩きまわり、周囲をにらみ、なにか考えあぐねているようだった。
そこに外から足音とともに、「ここか。ええい、どこへ隠れた!」という声が聞こえてきた。
それを機に、信長の肩がふっと落ちた。大きく息をつくや、ゆっくりと振り返った。
「もはやこれまでじゃ。火をかけい!下郎どもを入らせるな!」
力丸に命じつつ、自分でも次の間にあった燭台を蹴倒し、襖に火をつけた。
たちまち襖は橙色の炎に包まれ、黒煙を上げはじめた。
「介錯せい」
火は天井に燃え移ったようだ。煙と熱気が欄間から納戸の中に流れてくる。
大きく息を吐いて目を閉じると、信長は白刃を腹にあてた。
~~本能寺の変 当日 天正10年6月2日、京~~
夜明けまで信長の嫡男、信忠のいる妙覚寺を囲めなかった。
信忠を逃さぬよう、二条御所のまわりをぐるりと囲んだ。
「御殿が焼け落ちて、首が見つからん。だがさすがに生きていることはあるまい」
「見つからんのか?それですむのか」
「まだ燃え尽きておらんので、熱くて亡骸を探せん。明日にでも灰の中を探せばよい」
聞けば二条御所の主、誠仁(さねひと)親王の死者で、中にいる親王はどう進退すればいいのかと訊ねにきたのだった。誠仁親王は信忠に味方して御所を貸したわけでなく、信忠が強引に御所に入り込んだだけのようだ。
ーー こやつも、首がかかっておったからな。
昨夜、光秀が5人の老臣に信長を討つと打ち明けたとき、一も二もなく同意したのがこの内蔵助だ。おかげでほとんど話し合いらしい話し合いもなく決まってしまった。
やがて御殿は轟音とともに焼け落ち、信忠はその下敷きとなって、父信長のあとを追うようにこの世から姿を消した。
空き城になっていた安土城におれが入ったのは本能寺で信長を討った3日後の6月5日だった。
入城すると、まず天主の1階にあたる薄暗い石蔵の一角に人を入れ、厳重に封印されていた俵や壺を持ち出した。開けてみると、どれにも金や銀が詰まっていた。銀は長さ5、6寸の延べ棒にそろえてあり、金は小判状のものが多く、砂金もあった。
おれは家臣一人ひとりを呼んで、手ずから与えてやった。あれほど喜色をたたえて深々と頭を下げる人の姿を、おれははじめて見た。げに金銀の力はおそろしい。
それにしても信長は悪いやつだ。おれのような家臣たちに命がけで諸国を攻めさせ、佐久間のように役に立たないと見れば身ひとつで放り出しておきながら、自分はこれほどの金銀を溜め込み、その上に安閑と寝ていたのだから。
思い切って信長を討ち果たして、本当によかったと思う。これで大きな障(さわ)りがなくなり、おれだけでなく、十五郎や阿古丸も安心して暮らしてゆけるというものだ。その上、天下までこの手に入りそうになっている。
おれが安土城に入ると、京の賀茂社や興福寺など、あちこちの寺や神社から祝いの使者が到着し、祝儀の銭や贈り物をおいていった。庄兵衛に言わせれば、おれは天下さまになったのだから、これくらいは当然らしい。
美濃や河内、摂津にいる武将たちに味方となるよう働きかけている。
おれも。右筆に書かせた書状にそれだけか花押を書いたかわからない。
「順慶のやつ、小癪な。震えあがらせてやろうぞ」
「筒井どのもさりながら、長岡どのも心配ですな」
「長岡?丹後の長岡兵部か」
「兵部どのは、信長の恩を忘れ得ずと申して髻(もとどり)を切って出家し、われらの使いの者を追い返してござる。われらに与(くみ)するつまりはないと放言しておるようで」
「兵部がさようなことを申したのか!兵部が裏切るなど、許せぬものか。娘をくれてやったのやぞ」
筒井順慶は大和国郡山の御座所で家老の島左近に対していた。
順慶としては、国衆が分裂して統制を失うのも恐かった。
そのころ信長の三男、信孝からも使者がきた。
光秀方につくな、こちらに味方せよと勧めてきた。
ここでもおれは、信長が溜め込んでいた金銀をばらまいた。
内裏に銀500枚、京の五山と大徳寺にも、信長の冥福を祈るという名目で銀100枚ずつを寄進したのだ。そして京の町衆には地子銭を免除してやると触れた。おれの喜びとお裾分けだ。
長岡兵部への書状を書きにかかった。
右筆任せにせず、自分で書いたのだが、内蔵助の言うように大度を示した上、おれの正直な気持ちを書いておいた。これで動かなければ、兵部との間柄もそれまでだ。
順慶は息子同然に思っているが、おれに逆らうとあらば別だ。
それなりの手だてを考えねばならない。
「長岡兵部といい順慶といい、まったくもって恩知らずばかりにございますな」
「羽柴筑前、すでに姫路を発し、2万の軍勢にて攝津にいたるという噂」
「羽柴筑前が攝津に来ていると申すか!」
「噂にござりまするが、商人どもの誰もが申すゆえ、まず間違いなしと思われまする」
「あやつは昔から気に入らなんだ。来るなら叩き潰してやるまでや」
兵部は剃髪して出家した。幽玄玄旨(ゆうさいげんし)と号した。
ともあれ父子ふたりして出家し、与一郎の嫁である光秀の娘、玉も、山奥に幽閉した。
まずは光秀と距離をおいて、世間から謀叛人の一味と見られるのを避けたのである。
長さ一尺ほどの書状を、兵部は手にした。字体に見覚えがあった。
光秀の字だ。右筆ではなく、自身で書いたらしい。
「摂津、但馬、若狭か。ずいぶんと気前のよいことやな」
「それだけ、殿はご入魂(じっこん)をのぞんでおられるので。
ぜひともお味方として旗の色を明らかにしてくだされ」
「それに、思わぬことになったが、それはわしのためにしたことだと。
なんじゃこれは。いつわしが上様を討ってくれと頼んだ!いい加減なことを申すな!」
「ま、ともあれわれらは当分、ここで喪に服しておるわ。惟任どのにはさようお伝え願おうか。
今はそれしか言えん。」
摂津、但馬、若狭までくれるという話が本当なら大したものだが、いまは動くときではない。古来、謀叛がうまくいった例より、失敗した例のほうがはるかに多い。信長の恩はともかく、ここでうかうかと光秀の話に乗っては、謀叛が失敗したあと、引っ込みがつかなくなる。形勢がはっきりするまで、ぼんやりとしておればよい。
光秀は70近い老齢なのに、跡継ぎの子はまだ幼い。そして信長との間柄は、どこでしくじったのか、以前ほどうまく行っていなかった。そのまま大名を続けられるか、ずいぶんと焦っただろう。その結果が本能寺だ。ひとりの老人のあせりが天下を覆したのだ
権勢の絶頂にある天下人を不意打ちにして倒すという、ふつうは考えることすらはばかる決断を、光秀は下したのだ。異様さは、そのあたりに思う。
しょせんはそれだけの者と思うしかない。天下をのぞむほどの器量ではないのだ。
田舎出の、小器用な才子でしかなかった。
「西のほうへもっと物見の者を送れ。ああ、越前のほうも怠るな」
越前には柴田勝家がいる。光秀に対抗するのは、このふたりだろう。
「しばし高みの見物よ」
そういって兵部は手にした扇で首筋をたたいた。
「若い者は信用できんな。恩も廉恥もわきまえぬと見える」
伊賀の地は昨年、織田勢に蹂躙されて多くの者が殺されているし、甲賀にはいまだ旧主、六角氏を慕う者が多く、織田家には憎しみを持つ者が多い。
信長の次男、信雄が寡兵で明智勢に向かえば、かえって首を狙われるのだから、下手に動けないと考えているのだろう。
北国の柴田は上杉勢に襲われぬよう守りをかためねばならず、動けない。
伊勢の織田信雄は役立たずで恐れぬに足りない。
毛利の大軍に迫られて悲鳴をあげ、信長に援軍を乞うていた状況からすれば、秀吉勢は信長の死によってたちどころに毛利に攻めつぶされるだろうと見ていたのに、どういう手品を使ったのか、毛利勢に襲われずに兵を引き揚げ、もう京の近くまで戻ってきたらしい。
城のある安土城は、琵琶湖の入り江にひょうたんのような形で突き出している。
その持ち主は信長ただひとりである。
近習や小姓の何人かは山の中腹に屋敷をもらっているが、ほかの家臣の屋敷は山下の町にある。
だから大名たちも、安土に詰めているときは毎朝、山下町(さんげちょう)の屋敷から濠にかかる百々橋(どどばし)をわたり、山を登って出仕する。この城に住む者は城下町をつねに睥睨(へいげい)し、ひいては天下をも睨みわたしていることになる。
5層7階というが、下から見上げれば、これが人の手で造られたものかと疑ってしまうほどの高さがある。それだけでなく、瓦や壁に金箔を使ってあるためか、豪奢で華麗でもある。中の襖絵も凝ったもので、すべて当代一流の絵師に描かせたと聞く。
こんなものを造った者の心の中はどんなものだったのだろうか。
よほど自らを恃(たの)む心が強くないと、持つことに耐えられないだろう。
こんな城を建てたところが、信長の天下人としての器量なのだろうが・・・。
天守をもつということでは坂本城も同じだが、これほど大きくも華麗でもない。坂本城は美しく、よくできた城だが、天下を支えるほどの強さも大胆さもない。
そもそもこの山崎に陣を敷くのは反対だった。
東西から山が迫って、大軍を防ぐによい地形といっても、3万以上の羽柴勢に、こちらの1万3千の兵では勝てないからだ。そんな益のない合戦をするより、坂本城にこもって時を稼ぎ、毛利なり上杉なりの助力を求めたほうがよかったはずだ。なのに、誰も籠城の決断を下せぬうちに、ここで陣を敷くことになってしまった。
しかし、あのときはまだ光秀はしっかりしていた。大将である光秀についていけば大丈夫と思っていた。なのに、光秀は日を追っておかしくなってゆき、いまやいくさの役に立たなくなっているどころか、こちらの足を引っ張ってくれる。
だがその背後に輝く金色の大ひょうたんは・・・、猿だ。猿の馬印ではないか。
総大将の猿が、そこまで詰めてきているのか。
秀吉は、勝龍寺へと進んでいた。
巨大な金の瓢箪を逆さにした馬印が、すぐうしろを追ってくる。
「これは上様の弔い合戦だで。そこをゆめゆめ忘れるな。
笑うのはまだ先じゃわ。光秀の首を天下に晒してからにせい」
「坂本城なり安土城なりにこもられると、手間取るのは必定だわ」
こちらの軍勢はあちこちの大名の寄せ集めだから、長引くとまとまりがつかなくなる。
なんとしても今日で勝負を決めたいところだ。
そうだ、勝ったあとも面倒だ。
秀吉はその脳裏に、北国の柴田勝家や関東の滝川一益などの家中の者たちと、織田信雄、信孝といった信長の息子たちの顔を思い浮かべた。
この一戦が終われば、それぞれがおそらく勝手なことを言い出してくるだろう。生意気なことを言わせないためにも、ここで素早くケリをつけなければならない。
舌なめずりする思いで、半年後の自分を想像してみた。
天下人までは、あと一歩の距離ではないか。なんと、運というものは数奇なものだ。
ほんの10日ほど前までは、頑強に抵抗する毛利勢に手を焼き、どうやって苦境を切り抜けようか、どうすれば上様に叱られずにすむのかと命も縮む思いをしていたのに、阿呆な光秀のおかげで恐い上様はこの世から消え、それどころか一気に天下が身近に見えてきた。
勝龍寺城の北門は開いており、そこから雑兵どもが続々と逃げ出していた。
白小袖姿の光秀は、雑兵たちに混じって難なく城を抜け出た。
秀吉の兵たちの目が光っていたはずだが、まさか総大将が小袖一枚で、馬に乗らずに城から抜け出てくるとは思ってもいなかったのだろう。
総大将が、何もかも打ち捨てて城を出てしまったのである。
あわてて止めようとしたが、光秀に声をかけても、おれは帰る、坂本には子供たちが待っている、と何やら寝ぼけたような言葉しか返ってこなかった。
勝龍寺城からここまでの道中、幾度も危うい目にあった。
なにしろ光秀は何の警戒もせずに、ふらふらと道を進んでゆくのだ。
闇夜とはいえ、白い小袖だから目立つ。
「あやつが、おれの前にあらわれる。夢にも出てくる。どうしてもおれとせがれどもを殺すつもりや。このままではどうしようもない。座して殺されるよりは、先に討ってやる」
「あやつは・・・、除かねばならん。でなければおれが殺される。よしんばおれが無事であっても、十五郎が躓くやろ。おれだからこそ、あの男に仕えてここまで来れたのや。十五郎では無理や・・・。おれは十五郎があやつにつぶされるところを見とうない」
「これはいくさではのうて、わたしの恨みゆえ、地獄へ行くのはおれひとりで十分や」
「どうしても、ひとりで本能寺へ・・・」
「おお、おれは行く」
「しばしお待ちくだされ。重臣どもに声をかけましょうに。
みな、殿の味方でござる。ええい、遠慮なさいますな」
「誰が何と言おうとおれは本能寺へ乗り込み、信長を討って腹を切る。もう覚悟は決めた。不承知なら去るもよし、ともに行くというのなら覚悟の上でついてくるもよし」
「いつも殿が言うておられますな。ともに地獄へまいろうと。いまこそその時でござろう」
5人の老臣の意見が一致し、1万3千の軍勢は夜になって京へと出陣し、信長を討ったのだ。
天守を下りると、御座所の茶坊主をつかまえて、光秀の集めた茶道具と刀剣をださせた。
そのうちから新身国行(あらみゆきくに)の刀、吉光の脇差、虚堂(きどう)の墨跡をとりだし、衾(ふすま)で厳重につつんだ。
「これらは天下の道具や。ここ滅し去っては、のちにそしりを受けようで」
鉄砲に使う焔硝を天守の2階に運ばせると、一族の者も2階にあげ、一室にあつめた。
部屋の中に焔硝をまき散らすと、火の用意をしておいて、脇差を抜いた。
「まずは、女どもからやな」
光秀の後妻である藤乃に向かった。藤乃は一心に念仏をあげていた。
「されば御免」と言いつつ衿をつかみ、心ノ臓をひと刺しにした。
藤乃の身体がぴくんと強く躍り、脇差をもつ手が温かいもので濡れた。
その横で、うっという喉声がした。十五郎が腹に脇差を突き立てたのだ。
赤黒い血が飛び散り、畳を打つ。同時に首が落ちる重い音がした。
しばらくのち、坂本城の天守は地を揺るがす大音響とともに、炎と煙を天にむかって噴き上げた。光秀が丹精して築きあげた坂本城は、黒煙を空に吐き出しながら焼け落ちた。
~~本能寺の変から2ヵ月後~~
細川藤高⇒幽斎玄旨こと長岡兵部は、7月末に信長追善供養の連歌を興行したあと、堺に来ていた。目的は、亡き信長をしのぶ茶会である。
「ところで長岡さまは、本能寺をご覧になりましたかな」
「ああ、それはよろしゅうございました。いやもう、ひどい臭いでしたからな」
山崎の合戦のあと、本能寺には信長の供養として、光秀とその手勢3千の首が晒された。
夏の暑さで腐った首で、あたりの臭気たるや耐えがたいものがあったという。
「惟任どのは、坂本城めざして落ちる途中だったようで。醍醐あたりで落ち武者狩りの百姓どもにつかまり、首をとられたそうな」
「最期は竹槍で突き殺されたとも、棒で叩き殺されたともいわれておりますな」
「首は、合戦の次の日、信孝どのの手をへて、三井寺に陣を敷いていた筑前どののもとに届いたそうで」
「羽柴どのは胴体も探し出してきて、首と胴を継ぎ合わせ、磔にして本能寺の焼け跡に高々と晒してござる」
合戦後、逃げていた斉藤内蔵助も近江で捕まり、洛中を車で弾きまわされたあと斬首され、光秀とならんで本能寺に晒された。
そして合戦から10日ほどたった6月23日、3千の首は三条粟田口の東に埋葬され、落着した。
それに信長には敵が多かったから、その死を悼む者ばかりではない。
表向きは、主殺しは人の道にはずれる、外道の仕業よと非難しても、胸の内で光秀に喝采を送る者がどれほどいることか。
「曜変天目でござる」
「拝見。これが・・・。なるほど」
天下にもいくつもない名品だと、宗及は言う。
兵部は曜変天目を手にして眺めていた。
黒地にひしめくように浮かぶ瑠璃色の玉。
茶碗を動かせば、その玉が光り、表情を変えるように見える。
なんとも妖しい模様である。美しさを通り越して禍々しいとすら見える。
また奇怪な器を眺めた。
見れば見るほど吸い込まれていくようだ。
やはりこれは、光秀こそ似つかわしい。
戦国という轆轤(ろくろ)で形作され、歳月の釉(うわぐすり)をかけられ、本能寺という窯で焼きあげられて、光秀の人生は人を惑わす妖しげな模様を浮かべるようになったのだ。