
文武、芸術に優れながらも主君に恵まれず辛酸の半生を送ってきた明智光秀だが、信長と出会い、実力を遺憾なく発揮する。信長の横暴、肌の合わぬ秀吉との出世争いなど気苦労もあるが、常に全力で任務にあたり、家臣に信頼され、家族を愛する人物でありつづけた。その彼が、信長を討った。本能寺の変。山崎の合戦。
刻々と変化する戦況にあわせ描かれる慟哭の巨編
本能寺の変より11日後:天正10年6月13日::山城国山崎
なにしろ光秀の軍勢は、このところ負け知らずだ。
将士たちもこのいくさに負けるなどさらさら思っていない。
勝てば主人の光秀は天下さまである。自分たちの運も末広がりになる。
その期待があるから、6月に入って10日以上強行軍が続いても不平を言う者が少ないのだ。
秀吉の軍勢3万とこちらの軍勢1万3千の多寡をくらべると、平静ではいられない。
しかも光秀はいま,あんな体たらくだ。
本能寺の変の3年前:丹波国八上
はたらきのある者には報いる。これを徹底しないと軍勢は動かない。いくさに勝つにはとにかく兵たちに気持ちよくはたらいてもらわねばならないが、それができるのは大将、すなわちおれだけだ。丹波一国のうち、おれに従わない者は、この八上城の波多野と黒井城の荻野だけだ。ふたつの城を落とせば、丹波一国がおれのものになる。おれは64歳にして、はじめて国持ち大名になるのだ。
おれは信長の顔を思い浮かべた。家来の前ではあまりいい顔を見せない男だ。
叱らないのならまずまずと思わねばならない。
世の中には兵書という便利なものだある。
それを学ぼうとしない怠け者は、この世から淘汰されても仕方ない。
それにしても、と思う。譜代の家臣といえど、飢えにさらされれば主を裏切り、謀叛を起こそうとするとは、兵書にある通りだ。兵に報いるところがなければ、君主の地位は保てぬものだ。
そもそもわが主人、光秀は、天下人にふさわしいだけの骨柄と器量を備えていると思う。
大柄で大力で、鉄砲の名手でもあれば、槍をとっても衆にすぐれた技を持っている。
しかも、この1万数千の中で、光秀ほど漢籍や古今の書を読んでいる者はいないだろう。
武経七書を3度通読したというから、おそれ入ったものだ。いくさに強いのは、古書にある武略軍略がすべて頭の中に入っているからだ。
長岡兵部はおれに劣らず大柄で、がっちりした身体をしている。
学があるのもおれと同じ、いやおれ以上だ。なにしろ古今伝授を受けているくらいだから。兵部はもとの名を細川藤高という。養子ではあるが、室町幕府の菅領、細川一族の者で、世が乱れる前なら一国の守護についていたはずの男だ。
兵部は一度、丹波の船井、桑田二郡をまかされたことがあったが、うまく治められなかった。
兵部の力量を見切った信長は、おれに丹波丹後攻略の命を下した。兵部がおれの寄騎としてはたらくようになったのは、それからだ。そして丹後と丹波の平定におれが成功した以上、この間柄は今後も続く。
高貴な家の出身で、体力も知力も衆から抜きん出ている男が、昔、自分が使っていた男の下につくのは、嫌なものだろう。兵部は果たしてこれからもおれの下ではたらく気があるのか。
それが知りたかった。
内蔵助は唇を噛んだ。--わが御大将は、大丈夫なのか。
本能寺を襲う前から、光秀の様子がおかしいとは気づいていた。やたら興奮して家臣たちに怒鳴り散らかすと思えば、誰も寄せ付けないほど沈み込んだりしていた。信長への謀叛という、一世一代の大仕事を前にした気持ちの高ぶりがなせる奇行かと思っていたのだが、どうやらそればかりではなさそうだ。言動も判断も、これまで見たこともないほど鈍くなっていた。はっきりいって、惚けているように見える。
光秀より先にこの地にきて、秀吉の軍勢のほうがかなり人数が多いと察知し、平場の合戦ではなく籠城戦を進言したのだが、それも受け入れられず、いたずらに日数を費やして結局はおんぼう塚に布陣する羽目に陥った。
「遠路をお越しいただき、まことに忝(かたじけ)のうございまする」
大和国は、いま筒井順慶の一円支配の下にある。
少し前までは順慶は松永久秀と抗争を繰り返していたが、おれが信貴山城(しぎさんじょう)に久秀を追い詰め、自害させて決着をつけた。そのあと、直政が石山合戦で討ち死にしたので、順慶にお鉢がまわってきたのだ。
この大和という、古い大木の根がどこまでも絡まり合っているような国を支配してゆくのは、丹波国などとはまた違った難しさがある。そもそも古くからこの国を支配していたのは、守護地頭といった侍ではなく、興福寺だった。配下に衆徒という名の寺侍集団を抱えた寺社が、守護同然の力を持っていたのである。そして興福寺のほかに東大寺、法隆寺、興福寺の中でも、一乗院、大乗院といった子院も、それぞれに領地と武力を抱えていた。
だから大和国を支配するには、そうした寺社領をどこまで認めるかが問題となる。武士とは違うから、言うことを聞かない寺社をひとつづつ合戦で滅ぼしてゆくわけにもいかない。こちらの利益とうまく折り合いをつけ、脅して言うことを聞かせながら支配してゆくしかなかった。
まだまだ西でも東でも戦わねばならぬ織田家としては、兵力にならない寺社に広大な領地を与えておく余裕はない。寺社領はだんだんと減らしてゆくことになるだろう。
「上様がな、大和を一国一城と定めたのは、なぜかわかるか」
昨年、信長は河内、摂津、大和には一国に一城しか許さぬとの触れを出している。
「畿内ではもういくさは終わった。民百姓はいくさを気にせず生業に励めと示すためよ」
本当はお味方の人数はもっと多いはずだった。
大和の筒井順慶もここに加わっていなければおかしいのだ。丹後の長岡兵部もだし、いまは敵になっている高山右近も、中川瀬兵衛も、こちらの味方になっているはずだった。
やはり謀叛人という立場は弱い。
わが殿と猿は、ふたりとも織田家では出頭人の筆頭だった。力量も手持ちの兵力もほとんど互角だ。それなのにこれだけの差がついてしまっている。猿に、主の敵討ちという名目があるからだ。しかし、それでも負けるとは思えない。わが殿には、運がついておる。
「静かにせえ。敵とはいえ大将や。礼儀を忘れるな。おのれの大将の首だけになった時のことを考えてみよ!」大将首を嗤う無礼はいかに家来といえど許せない。
かつては数カ国を治め、指一本で数万の軍勢を動かした男が、すべてを失った挙句、首だけとなって衆目に晒される恥辱を受けている。しばらく眺めたのち、おれは武田四郎勝頼とその息子、太郎信勝の首に手を合わせた。
敵が崩壊するきっかけを作るような裏切りは大きく評価されるが、負けが明白になった時点での裏切りは卑怯だとして賤しまれるばかりか、認められずに斬り捨てられることもある。
信長がすわっている広間の前の広縁に、首が2つ置かれてあるのが目についた。
敵の誰を生かし、誰を殺すか。
文字通り生殺与奪の権を握っているのは信長ひとりだから、この命のかかった披露は当分続く。
「武田一族を根絶やしになさるおつもりか」
武田一族のうち、少しでも抵抗した者はみな首を斬られ、その五カ国にわたる広大な領地はほとんどが信長の手に落ちた。
そこは中腹にある「惣見寺」へ続く石段になる。
蜂須賀小六の言うとおり、光秀には大軍を率いて野戦で勝敗を決した経験が無い。
丹波を平定するいくさも城攻めばかりだった。
順慶が動かないのは、大きいわな。
秀吉は思う。筒井順慶が光秀の軍勢に加わっていたら、その兵数はかなり大きくなっていただろう。しかもこちらは、大和から別働隊がきて背後を脅かさないかと、心配しなければならなくなっていた。ところが順慶は、使者を送ってきて恭順を誓っている。
順慶が動かなかったのは、決して主殺しという謀叛に大義名分がないから、というだけではない。光秀が勝つという見通しが立たなかったからだ。
そもそも信長を倒したとて、その後、すべてがうまくゆくわけではない。
もはや信長は天下人であり、城や領地を取り合うそこらの国人や大名ではないのだ。信長を倒したあとは天下を治めなければならないが、主殺しの罪人の汚名を着て天下を治められるわけがない。いずれは誰かに討たれ、信長の後を追うことになる。
~本能寺の変の半月前~
徳川家康の一行は5月15日に安土に到着した。総勢30名ほどだった。
こういう賓客のために、安土山の中腹には豪華な宿所がいくつかある。
そのうちの惣見寺の中にある大宝坊というところに、家康一行は足を休めた。
「これはこれは、惟任殿がおんみずからいらせられるとは、恐れ入りまする」
「かたじけなし。よしなに願いまするで」
大名といっても普通の旅ならば、運が悪ければ野宿、よくてもせいぜい土地の寺に入り込んで雨露をしのぐ程度だ。ところが今度の家康の旅は信長の肝煎りなので、沿道の大名小名が競って新しい宿所を建て、一行に提供したと聞く。
家康と信長とは長年、誼(よしみ)を通じてきた仲とはいえ・・・
宿敵であった武田家を討滅したとはいえ、関東には北条がある。まだまだ家康には使い道がある。すぐに討たれるようなことはないだろう。
「今年は春から浅間山が焼けるなど、奇異なことがあったゆえ、どうなることか案じておったが、いま思うとあれは武田が滅び、上様の世になるという吉兆であったな」
「そういえば、先月も奇妙な雲が出ましたな。ご覧になられましたかな」
「それは・・・ほうき星であろうな」
「雲でなく、星でござるか」
「唐土(もろこし)の書には、凶兆として出ておるが・・・」
今宵の酒宴は大宝坊で行う。
おれがしたことといえば、5月の炎暑で買い込んでおった魚の中に異臭を発しているものがあると騒ぎになっていたのを、気にするなと言ってやったくらいだ。おれには腐った臭いなど嗅ぎとれなかった。
「あとで書状を出す。これで那波の件は落着させよ。ところで内蔵助じゃが」
「内蔵助が那波を誘ったようじゃの。となれば曲事だわ。罰を与えねばならん。汝に言い分はあるか」背に戦慄が走った。
「どうした、惟任!」
「なにとぞご堪忍を。あれが欠けては丹波の支配もままならず、いくさの指図にも障りがございまする。無礼の段、それがしより言い聞かせまするゆえ、なにとぞ」
「一反領地もない身から引き立ててやった恩を忘れたか!
わしが目をかけなんだら、うぬなどはとうに飢死しておるわ!」
「まことに、申しわけ、ありませぬ」
「内蔵助は、召し放つだけでは足りぬ。腹を切らせえ」
信長に打擲(ちょう‐ちゃく)されたのはこれで2度目だ。
主人でかつ天下人とあっては、いくら理不尽でも耐えるしかない。
そんな決して晴らせない憤怒は、腹の底に埋めてしまうしかない。
信長に足蹴りされたことまでは伝五たちにも伝えていない。
口に出すのも腹立たしいほどの屈辱だし、伝えたところでどうなるものでもない。
みなを心配させるだけだ。とはいえ今でも腹は煮えている。これをどう押さえ込むかは、またひと苦労しなければならないだろう。
「面つきは悪いけど、ええ人やに、のう」
たしかに内蔵助は頬から上唇にかけて赤黒い向こう傷があり、細く鋭い目と大きな鷲鼻とあいまって凶暴に見える。細長く顎の尖った顔つきは、蟷螂を思わせもする。
昨年、土佐の長宗我部元親は信長とまじまりを断った。
「猿の仕業と考えりゃ、合点がゆくわ」
中国を押さえるには瀬戸の海賊どもを押さえる必要もあるといって、秀吉は四国にも手を出している。淡路島に軍勢を出して全島を押さえたほか、阿波の三好康永とも接触している。
内蔵助を失えばおれの痛手は計り知れない。それは回りまわって秀吉の利益になる。
つまりおれは、蹴落とされかけているのだ。
息子の十五郎と阿古丸は元気だった。
子供の顔を見ていると、頭痛もおさまり気分が明るくなる。
歳をとってからの子はかわいいというが、真実だと思う。
嫁の藤之も相変わらずだった。
信長からの書状を開いてみると、まずは備中に集まっている毛利勢を討つが、その後は出雲、石見(いわみ)へ向かえとあった。
「なお、出雲、石見の二国を切り取ったなら、丹波と近江志賀郡は召し上げとなる。今年の年貢は収めてよいが、来年からは出雲、石見の年貢を取るように。かように上様はおおせじゃ。さようお心得あれ」
二国は、加増ではないのか。丹波と志賀郡を取り替えるというのか。
おれの坂本城を取り上げるというのか。丹誠こめて作りあげたこの城を。
おれはすわったまま動けなかった。
内蔵助をかばったときの、信長の怒りに満ちた顔が目の前に浮かんできた。やはり許してはいなかったのかと、妙に腑に落ちた。あの執念深い信長が、そうやすやすと怒りを解くはずはないのだ。
信長は、おれが近くにいるのが、邪魔になったのだろう。
こうなれば、嫌でも佐久間信盛の悲運が胸に迫ってくる。
2年前のあのときは、ちょうど難敵本願寺が和議をのんで、大坂石山の地を退散したあとだった。石山の囲みをといたあと、佐久間父子は次の働きの場を与えられず、奇妙な手待ちの間におかれた。そのあとに信長の折檻状が降ってきて、領国も城も何もかも取りあげられ、身ひとつで高野山へ追放されたのだ。そして昨年7月、行き倒れ同然に死んだと伝わっている。