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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

大名格差 江戸三百藩のリアル  安藤優一郎/著

2021年02月06日 13時16分17秒 | 読書・歴史


“参勤交代で他の大名に会いそうなら逃げよ”“将軍からのねぎらいの言葉にまであった格差”“将軍になるはずが越前松平家の数奇な運命”…お殿さまも楽ではない。幕府による巧みな大名統制戦略。

第1章 石高でみる格差(「石高でみる格差」の基本―表高と実高
4500石なのに10万石待遇 喜連川家の格付けにみる幕府の思惑 ほか)
第2章 将軍との関係でみる格差(「将軍との関係でみる格差」の基本―親藩・譜代・外様
御三家は御三卿に乗っ取られた?将軍を継げる家で起きた異変 ほか)
第3章 江戸城でみる格差(「江戸城でみる格差」の基本―日本最大の儀礼空間
駕籠から降りるか乗ったままか 格差で変わった登城風景 ほか)
第4章 江戸藩邸でみる格差(「江戸藩邸でみる格差」の基本―すべての大名が集う町
地元の石高が江戸藩邸の広さを決めた ほか)
第5章 参勤交代でみる格差(「参勤交代でみる格差」の基本―全国に広がる大名の序列
幕府の命も無視してド派手に プライドがかかっていた参勤交代 ほか)

幕府が大名の所領を認定する際は、石高で表示するのが習いであった。
その土地の生産力を米の量に換算したものであり、イコール実際の米の生産高ではなかった。
石高は幕府による検地という土地調査を経て確定した。これを表高(おもてだか)と称したが、幕府は表高を基準に軍役(ぐんやく)を大名に賦課している。
軍役とは島原の乱のような有事の際、諸大名に動員や調達を義務つけた家臣や武器の数。
参勤交代のときに召し連れる侍や足軽、人足の数も石高に基づき定められた。

実際の生産力は実高(じつだか)、あるいは内高と呼ばれた。
長州藩毛利家の表高は36万石だが、実高は100万石を超えていたともいわれる。

~~日本代表の箔を付けるため石高ゼロでも10万石待遇を得た対馬藩~~
■朝鮮外交を担うことで10万石の格式を得た対馬藩
所領に田地がなく、米がまったく収穫できなかったため「無高」と格付けされた大名もいた。
対馬藩宗家、松前藩松前家

対馬藩は釜山に日本人居住地を置き、朝鮮との貿易を手広くおこなった。日本の通用銀貨である丁銀を輸出する一方、中国産の生糸や絹織物、日本国内で需要が高まっていた朝鮮人参を輸入し、莫大な利益をあげる。高麗人参とも呼ばれた薬草。

朝鮮通信使の一行は400~500人にも達したが、幕府の応接は丁重を極めた。
江戸到着までの接待にあたったのは沿道の大名たちだが、10万石以上ならば接待費は自腹。
10万石以下なら幕府持ちと定められていた。接待業務とは一行の休憩・宿泊場所を用意して食事も提供することだが、その裏には朝鮮事情に詳しい対馬藩のアドバイスがあった。
とくに食事については対馬藩作成の「朝鮮人好物之覚」。
この覚書には「牛・猪・鹿などの肉、鯛・蛸・海老などの魚、大根・牛蒡などの野菜も差し支えない。塩魚や川魚はあまり好まない」といった豆知識が載せられていた。

松前藩主:蠣崎(かきざき)家。
渡島半島南西部にあたる松前を本拠を移した蠣崎家は、江戸時代に入ると徳川家康から蝦夷地の支配を認められ、松前と改姓する。

~~実は全国に大勢いた城を持たない大名たち~~
江戸時代の大名の場合、約半分は城主ではなかった。
1615年「一国一城令」

~~幕府も気を使っていた一国を治める大大名たち~~
「国持18家一覧」
国持大名の総石高は20数カ国で700万石を超えたが、幕末の政局に雄藩として登場する藩ばかりだ。薩摩・長州藩を筆頭に、幕府への対抗勢力として台頭するのは幕末史が明らかにしているところである。
加賀前田家以下の外様大名16家は、2つに大別される。
戦国大名の系譜を引く家と、信長や秀吉によって取り立てられた大名の2種類だ。
前者は島津家、伊達家、毛利家、上杉家、佐竹家などで
後者は前田家、細川家、浅野家、山内家などで、徳川家と同じく戦国時代に入って大名に取り立てられた。

徳川将軍家との関係で大名を格付けする際は、3種類で分けられる。
親藩大名・譜代大名・外様大名。
幕末の頃には大名の総数は270名弱で
親藩大名は20名強、譜代大名は150名弱、外様大名は100人弱。
親藩大名とは徳川一門の大名。
譜代大名とは、もともと徳川家に仕えていた家臣筋の大名。
外様大名は、家康が豊臣家に代わって天下人の座に就いたことで主従関係を取り結んだ大名。

「徳川四天王」
酒井忠次(ただつぐ)、本多忠勝(ただかつ)、榊原康政、井伊直政(なおまさ)

~~「江戸城でみる格差」の基本ーー日本最大の儀礼空間~~
諸大名は江戸在府中、幕府の役職に就いていなくても、定期的に登城して将軍に拝謁することに加え、慶事に伴う儀式に参列する義務があった。定期的な登城とは毎月定例日(1日・15日・28日)。拝謁や儀式のため総登城したとき、大名は1つの部屋に集められたわけではない。いくつかの部屋に分けられたが、その基準こそ幕府により格付けされた家格だった。控え室も実際に拝謁する部屋も家格により厳然と区別された。

家格により登城時の装束も決められていた。
将軍に拝謁する方式についても、単独(独礼)で拝謁できる大名もいれば、集団(立礼)でしか拝謁できない大名もいた。一国一城の主というプライドをもつ大名としては、登城するたびに他の大名との格差を思い知らされる。競争心にも火がついた。江戸城内はそんな競争心をあおる空間だった。

~~駕籠から降りるか乗ったままか、格差で変わった登城風景~~
一口に登城といっても、大名や御供の藩士たちには実に大変なことだった。
これが物凄い混雑を引き起こした。
病気などで登城できない場合は、その旨を届けておく必要があった。届け出もなく登城しなかったとなると、ただでは済まない。決められた日以外に登城することも「不時登城」として堅く禁じられた。
江戸在府中の大名すべてが縦隊の行列を組み、登城門に指定された江戸城大手門などに向かった。総登城である。170もの大名行列が、一斉に城へと向かった格好だった。総人数は1万人近くに達しただろう。登城までかなりの時間がかかり、拝謁の2時間前に出発していた。

登城行列の様子はまさしく壮観で、江戸の名物の1つだった。
わざわざ見物に来る者も多く、登城日の江戸城大手門前は江戸の観光名所として賑わう。
いわば江戸城への通勤ラッシュの光景が展開されていたはずだ。

自分より格上の大名の行列に出くわすと、道を譲ることが求められた。
殿様は駕籠から降りて挨拶しなければならなかった。
実際のところは、格下の大名が格上の大名と出会いそうになると、遠回りなどしてでくわさないようにしている。その分到着までの時間がかかってしまうのは避けられなかった。
この時代、拝謁の時刻に遅れることは決してゆるされない。
万が一遅刻すれば、幕府の懲罰がまっている。名誉と体面を重んじる武家社会において、遅参とはこれ以上もない恥辱だったはずだ。

■限られた登城門と下馬所
江戸城には多くの城門が設けられていたが、登城できる門は限られた。
大手門前の橋の手前に「下馬」という札が立てられていた。
この場所から馬から降りなければならないという指示である。
「大手三之門」::御三家以外は駕籠から降りる必要あり
「平河門」::大奥への出入り口
「不浄門」::城内の罪人・使者の出入り口
「半蔵門」::甲州道中へつながる門。山王祭の出車が入城した。
それでも家臣たちは下馬先で2~3時間は待たねばならなかった。
当然腹も減って、喉も渇く。
そんな需要に目をつけ、酒や寿司、蕎麦などを売る屋台が数多く大手門前などにやってくるのが登城日の定番の光景となっていた。
無聊(ぶりょう)を慰めるため、博打に興じる家臣もいた。
長い待ち時間に苛立ったのか、言い争いもみられた。
寝ころんでいる者もいたという証言もある。

■石高でお供の人数が制限された
三之門を駕籠のまま潜れるのは、徳川御三家と日光東照宮のトップである輪王寺宮だけである。
御三家との格差を大名に認識させる門だった。

■老中であっても太刀の城内持ち込みは禁止
大名は御殿にあがる前に、腰にさした両刀のうち太刀を抜き、供侍の一人に預けた。
御三家は城内の大広間の溜まりまで持ち込めた。

~~控えの部屋までランク分けーー大名たちの厳しい行動範囲~~
■将軍さえも制限された本丸御殿の行動範囲
■控えの部屋が将軍に近い者ほど幕政に深く関与

~~将軍に会うため部屋を移動ーー格差を視覚化した江戸城の儀礼~~
◎将軍主催の主な定例儀式(旧暦)
年始:1月1日~3日:新年のお祝い。格差に応じて登城日決定
八朔(はっさく):8月1日::家康が江戸城に入城したとされた日

五節句::徳川家の祝日として重んじられた日。諸大名は登城して将軍にお祝いを申し述べることが義務付けられた。
人日(じんじつ)1月7日
上巳(じょうし)3月3日
端午(たんご)5月5日
七夕(たなばた)7月7日
重陽(ちょうよう)9月9日

月次(つきなみ):月2~3回。定例の登城。

将軍に拝謁する刻限が近づくと、7つの殿席から各々の礼席に移動するが、主に3つに分けられていた。大広間、白書院、黒書院である。
大広間:500畳
白書院:300畳
黒書院:190畳

~~江戸城がもっとも慌ただしくなる江戸城の正月にみる格差~~
大名と固めの盃を交わす前に、将軍は家族と盃事を執り行っている。
最初の盃事の場は大奥で、相手は御台所だった。
元旦の朝、将軍は御台所とともに歴代将軍の位牌を礼拝した後、大奥で新年の宴を催す。
食事に入る前に御年寄のお酌でお屠蘇(とそ)を飲むのがしきたりだった。御年寄(4~5人)は大奥を取り仕切る奥女中で、老中でさえもその威光を恐れた実力者である。大奥のスキャンダルとして知られる絵島生島(えじま・いくしま)事件で有名な絵島は御年寄であった。

◆大大名は将軍と一対一で飲むことが可能
将軍の前には土器が置かれた。
将軍が飲み残した酒を入れる土器である。
盃のやり取りで主従関係を確認し合う以上、将軍も大名も一献は飲まなければならない。
こうした盃のやり取りは献酬と呼ばれた。
となれば、将軍は年始の挨拶にやってくる大名の数の分だけ飲まねばならないことになる。とても、一々飲み干せないため、飲んだふりをして手元の土器に空けてしまうのだ。

当時は大名が将軍に拝謁する際、従四位以上の官位を持っていれば単独で拝謁できた。これを「独礼」と称した。一方、従五位の大名の場合は集団という形でしか拝謁できなかった。これを「立礼」と称した。

~~日本一厳しい?江戸城における大名たちの服装マナー~~
◆官位の格差が示された儀式の服装

~~家のレベルに応じて変化ーー将軍からのプレゼントの中身~~
◆鷹狩りの成果は大名へ下賜(かし)
時服、菓子、亥の子(いのこ)餅は大名に対して一律に同じものが同じ量下賜されたが、家格に応じて拝領物に格差がつけられる場合があった。

将軍の行動範囲はほぼ江戸城内に限定されたが、御成(おなり)と称して城外に出ることもあった。鷹狩りというレクリエーションのような御成もみられた。
年に数回程度であったが、将軍が城外に出るとなると、その警備のため江戸は厳戒態勢に入る。あまり知られていないが、その日は朝から人々は火が使えなかった。火事が起きて城外に出てきている将軍の身の上に異変が起こるのを恐れたからである。

鷹狩りとは将軍用に飼い慣らした鷹「御鷹」を野山に放ち、鶴・雉・雁・雲雀などの鳥類や兎などを捕らえるものである。その際には、獲物となる鳥獣類を駆り立てる勢子として多くの農民が動員された。鷹狩りを楽しんだ江戸郊外の地(御拳場:おこぶしば)は、現在の東京23区域内に相当する。御拳場は6つに区分され、各区域に現地駐在の鳥見役が置かれた。

鳥見役の任務とは鷹狩りが実施できるような環境の整備だった。鷹の獲物が生息できるよう、農村での狩猟生活に統制を加えたのである。そのため、御拳場では原則として案山子を立てられず、鳥獣害に悩まされる農民にとり、迷惑この上なかった。挙句の果て、鷹狩りのときには獲物を追いかける将軍や供の者たちにより農地が踏み荒らされてしまう。

将軍による鷹狩りのメインは、長寿の象徴たる鶴を捕獲することであった。その鶴は京都の朝廷に献上するのが慣例となっていた。将軍が御成となる場所は隅田川の東側、現在の江東区・江戸川区方面だった。この時代には冬になると江戸郊外に鶴が舞い降りてきた。そのため幕府は鶴を餌付けする場所を設定する。1日3度、籾を5合ずつ蒔きながら鶴が餌付くのを待った、

鶴が餌付くだけでなく、人に慣れて近くを歩いても飛び去らないようになるt、現地駐在の鳥見から江戸城に連絡が入り、将軍のお出ましとなる。その時期は例年11月頃だった。
これを「御鷹之鶴」と称した。その後塩漬けにされた鶴は昼夜兼行で京都に向かい、朝廷に献上されることになる。

◆鷹狩りの獲物で格付けされた大名たち
鶴を毎年拝領できたのは、御三家と前田家だけである。
仙台藩伊達家と薩摩藩島津家は江戸在府のときのみ。
ただし、朝廷に献上された鶴とは違い、塩漬けされた鶴ではなかった。
切り身の肉が箱に入っているだけだった。
鶴を拝領できなかった大名には、江戸在府のときに鷹狩りで得た雁や雲雀が下賜されたが、これにしてもすべての大名ではない。雁と雲雀では雁のほうが高くランク付けされたが、その理由はわからない。

鶴を拝領できる、雁を拝領できる、雲雀を拝領できる、雲雀さえも拝領できないという4ランクで大名は格付けされた。最下位の雲雀となると30羽・50羽単位で下賜した。そのため、毎年数千羽が必要となるが、将軍一人の鷹狩りだけで調達できるはずもない。御拳場を管理する鳥見役が鉄砲で捕獲し、それを塩漬けして下賜した。

なお、鷹を賜った大名もいる。
御三家、加賀藩前田家、越前松平家、会津松平家、彦根藩井伊家などには帰国するときに下賜されたが、それだけでは済まなかった。国元では将軍から拝領した鷹で狩猟をおこない、その獲物を塩漬けにして献上することが幕府から求められていたのである。

◆将軍からの拝領品にはお祝いが必須
諸大名が拝領した鳥のうち、鶴の場合は拝領した各大名家が宴席の場を設け、家中で共食することになっていた。切り身で国元に送られた鶴は、お吸い物にして共食された。

~~御三家には丁重だが、ほかはぞんざい将軍からかけられる言葉にまで格差~~
将軍に拝謁する際、「面を上げよ」という言葉がかけられるシーンは時代劇でもお馴染みであろう。この言葉がかけられると、平伏する姿から一転、顔をあげて将軍の顔を正視するが、これは実際にはあり得ないシーンだった。
将軍に拝謁する際、顔を上げることは許されていなかったのだ。「面を上げよ」と声がかかっても、恐れ入って顔が上げられない振りをすることが義務付けされていた。

将軍との距離は現在の感覚では想像できないほど遠かったが、それは幕府の狙いでもあった。
そのため、将軍の肉声を聞く機会もほとんどなかった。年始のときの言葉「目でたい」と、参勤交代のときの言葉ぐらいだった。大名は帰国する際、将軍に拝謁して帰国の許可を得なければならなかった。

~~「江戸藩邸でみる格差」の基本ーーすべての大名が集う町~~
諸大名は江戸在府中の屋敷を幕府から下賜されており、これを俗に大名屋敷というが、建物は含まれていなかった。土地のみを与えられ、建物は自費で建てている。
1つだけ規制がかかった。
大名の格差に応じて、屋敷の門構えが定められたのだ。
格差は門構えのほか、屋敷の広さでも示された。
大名屋敷の格付けとして、将軍が訪問するか否かという基準があった。

~~地元の石高が江戸藩邸の広さを決めた~~
◆幕府から下賜された屋敷は無税
江戸の総面積は1,705万338坪で、そのうち武家地は1,169万2,591坪、町人地は269万6,000坪、寺社地は266万1,747坪、江戸は武士が住む武家地が約70%を占めた。

◆過密な男性社会
閉鎖的な空間であった大名屋敷には、いったいどれほどの人数が住んでいたのか。
土佐藩山内家の事例。
1684年、江戸藩邸に住む家臣の数は3,195人。
土佐藩は鍛冶橋の上屋敷に1,683人、芝の中屋敷に1,295人、品川の下屋敷。
上屋敷の坪数7,052坪、中屋敷は8,429坪。
3,195人のうち3,049人が男性であり、女性146人は屋敷に住み込みで勤務する奥女中だった。

~~江戸藩邸の見た目から大名のランクをわからせた幕府~~
◆屋敷を好き勝手に飾り立てることは禁止
大名は幕府から最低3ヵ所の屋敷を下賜されていたため、江戸には1,000近くの大名屋敷があった計算となる。江戸は大名屋敷街といっても決して言い過ぎではなかった。
幕府からは自分の格に応じた門構えにするよう求められる。

トップシークレットとされた大名屋敷の内部構造には、ある共通点があった。
大名と妻子そして奥女中たちが住む御殿は屋敷の中央部に置かれ、その周囲が藩士が居住する長屋で囲まれたことである。藩士たちは身をもって藩主を守る楯となり、屋敷が攻撃を受けたときには長屋で防戦することになっていた。いざとなれば、大名や家臣たちが立て籠もる軍事施設に大名屋敷は変身する。それが現実のものとなったのが、慶応3年、1867年12月に起きた薩摩藩高輪屋敷の焼き討ちだ。戊辰戦争の火ぶたは事実上切られた。

◆門構えで格差を視覚化
1年間、江戸勤番侍は長屋での共同生活を強いられたが、その間、屋敷の外にでることは厳しく制限された。外出は月4回に制限され、4回のうち2回は朝から夕方6時、もう2回は午後2時から6時までと定められていたとの証言もある。
勤番侍のように懐の寂しい者には、屋敷内に出入りする貸し本屋から本を借りるしかなかった。

~~「参勤交代でみる格差」--全国に広がる大名の序列~~
大名が参勤交代のため行列を組むとき、騎馬の侍の数や足軽、そして人足の数はあらかじめ幕府から指定された。行列をみればその大名の石高もおよそわかる仕掛けになっていた。

~~幕府の命も無視してド派手にプライドがかかっていた参勤交代~~
◆幕府が行列の人数を規定した意外な意図
加賀百万石の前田家などは、行列の人数がなんと4,000人も及んだ。

参勤交代の行列といっても、「本御行列」と「御道中御行列」の2つがあった。
「本御行列」は国元を出るときや江戸に入るときなどに組まれる行列。
後者は前者の3分の1から2分の1程度の規模であった。
一日平均32~36キロ歩いた。
大名行列というと、国元から江戸までの間を華やかな行列が行き来していたと思われがちだが、実際には国元と江戸でしか見られなかった光景だった。

~~他家との遭遇を回避せよーー大名行列の作法~~
◆大名行列の譲り合い
◆すれ違いの作法

~~不穏なエピソードが満載ーー宿のかぶりはトラブルのもと~~
◆本陣の譲り合い
日光社参の日程は次のとおりであった。
江戸城を出立した将軍は、初日岩槻城、2日目古河城、3日目は宇都宮城、4日目に日光に入った。日光には連泊し、その後同じ経路を取って江戸城に戻った。都合8泊9日の道中。
◆家格で決まった献上品の数量

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